ヨハネ14:1-11 『父を見せてください』 2005/10/02 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書14:1~11

何度も同じような話をしてきていますが、私達はどんなにクリスチャンであろうとなかろうと、どれだけよい行いをしていようと、罪を犯していようと、人生の中で困難を経験します。
私達はすべてが順調にいっているときにはそれほど深く、物事を追求しませんが、困難に突き当たると、途端に色々な事を考え始めます。
信仰を持っている自分がなぜこの様な目に合うのか、あんなにいい事をしてきたのにどうしてこんな事ばかり起こるのか、そしてこれから自分がどのようにして、何を頼りに生きていったらいいのかわからなくなってきてしまいます。
皆さんにはその様な経験がないでしょうか?
2000年前にイエス様の弟子達は、イエス様の十字架を前にして不安の中にいました。
イエス様は急に十字架に架けられてしまって、弟子達がショックを受けて信仰を失ってしまうということがないように、何度にも渡って「もうすぐ分かれるときが来る」という事を弟子達に伝えてきました。
弟子達は、イエス様がユダヤ人の王になるのだと信じていましたから、まさかイエス様がこれから死ぬ事になるなんて思っても見ません。
でも、イエス様の言葉が少しずつ彼らを不安にしていったんですね。
私たちが不安を感じるのは、これから先に何が起こるのかがわからないからです。
特に大きな問題にぶつかった時には、次のことが予測できませんからますます不安です。
この様なとき、みなさんはどのように行動するでしょうか?
問題から逃避して、忘れようとするでしょうか。
お酒に頼ったり、趣味や仕事に没頭したり、あるいは誰かに慰めてもらおうとするかもしれません。相手が両親であったり、恋人であったり、自分の子供であったり、とにかく問題の事は考えないようにして、「なるようになるさ」と決め付けてしまいます。
あるいは自分の力で解決しようとするでしょうか。
しかしこれからの状況が予測つかないのですから、自力での問題からの脱出はほとんど話しになりません。
弟子達がそのような先行き不安の中にあった時、イエス様は彼らに言いました。

14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

これからあなた達は、師であり、主である私が十字架に架けられて死ぬのを目にするだろう。しかし、恐れてはならない。心を騒がしてはならない。
弟子達には、そして私たちの目には、待望のメシヤが十字架に架けられて死んでしまうということは、悪魔に対する敗北のようにしか見えません。
これから起ころうとしていることが、絶望としか見えないとき、心を騒がせずにはいられないその時、イエス様はこのように言うのです。
「心配しなくても大丈夫だよ。神様を信じなさい、また私に信頼しなさい。」
私たちの目に見えるのは、これから主が、十字架に架けられるという絶望と、自分たちの上に降りかかってくる数々の苦難です。
なぜ私達が神様とイエス様に信頼すればいいというと、イエス様が十字架に架けられるということは敗北を意味しているのではないからです。

14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

イエス様は私たちのために、天国に場所を備えに行くのです。
そしてそれが終わったら、必ず私は戻ってきて、今度はあなた達をそこに迎えるよと、イエス様は言っています。
そこには、十分に住まいがありますから、私達は競争してそこにはいる必要はまったくありません。
イエス様の十字架がそのような意味のことであり、死を恐れる必要がないなら、弟子達は平安を持って主の十字架に備える事ができます。天国には十分な場所があるのですから、自分が救われるために必要な事をできたかどうか、心配する必要はありません。
どのような絶望的な状況も、神様の計画の内にあり、そこに神様の御心があると信じるなら、私達はどのような時にも、心を騒がせる必要はないのです。
だから、神様を信じてください。
イエス様に信頼してください。


預言者イザヤは、メシヤ何のために地上に来られ、どのような生涯を送るかということをこの様に預言しています。

イザヤ 53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

これはもっとも有名な箇所ですが、ここ以外にもメシヤがどの様な最後を遂げる事になるのか、そしてそれこそが神様の計画なのだという事を、私達は旧約聖書の中でいくつも見る事ができます。
弟子達は、イエス様が何者かということを知っている。そして、メシヤの生涯は旧約聖書にも書かれていることですから、

14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています(ね)。」
とイエス様は弟子達に念を押しました。
しかし、少なくとも理屈っぽくて慎重派のトマスには、その意味が判らなかったようです。
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

トマスの頭が悪かったのではありません。
この世においてどんなに優れた人であっても、賢い人であっても、霊的な事になってくると知恵や知識では理解ができないものなのです。
頭のいい人に福音が理解できないという訳ではありませんが、自分の知性を頼りに御言葉を理解しようとすると、信仰を見失ってしまいます。
日本には勉強熱心で、まじめな方が沢山いますが、本当に多くの人々が聖書を学問的に勉強し、科学的な視点で理解しようと研究していった結果、クリスチャンというのはまじめで、正しい事だけをしようとする、伝道熱心な人という印象が根付いてしまったのです。
しかし何とおおくのクリスチャンが、結局は神様を信じていなかったり、奇蹟を否定するのを聞くことでしょうか?
トマスもまた、そのような一人だったのではないかと思います。
イエス様はトマスにこのように言いました。

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

道、真理、命とは、律法を研究する多くのユダヤ人たちが、聖書の中に答を求めてきた事です。そして聖書の著者達が、何世代にもわたって神様に問い続けてきた、永遠のテーマです。
聖書を研究し、学ぶ人々は、「神に至る道はここにある」とか、「これこそが真理だ」とか、「このようにすれば永遠の命にたどり着く事ができる」ということを長年論じあってきました。
しかしイエス様の「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」という言葉はこれらの議論をすべて吹き飛ばしてしまいます。
私達が道や真理やいのちを知るためにするべきことは、それについてよく考え、学び、悟るということではありません。
見る事ができない神の形である、イエス様と出会い、個人的に知るということが、答えにたどりつく唯一の方法なのです。
福音や救いというものは、どれだけ説明されても、理屈で考えても、決して理解する事はできません。しかし、私達が今も生きているイエス・キリストに出会うなら、すべてを理解し、納得する事ができます.
イエス様と出会う最も簡単な方法は、聖書の中に見出す事です。
聖書の意味を調べたり、勉強するのではなく、御言葉を通して私達に語りかけてくださるイエス様の声に耳を傾けて下さい。
誰もが必ず、生きたイエス様をそこに見出す事ができるはずです。


今度はピリポがこのように言いました。

14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

クリスマスがこれほどまでに世界中で祝われているのは、
私たちの創造主である神様が、何の力もない幼子(おさなご)に宿り、私達と同じように楽しみも、苦しみも、共に経験してくださるというその愛のためでしょう。
ピリポを初めとする弟子達は、イエス様と3年間の月日を過ごしていました。イエス様がメシヤである事も知っていたし、多くの奇蹟も目にしましたが、イエス様が十字架に架けられて死ぬまでは、結局イエス様と神様が一体であるということを理解しませんでした。
私達もまた、ピリポたちと同じ過ちを犯しているかもしれません。
「父を見せて下さい。」と言ったピリポが、すでにイエス様を通して神様を見ている事に気がつかなかったように、私達は日常の中で多くのことを見過ごしてしまってはいないでしょうか?
奇蹟は私たちの身近にあります。
イエス様は、いつも私達と共にいます。

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