ヨハネ7:1-13 『人の知恵、神の御心』 2005/08/07 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書7:1~13
7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」
7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。
7:11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。
7:12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。
7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。

皆さんは思いつきで行動して、失敗してしまった事はないでしょうか?
僕はよく衝動買いをしてしまうのですが、中でも本に関しては、欲しいものがあるとすぐに手を伸ばしてしまいます。
すべての本を読んでいるならいいのですが、これだけのペースで本をどんどん買っていくと、すべてを読むことなどできません。今うちには、ざっと数えるだけでも40冊くらいの、まだ読んでいない本があります。
押入れの奥に入ってしまっている本なども数え始めたら、100冊はあっという間に越えてしまうでしょう。
お金の無駄遣いどころか、住む所まで狭くしてしまっています。
一時は楽器が色々欲しくて、どんどん買っていったこともありました。
楽器は高いのでそう関単には手が出ないのですが、エレキギター、ベース、ハーモニカなど、結局ほとんど使っていない楽器が家の隅や、他の人の家でほこりをかぶっています。
あるいは、良かれと思って思いつきでいった言葉が相手を傷つけてしまうことがあります。
お金儲けのチャンスだと思って飛びついたものによって、お金を失ってしまう事があります。先週のワードショーでは、俳優の渡辺裕之(わたなべひろゆき)さんが資産運用会社の詐欺にあい、1億2千万を失ったというニュースが騒がせていました。
一方で、しっかり計画を立てていても失敗してしまう事があります。
皆さんの人生は、自分で作った計画の通りに進んでいるでしょうか?
あるいは、あれだけ欲しくて、綿密に計画し、時期をうかがい、苦労に苦労を重ねてやっと手に入れたものが、いざ手にしてみるとこんなものだったかと思ったような経験はないでしょうか。
私たちが正しいと思ってすること、考える事は、いつも神様の目にも正しいとは限りません。
人間の考えがどれだけ優れていたとしても、人間には限界があります。
しかし、神様の御心は人間の考える所よりはるかに高く、人間の思いの及ぶところではありません。
今日学ぼうとしているこの箇所では、私たちが直面しているそのような問題を取り上げています。

さて、先々週のメッセージでサマリヤを通ったイエス様は故郷であるガリラヤに到着し、しばらくの間ガリラヤの地に留まっていました。聖書にはこのように書かれています。

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

イエス様はユダヤ人がイエス様を殺そうとしていたので、恐かったのでしょうか?
ある異端の教会ではこういうところを持ち出してきて、イエス様が十字架にかけられて死んだのは、イエス様の失敗だったのだという人たちがいます。
しかし聖書全体を通して見ていけば、イエス様の十字架は最初からの計画であり、失敗などではない事がわかります。
このすぐ後のところでも、イエス様は結局ユダヤに行くということからもそれがわかります。
さて、これは仮庵の祭りの頃だったと聖書には書かれていますね。

7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

仮庵の祭りというのは、イスラエルの民の収穫感謝祭です。
実際にはイスラエルがカナンの地に入ってからの収穫を祝ったのですが、それまでの間、土地も持つことができずに荒野をさまよわなければならなかった40年という期間を思い出すための祭りでもありました。
先週でしたか、小西さんがお盆との関係を少し話してくださいましたね。
仮庵の祭りはイスラエルの祭りの中でも最も賑わい、人が集まる祭りのうちのひとつでもありました。
そのような楽しい祭りを前にして、イエス様の弟達は、イエス様にひとつの提案をします。

7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。 7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」

「これからユダヤでは本当に多くの人たちが集まる仮庵祭がある。
兄ちゃんがメシアとして一旗上げたいと思ってるんなら、皆が集まる仮庵祭に行って、そこで奇蹟を見せればいいんだ。」というわけです。
イスラエルでは他にも過越祭や初穂祭など大きな祭りがありますが、仮庵祭を選んだのにも意味がありました。
仮庵祭では伝統的に、ゼカリヤ書の14章が読まれます。
ゼカリヤ書を見てみましょう。

ゼカ14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
14:2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。

