ヨハネ13:1-17 『あなたの足を洗う王』 2005/09/25 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書13:1~17
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。  
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
13:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。

実は先週のメッセージをした後、沢山の方から反響がありました。
色々な方々から質問を受ける中で、それぞれお答えしてきた部分はありますが、ホームページに掲載されているメッセージを見た僕の友人からも質問を受け、これはメッセージの補足をしなければならないだろうということで、今日は先週のメッセージの補足から入りたいと思います。
この様に、疑問がある場合はご遠慮なく僕にどんどん質問して下さい。
納得しないまま、その思いを溜めておくといずれ信仰に確信がもてなくなります。
今日のメッセージはわかりませんでしたとか、納得いきませんということは、失礼でも何でもありません。
中には神学的な部分での見識の違いがある方もいらっしゃるかもしれませんが、そうでない部分に関しては、僕にできる限り、納得いくまでお話したいと思います。

さて、多くの方々の中で疑問に残ったのは、“家族や自分の命を憎む”という御言葉でした。
まずはその箇所をもう一度見てみましょう。

ルカ14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

わたし達が使っているこの新改訳聖書というものは、2000年も前にヘブライ語で書かれたこの聖書を、ほとんど直訳で訳しています。
しかし、ユダヤと日本では文化も違い、その上時代的な背景も違うのですから、私達は聖書を読み解いていく上でかなり気をつけなければなりません。
まず最初に念を置いておかなければならないのは、イエス様は「憎みなさい」という事を言おうとしたのではないということです。
ユダヤ文化の表現方法は、言いたい事を強調するために大げさに表現する傾向があります。
例えば“衣を裂く”という表現が聖書の中に幾度も出てきます。これは怒りや悲しみを表現する言葉です。ユダヤ人は怒りや悲しみを表現するために自分の服を引き裂くんですね。
でも実際に服を引き裂かなかったとしても、“衣を裂いた”という表現を読めばユダヤ人には怒ってるんだということがわかるのですね。
あるいは、身近な人が死ぬというような悲しみに暮れる時には、“灰をかぶる”という表現があります。これも文化的に、本当に灰をかぶるということもあるのでしょうが、これは悲しみに絶望している時のユダヤ的表現方法です。
ルカによる福音書の中で使われている“憎む”という言葉を通してイエス様が言いたい事も、「家族や自分の命を憎みなさい」ということではありません。
ここで本当に言いたいのは、「家族や自分を憎む」という言葉の裏側にある、「イエス様(神様)を愛する」という部分です。
神様を愛するという事に比べたら、自分の命や家族の事は「憎む」と言っていいほど、それ程までにイエス様(神様)を愛しなさいということ。
結局ひとことで言えば、「イエス様を第一にしなさい。」ということを強調的に言っているわけです。
そういう意味では、新改訳聖書で訳されている「憎む」という言葉は、直訳すればそういう意味ではあるのですが、翻訳としてはまずい訳なのです。
僕が持っている聖書の中に、現代訳聖書というものがあります。
これは尾山令二という先生が訳された聖書ですが、直訳ではなく、意訳で書かれた聖書です。だから直訳では本当の意味が伝わらない所では言葉が補われています。
先ほど読んだ箇所を現代訳で読んでみますので、皆さんのお持ちの聖書と見比べて見てください。

現代訳 ルカ14:26 「だれでも、わたしのもとに来て、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分自身を愛する以上にわたしを愛するものでなければ、わたしの弟子になることはできません。

こっちの方が、ずっとわかり易いですね。
皆さんは自分自身やご家族の事を憎んでいないからといって心配なさらないで下さい。
むしろ十分に愛を注いで下さい。
家族や自分自身を愛してはならないのではないのです。
むしろ私達は家族や自分自身を愛する必要があります。これはイエス様ご自身が別のところで言っている事です。
しかしわたし達が全ての創造者である神様を愛し、神様と私たちを結ぶイエス様を第一にしていくのでなければ、本質から離れていきますよということなのです。

さて、いつまでも補足に時間を取られる訳にはいきません。これからの所では、わたし達がそれ程までにイエス様を愛する理由を、今日の箇所から学んでいきたいと思います。

ヨハ13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

私たちの神様は、ただ私たちを創造したということをひけらかして、「私を崇めよ」というような神様ではありません。
神様がまず、私たちを愛して下さったのです。
しかし私達は、神様に何をしてきたでしょうか?
私達は神様に管理をまかされた地球の環境を破壊しました。
私達は神様が心から尊いと思っている人々を傷つけ殺してきました。(戦争という肉体的な殺し合いだけでなく、私達はお互いの心をどれだけ傷つけあっているでしょうか?)
私達は神様が与えて下さった、自分の体の健康を食生活や過労、ストレスで害しています。
私達は神様の言葉を無視し、耳を傾けようともせず、存在すら否定してきました。
それだけではない、私たち人類は、神様が和解のために送ってくださった方を侮辱し、十字架にかけて殺してしまったのです。
神様が私たちを愛するに足る理由なんて、何もないのではないでしょうか?
むしろ、さっさと廃棄処分にされる理由はいくらでもあります。
しかしそれでも神様は、私達を愛すると言って下さいました。
私達ひとりひとりを高価で尊いと言って下さいました。
でも言葉として言う事なんて、誰にだってできることです。
イエス様はその愛を示すために、行動を通して、弟子達に神様の愛を伝えました。

