ヨハネ17:1-3,20-26 『主にあってひとつになる』 2005/11/06 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書17:1~3、20~26
17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

① イエス様の祈り
イエス様の、弟子達への話は終わり、後は十字架を待つばかりとなりました。
その時を迎えるに当たって、ヨハネによる福音書の中に最後に記されているのは、祈りです。
わたし達も日々、人と接するなかで色々な事柄を相手に伝えなければなりません。
例えばそれが、人の過ちを指摘しなければならない時、相手に直して欲しいことがあるときにそれを伝える事というのは、とても難しい事ではないでしょうか。
相手は怒るかもしれない、傷つけてしまうかもしれない。
相手の人が返って気にしてしまったらどうしよう。
そのような事を感じられる方もいらっしゃるだろうと思います。
人に注意したり、要望を伝えたり、悪い事は悪いということを言える方もいます。
しかしそれを伝えたからと言って、相手が変わるとは限りません。
自分の悪い習慣を指摘されたからと言って、あるいはこのように生きなさいとアドバイスされたからと言って、簡単に言われたとおりにできるわけではないのが実際のところです。

僕は大学生の頃から、人の悩みを聞くことがすごく多かったんです。
それで、その度に色々なアドバイスをして、ああしたらいい、こうしたらどうか、君はこういう傾向があるんだから、この方があっているんじゃないか。
自分がその立場だったらどうするかということを考えて、具体的な解決策、問題の答を僕が教えてあげているつもりだったんですね。
でも、誰も僕のアドバイスどおりにはしないんですよ。
その話をしたときには、みんな納得するのですが、その時だけのことなのです。
それは、その意見が僕のアイデアなんであって、その人自身の行動理念に適っていないからです。僕のアイデアどおりにできるんだったら、だいたい最初からその様な問題を抱えていないんですよね。
結局、人を変えることはわたし達にはできないということです。

イエス様も弟子達に多くのことを話しましたが、弟子たちはその通りにはできませんでした。イエス様でさえ、弟子達を変えることはできなかったのです。
考えてみれば、イエス様にできなかったことを、わたし達ができるはずがないですよね。
イエス様がしたように、私たちにする事ができるのは、その人のために祈るということです。
ですから今日学んでいくイエス様の祈りには、イエス様がわたし達に伝えたかった、しかし言葉ではなかなか伝わらない事が原液のようにつまっています。
今日はイエス様がなされた祈りの中から、“ひとつになる”ということを中心として、一緒に学んでいきたいと思います。

② イエス様と神様はひとつ
さて、私達は皆、罪人として生まれてきたと聖書は言います。
しかし、わたし達には中々それが理解できません。それは、わたし達が当たり前のように持っているものだからです。
皆さんが普通に考える罪とは、悪い行いの事かもしれません。だとすれば、悪い事をしなければ私達には罪がないということになります。
しかし、聖書が教えるのは罪とはそういうものではないということです。
聖書が教える罪の根本は、私達人間が、創造主である神様を知らないということです。
ですから旧約聖書では、繰り返しその事が伝えられてきました。
あなたの神を知りなさい。神を畏れなさい。あなたではなく、神が中心なのだということを知りなさいと、イスラエルの人たちはその事を繰り返し聞かされてきて、彼らの役目はそれを世界中の民族に伝えるということだったのです。
しかし、イエス様がわたし達に伝えたかったのはそれだけではなかった事を、私達はこの祈りを通して知る事ができます。

17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

イエス様は、神様とともに、神様が遣わされたイエス様を知る事が救いなのだと言ったのです。ユダヤ人たちには、これは神に対する冒涜以外の何者でもありませんでした。彼らがイエス様を十字架にかけたのは、この様な発言の数々にあったかもしれません。
しかし、これはわたし達にひとつの真実を指しているのです。
それは、イエス様が神様に遣わされた神の遣いに留まるのではなく、神様とイエス様とは一体なのだということです。

神様という存在を認識して、信じるということはそれ程難しいことではありません。どの文化も、神様という存在を何らかの形で認識して、信仰を持っていることからして見ることができるでしょう。
しかし、神様がどの様な存在であり、何を考えているかということを理解する事はとても難しいのです。
世界中で信じられている神という存在が、土地や文化によって全然違うということを私達は見ることができます。
その様な差が出てきてしまうのは、神様という存在があまりに大きすぎて、人間の理解を超えてしまっているからです。
ひとつの現象に対する解釈が、それを見る人ごとに変わってきているのです。