ここで言われる主とはメシヤ、つまりキリストの事です。
ゼカリヤによって預言されていた主の日、そこでメシヤがくるという宣言と共にイエス様が現れ、奇蹟を起こす。
これほどの演出は考えられないのではないでしょうか?
しかし、イエス様の弟達はこの時はまだ、信仰をもっていませんでした。
この時に弟達が提案した作戦は、この世の成功術だということがわかります。
弟達は、別にイエス様の事を「気が狂った」と思っていたわけではないでしょう。
ひょっとしたら、弟達にとってイエス様は、尊敬に値するお兄さんだったかもしれません。
弟達は思いやりを持ってイエス様のために、成功するための作戦を考えたのかもしれません。
しかし、それはイエス様にとっては、荒野で受けた悪魔の誘惑の言葉と、同じように聞こえていたのです。
イエス様が公の活動をされる前に、イエス様が荒野で40日40夜の断食をしていた時。イエス様は悪魔から誘惑を受けました。
断食をしてお腹をすかせているイエス様に、「お前が本当に神の子なら、この石ころをパンに変えること位できるはずだ。」と言ったり、「高い所から落ちても地面に落ちる事は無いはずだ。」とか、「もしひれ伏して自分を拝むなら、お前にすべての国々を与えよう。」などと悪魔はあらゆる手段を用いてイエス様を誘惑したのです。
十字架なしの、この世の方法を使っての、この世での成功は、イエス様にとっても大きな誘惑だったかもしれません。
悪魔は、いつも私たちの身近にいる人を通して、神様の御心とは違う安易な道へと私たちを誘惑するのです。
皆さんはどうでしょう。
自分がいい方法だと感じるままに行動してはいないでしょうか?
私たちも、いつでも主の御心がどこにあるのかを考えて行動する必要があります。

それに対するイエス様の答を見てみましょう。

7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」

イエス様が言った「わたしの時」とは、イエス様が十字架にかけられる時という意味です。
7章の冒頭で書かれているように、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしていました。
弟達はその状況を知らなかったのかもしれません。
あるいは、奇蹟の力があるのだから大丈夫だろうと考えていたのかもしれません。
いずれにしても、イエス様が十字架にかかり、私たちの罪を贖うために死ぬには、まだ機が熟していませんでした。
その一方で、「あなたがたの時はいつでも来ている」とイエス様は言います。
この世の生活の中で生きる人々にとって、神様に定められた特別な時というものはありません。今がチャンスだと思った時がその時です。
この世の生き方にどっぷりと浸かっているなら、世の人々はその人を憎む事はありません。
しかし、神様の方法に従っているなら、私達は人々に憎まれる事があります。
それは、私たちの存在が周りから浮いてしまうというばかりの事ではなく、私たちの行動ひとつひとつが、周りの人々が行っている悪を浮き彫りにしてしまうからです。

いじめというものに対してどの様に対応するかを考えると、この意味が少しわかり易いかもしれません。
いじめというのは陰険で、ひどい仕打ちです。
例えいじめの対象になる人物がどれだけ性格が悪かろうと、いじめという行為をする事の理由にはなりません。皆さんは、そう思いませんか?
しかし、ある人がいじめられている時に自分が加担していないと、自分までいじめられてしまう可能性が出てきます。
いじめている方が自分と仲の良い人だったりすると、そのような時にいじめという行為に反対する事はとても難しくなりますよね。
私たちがいつも神様に従い、神様と共に歩むなら、この世の生き方をしている人たちから変な目で見られたり、憎まれたりする事があります。
イエス様の弟達は、この世の価値観に流されていたので、世の人々が彼らを憎む事はありませんでした。しかしイエス様は、世の光としての存在それゆえに、人々から憎まれます。
私達は、そのような時に神様の道を歩み続ける事ができるでしょうか、それとも、この世の価値観に流されてしまう道を選んでしまうでしょうか?

イエス様は弟達を祭りに行かせ、結局は自分自身も祭りに出かけていきます。
10節には、イエス様は公としてではなく、内密に行ったと書かれていますが、仮庵の祭りのクライマックスでは、イエス様は群集に向かい

ヨハネ7:37「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

と大声で言っています。
何だ、結局弟達が言った様にしたんじゃないかということもできますが、
この時イエス様がされたのは、弟達が思っていたような自己主張のためのパフォーマンスではなく、真理に基づく神様からのメッセージでした。
仮庵の祭りというのは、農耕の祭りであると同時に水の祭りでもあります。
農耕と水自体が深く関係するものでもありますが、イスラエルが荒野をさまよう中で、モーセが岩をたたいて水を湧き出させたという出来事に習って、雨乞いのために祈る祭りでもあったのです。
その祭りの中で、イザヤ書に書かれた聖句を唱えます。

イザヤ12:3 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。

イエス様は、その命の泉が自分であるということを現したのでした。

魂に渇きを覚えている方はいらっしゃらないでしょうか?
イエス様は言います。

ヨハネ7:37「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

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