13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

この当時、足を洗うというのは奴隷の仕事でした。
しかもユダヤ人の間では、同族人としてそんな事はさせられないという思いから、異邦人の奴隷にさせていたほど、足を洗うというのは卑しい仕事だったのです。
現代の平等な社会には卑しいからやらされる仕事などというものはないかもしれませんが、あえてどれ位衝撃的だったかを表現するなら、私達がトイレで用をたしたそのお尻を、イエス様が拭いてくれるというくらい衝撃的なことだったのです。
弟子達はおそらく唖然としたことでしょう。
ユダヤ人が待ち望んだメシヤ、彼らの先生であり、これから自分達の王となるはずの人物が、自分達の汚れた、臭い足を洗う。殆どの弟子達が言葉を失いました。
ペテロは、今起こっていることを何とか理解しようと必死でした。でも、イエス様の意図しようとしているところは全くわかりません。
ここでイエス様は、弟子達に少なくともふたつのことを伝えようとしていました。

ひとつ目は、イエス様が罪をきよめるのだということです。
罪というのは神様から最も遠い所にあるような、私達人間の中で一番醜く、汚いものです。
頑固で、自分の力ではどれだけこすっても決してきれいにならないその罪という汚れを、イエス様は十字架上の死と復活というご自分の尊い犠牲によってきよめてくださったのです。
足の汚れだったら自分で洗う事ができるかもしれません。
自分のお尻は自分で拭くことができるかもしれません。
しかし、イエス様はこの様に言いました。

13:8b「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

私達が自分の罪を自分の力できよめる事はできません。しかし、それでも私達が神様の恵みによる救いに頼るのでなく、自分の力で自分をきよめ、救い、天国に行こうとするのであれば、“あなたはわたしと何の関係もありません。”とイエス様は言っているのです。

僕は奈緒美のオムツを替えるときに、お尻を拭きます。
でも、大人のお尻を拭くということとはまったく違う事でしょう。
介護というのは大変な仕事だと思います。
他人の一番汚い所を拭き、洗ってあげなければならないからです。
愛がなければできることではありません。
イエス様は、私たちのお尻を自ら拭いて下さるほど、私たちを愛しているのです。
一方で介護される方も大変です。自分の一番汚い所、恥ずかしい所を他人にさらけ出さなければならないからです。
これも信頼がなければ、できることではないでしょう。
クリスチャンになるということは、私達がイエス様に、お尻を拭いて下さいとお願いする事です。皆さんはイエス様を、それ程信頼しているでしょうか?
もしそこまで信頼できていないのであれば、私達はイエス様の事をもっと知る必要があります。
それはイエス様について書かれた本を沢山読んで、キリスト教の教義を学ぶというような、知識の問題ではありません。
イエス様と個人的に出会い、イエス様という人柄に触れていくということです。
イエス様と日曜日の礼拝の時にだけ会うのではない。毎日、個人的に会って語り合うということが必要になってきます。
皆さんは、毎日イエス様と出会っているでしょうか?

さて、弟子達の足を洗うということを通して、イエス様が伝えたかったもうひとつの事は何だったでしょうか。それは12節からのところで、イエス様ご自身が語ってくれています。

13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。 13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。 13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。 13:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。 13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです

今度は私達が、互いに足を洗い合うということです。
これはもちろん、文字通り足を洗い合うということを意味していません。
また、イエス様がして下さったように、罪をきよめるということも、私達がお互いにできるようなことではありません。
これはメシヤであるイエス様が身を低くして下さり、愛を持って私たちの足を洗って下さるということを示しています。互いに身を低くし、愛し合いなさいとイエス様は言っているのです。
私達はどうでしょうか?
私達は愛する相手を選んでしまってはいないでしょうか?
気の合わない人とは、虫の好かない人とは、自分を愛してくれない人は切り離してしまうのではないでしょうか?
しかしイエス様がいう愛とは、相手の一番醜いところに触れ、それでも愛し続けるということです。たとえ相手に愛されなくても、たとえ裏切られても相手を愛するということです。
ここには、この場に裏切り者のユダもいた事が記されています。
イエス様は、ユダがご自分を裏切るということを知っていてなお、ユダの足を洗うほどユダを愛していたのです。
「あなたの敵を愛しなさい」といったイエス様ご自身の言葉通りです。
私達にそれが出来るでしょうか?
できません。当然です。それが人間です。
私達は普通、自分が否定され、迫害されてもなお、相手を愛し続けることなんてできないかもしれません。
でも、イエス様が私たちを愛して下さっています。
イエス様が私たちを裏切る事は、決してありません。
私達が世界中の人間から憎まれていたとしても、イエス様は私たちを決して見捨てません。
私達がその愛を信じて生きていくなら、今は愛せない様な人たちのことも、いつか愛する事ができるようになっていくのです。
今の私達にすぐ出来ることは、私達の敵たち、愛する事が難しいと感じる人たちを、“愛そう”と思う気持ちを持つということです。その想いを、イエス様はごらんになります。
最後にイエス様は言っています。

13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです

皆さんに大きな祝福がありますように。

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