ヨハネ2:1-11 『ぶどう酒の喜び』 2005/6/26 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書2:1~11
ヨハネ 2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

先週の予告どおり、前回のこども達の話の際にマシューさんがしてくれた、「カナの婚礼」の話を今日は学んでいきたいと思います。
私達が聖書ある箇所を読んで、その部分を学んだ時、もうそれで終わりかというとそういうわけではありません。聖書は読むたびに新しい発見があります。
それは、同じ箇所でも色々な視点から読み進んでいく事ができるということと、その度ごとに聖霊が教えてくれる部分が違うからです。
さて、先週マシューさんに、奇蹟ということに焦点を当ててお話をしていただきました。この箇所でイエス様が水をぶどう酒に変えるという奇蹟をするのですが、これが記録上、イエス様が公の場でなした最初の奇蹟ということになります。
イエス様が最初の奇蹟を起こした舞台を考えてみた時、そこは結婚式の場なんですね。

皆さんは結婚式というものにどの様なイメージを持っていますか?
今思えば、あれは人生の墓場への入り口だったなんて思っている人はいませんか?

ユダヤの文化では、結婚式はとても華やかで、楽しいお祭り騒ぎの場でした。
親戚一同ばかりか、村中の人々が集まり、何日もかけて新しいカップルを祝福するのです。
昔の日本では、結婚は神聖な、そして厳粛な儀式でした。でも今では日本でも同じようなイメージになってきていますね。
さてその様な舞台でこの最初のしるしは行われるのです。
イエス様がペテロたちと出会ってから3日ほどたった後、イエス様と弟子達がガリラヤのカナで行われた結婚式に呼ばれました。
そこにイエス様のお母さんであるマリアもいて、結婚式の手伝いをしているような所を見ると、イエス様の親戚の結婚式だったのかもしれません。


さて、本題に入っていく前に、ひとつのところに触れておく必要があります。
この箇所をそのまま素通りしてしまうのでは、皆さんの中にひっかかるものが残るのではないかと思うからです。
ぶどう酒がなくなったとき、母マリアはイエス様に「ぶどう酒がありません。」と言いました。問題はそのときのイエス様の返事なんですよね。
「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
なんというつめたい言い方だと思ったのではないでしょうか。
ここで、自分のお母さんのマリアを“女の方”と呼んでいることに関しては、驚く必要はありません。当時のユダヤの文化では、これは当たり前のことでした。
しかも、イエス様はこの時にはもう成人し、公の生活に入っていたのですから、自分の母親を「お母さん」と呼ぶことのほうがずっとおかしな事だったのです。
「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」という言い方も、実はそのことを表しています。
イエス様は、今はもう、マリアの子供としての役割は終わり、神の子として、天のお父様の御心に従って行動するのが自分の仕事なのだと言っているのです。そして、「私の時はまだ来ていない」というのは、天のお父様の御心がまだ示されていないという意味に他なりません。
そうなってくると、この箇所のニュアンスが随分変わってきますね。
ある聖書は4節をこの様に訳しています。
「すると、イエスは母にこう言われた。『お母さん。今は、救い主として天のお父様の御心に従って行動しなければなりませんから、天のお父様の御心でなければ、わたしには何もできません。それに、今はまだその事について、天のお父様の御心が示されていないのです。でも、どうぞご心配にならないで下さい。』」
これで随分判りやすくなりました。
でも、この時のマリアの態度がもっと重要なのです。
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
マリアはイエス様を信頼しきっていました。
マリアはイエス様を急かせる必要もなく、任せておけばいいということを知っていたのです。マリアは手伝いの人たちに言われた事をするように告げただけでした。
私達は自分の都合で、神様に願いを聞いてもらおうとはしていないでしょうか?
私達は自分たちの都合に合わせてイエス様に働いてもらうのではなく、イエス様に信頼し、主の時を待つ必要があります。
祈りが中々聞かれないといって焦る必要はありません。一番いいときは神様がご存知だからです。


さて、イエス様は水がめに水を満たさせると、その中の水をぶどう酒に変えてしまいます。
私達はこの奇蹟から二つのことを知ることが出来ます。
まず一つ目は、この奇蹟が創造主の御技だという事です。
先週のメッセージの中で、イエス様は神様の言葉、創造の源だという話をしたことを覚えているでしょうか?
イエス様のなされる奇蹟の多くは創造の力なしにはできないものです。
イエス様の奇蹟は、手をかざして病が癒されるというような次元の話ではない事が、聖書を読んでいると判って来るのです。
それを通してイエス様は、ご自身が神様でもあるのだということ、そしてその神様は世界を創造した神様なのだということを表しています。


しかし水がぶどう酒に変えられたというこの奇蹟は、結婚式の最中にぶどう酒がなくなって、マリアがお願いしたのでその必要を満たすためにイエス様が奇蹟を起こしたというだけの話ではありません。
この奇蹟を通して、イエス様はもうひとつのことを私達に伝えようとしています。
ぶどう酒に変えられた水はどこに入れられたのでしょうか。
6節を見て見てください。
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。 2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
その水が入れられたのは、ユダヤ人のきよめのしきたりによって用意されていた石の水がめでした。
ぶどう酒がなくなっていたのなら、ぶどう酒を入れていたかめなり樽なりがあったはずですが、それを使わなかったのはなぜでしょうか。
ユダヤ人のしきたりによって用意された水は、ユダヤ教の戒律やしきたりという何の喜びもないものを指しています。
それまでのユダヤ教の信者達は、人間が戒律を守ることによって、つまり前項を積み、清い生活を送る事によって救われると信じていました。
しかし、善い行いを通して自分を神様に近づけようとすればするほど見えてくるのは、自分がいかに聖くないかということです。
私達が真剣に取り組めば取り組むほど、真実をもって自分を見つめる時に感じるのは敗北感や無力感です。そのために心は傷つき、疲れ果ててしまいます。
イエス様はそれを、結婚式のための、喜びのぶどう酒に変えられたのです。
この喜びのぶどう酒こそ、イエス様の十字架と復活によって与えられる素晴らしい救いを表しているのです。
戒律やしきたりによって救われると教えているのは何もユダヤ教に限った事ではありません。仏教も、新興宗教も、根底にある価値観は同じです。
非常に残念な事に、どれだけ多くのキリスト教会がこの価値観に捕われてしまい、どれだけ多くの人たちの心を傷つけてきたか判りません。
聖書の中の真実は、救いは行いにではなく、信仰にあるということです。
私たちのように、天国に行くには値しないような者が、神様の恵みによって一方的に救われるんだということです。
そこにあるのは無理やり作った作り笑いではなく、つかの間の喜びでもなく、本当の喜びを、イエス・キリストは十字架と復活によって私達に与えて下さいます。
私達はぶどう酒の喜びをもって、イエス様を信仰していこうではありませんか。

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