ある人が皆さんの所にきて、突然お金を渡して、何も言わずに去っていったとします。
皆さんはそれをどの様に考えるでしょうか?
状況によっても違うでしょう。貸していたお金を返してくれたのかなとか、お金に困っているのを誰かから聞いたのかなとか、何か裏があるんじゃないか、お金をくれる代わりに何かを要求されるのではないかとか、色々な考え方があるでしょう。
神様と私たちの関係はこの様なものです。
神様から何かを一方的に与えられ、時には取り去られ、それがなぜなのかという答えは与えられません。
その人がどうしてお金を渡したのかという理由を知りたかったらどうしたらいいですか?
その人に聞いてみればいいことですよね?
しかし相手が神様では、存在があまりにも違いすぎて聞くことができない。
だから、イエス様が必要なのです。
だから、神様が人間の形をもって、私達とコミュニケーションを取れるようにならなければならなかったのです。
イエス様と神様がひとつであるということは、こういう事です。
私達は同じ体と意思をもったイエス様が私達とどのように接して下さるかを知る事によって、神様が私たちをどの様に見てくださっているのかを知る事が出来ます。
それを知る事が大切なのです。
イエス様は、私達にその事を知って欲しい、イエス様と神様がひとつなのだという事に気がついて、信じて欲しいと願っています。
誰かの推測ではなく、状況によって変わってしまう解釈ではなく、神様からの言葉を直接、私達は受け取らなければなりません。

③ 私達がひとつとなる

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。 17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。 17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。 17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

イエス様が願われたもうひとつのことは、私達イエス様を信じるものがひとつになるということです。
このことを考えた時、私達は過去にキリスト教会がしてきた事に対して考えさせられます。
キリスト教会は歴史において、初代教会は西のカトリックと、東の正教会に別れ、カトリックはさらにプロテスタントと別れ、プロテスタント教会に至っては数え切れないほどの分裂を繰り返し、互いに否定し合い、争ってきたからです。

この様な状況を生んできたのは、この箇所を通して、私たちが同じ神学を信じ、同じ形の信仰を持たなければならないという誤解をしてきたからではないかと思われます。
イエス様は、私たちが同じ企画に統一されることを願っているのはないのです。
私達はそのことをとても誤解しやすいのです。
特に私達に日本人は、みんなが同じでなければならないという幻想に捕われやすい民族のように思えます。
日本人は元々、和を重んじる国民性として知られてきました。
しかし和というのは統一されているということとは全く別のことなのです。
和音というのは音の和と書きますが、この言葉を考えてみればわかりやすいと思います。
和音というのは例えばドとミとソという3つの別の音が一緒に鳴る事によって初めて和音になるのであって、ドばかりが3つ重なっても和音とは呼びません。
このように和というものは、それぞれ別の個性をもつものが互いを生かし、より大きくなっていくものを和というのです。
イエス様が私達クリスチャンの間にあることを願ったのは、まさにこの“和”に他なりません。
それは、私たちが主にある兄弟姉妹、主にある家族であるということです。
あるいは、教会という神様のひとつの体に結びつけられているということです。
まったく違う個性を持つ私たちを結んでいるのは、愛だと聖書は私達に語っています。

コロサイ 3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

私たちは、愛によってひとつに結ばれているでしょうか?
自分と気が合わない人たちを阻害しようとしてはいないでしょうか?
自分に利益をもたらしてくれる人とだけ付き合おうとはしていないでしょうか?
私達は互いを“正しさ”という行動基準によって判断しようとしてはいないでしょうか?
聖書は正しい人間なんてひとりもいないと教えています。
私たちが正しさという物指しを持ち出した時に生まれるのは、争いと分裂だけです。
私達は正しさによって行動するのではない、私達クリスチャンに求められている行動基準は愛なのです。
愛するということは、忍耐する事ができるということです。
愛するということは、人の違いを認めることができるということです。
愛するということは、人の弱さを理解する事ができるということです。
愛するということは、人の悪を思わず、赦す事ができるということです。
私達は愛した時に、別々の存在である私たちが一致を持っていくことができます。

そうは言っても、愛するということは難しい事ですね。
なぜ難しいのでしょう。それは、私たちの中に自己中心という罪があるからです。
人を愛する事が難しいということを考えるだけで、私達がいかに罪深い者であるかということがわかりますね。
正しさという観念で言うなら、私達は愛される価値のないものです。
しかし、そんな私たちを、イエス様は無条件に愛し、その罪を赦して下さるのです。
イエス様は私たちにその愛を伝えるために、十字架にかかり、命をかけて愛して下さいました。
どうでしょうか、その愛を考えるなら、私達も少しは他の人たちを愛する事ができるのではないでしょうか?
今、すぐにできないということを嘆く必要はありません。
イエス様は忍耐を持って、私たちのために待ってくださいます。
イエス様は、私達がイエス様とは違うということを認めてくださいます。
イエス様は私たちの弱さを理解して下さるからです。
イエス様は、私たちの悪を思わず、私たちを赦して下さるお方だからです。
そして何よりも、イエス様ご自身があなたのために祈って下さっています。
私達はすぐには変われない、しかしイエス様ご自身が、私たちのために祈って下さっています。
義人の祈りは聞かれると聖書は保障しています。
イエス様ほどの義人は、他にありえません。
その、イエス様があなたのために祈っているのです。
焦らなくても大丈夫。
私達はきっと、人を赦し、愛する事ができます。
まずはイエス様がして下さったように、私達も互いのために祈る事から始めようではありませんか。

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