ルカ2:1-14 『馬小屋に産まれし』 2005/12/11

ルカによる福音書2:1~14
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

今日まで私達は、ヨハネによる福音書を通して、イエス様がどの様な事をしてきて、それがどの様な意味だったかを学んできました。
イエス様とはいったい誰でしたか?
イエス様とは闇に輝く光、見えない神の姿、私達に新しい命を与え、私たちを癒し、私達に日用の糧を与えて下さる方でした。
イエス様は神ご自身であり、神の子であり、救い主メシヤ・キリスト、神の国の王でした。
このヨハネのシリーズも今大詰めになってきて、これからは一番大切なところ、十字架による罪の贖いと、死ののろいから解放された証しである復活の話に入ってきます。
しかし今日はクリスマス礼拝だと言う事で、ヨハネのシリーズはまた少しお休みして、イエス様の誕生の事を一緒に考えていきましょう。

さて、先ほども言いましたが、私達はイエス様が神の子であり、救い主であり、神の国の王だと学びましたよね。
しかし、クリスマスのシーズンには一度は聞くことだとは思いますが、イエス様は馬小屋で産まれ、飼い葉おけに寝かされました。
王の誕生としてこの様な場所を、誰が想像できるでしょうか。
プリンス・チャールズや、愛子様は、少なくとももっと暖かい、清潔で、安全な場所で生まれたはずですよね。
神様が、救い主の誕生にこの様な場所を選んだのはなぜなのでしょうか?

2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

ひとつには、“宿屋には、彼らのいる場所がなかった”のです。
まぁ、しょうがない部分もありますよね。
当時は宿屋の予約制度がなかったのかもしれない。早い者勝ちでいったら、彼らは遅すぎたんです。ね、仕方がないじゃないですか。
でも、ここに書かれているのは、それだけの事ではないのです。

ヨハネによる福音書の1章に、このように書かれている箇所があります。

ヨハネ 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

“この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった”のです。
思えばイエス様の生涯は、まさにこの通りでした。
イエス様は生まれるときから、もうこの世から締め出されていた。ついには十字架にかけられて、この世から放り出されてしまった。世の人はこぞって、この神の子を排斥したのです。
造り主である神が、被造物である人間となって、自分の民の下に来たのです。それなのに、私達人間は、彼を受け入れなかった。十字架はまさにそのしるしです。
私達はどうでしょうか?
クリスマスはキリストのミサという意味の、キリストの誕生を祝う祭りです。
私達はクリスマスを、本当にそのように受け取っているんでしょうか?

このような話があります。
家内の同僚は、オペラ歌手のような美声を持っているのですが、ある年のクリスマス、広島でクリスマス・コンサートに呼ばれ、イエス様を賛美する歌を歌ったいました。
しかし、そこでそのコンサートの主催者はこう言ったそうです。
「今はクリスマスなのに、どうしてそんなにイエスの歌ばかり歌うんですか? もっとクリスマスの歌を歌って下さい。」

ある人は、クリスマスの時期に聖書を買おうと思って本屋に行きましたが、なかなか見つからない。
店員に聞いてみると、クリスマスなのでプレゼント用の本を棚に出すために、裏にしまってしまったと言うのです。
イエス様の誕生を祝う日のはずなのに、イエス様の事が書かれた聖書が隅に追いやられている。

日本のクリスマスはどうですか?
クリスマスは子供がプレゼントをもらえる日だったり、恋人達がロマンチックな時を過ごすための日になっていますね。
サンタクロースがイエス様の場所を追いやってしまっているように見えます。
サンタクロースもクリスチャンのはずなんですがね・・・。(笑)

「みんなクリスマスにはイエス様の事を考えよう!」という事を、声をあげて叫ぼうとしているのではありません。
イエス様はそのような方だということです。

マタイ 7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

日本に住んでいれば、クリスマスの季節にはイエス様の話を耳にする機会はいくらでもあります。しかし、イエス様を救い主として信じ、神様との関係を築く事が自分に必要だと考える人は決して多くはありません。
それは、私達の心をあまりにも他のものが占めてしまっているからではないでしょうか?
そして、イエス様がいるべき心の王座に、自分自身が座ってしまっているからです。
神の子を馬小屋に追いやってしまっているのは、私達です。
皆さんの心の中心には誰がいますか?
このクリスマスの季節、もう一度その事を考えて見てはいかがでしょうか?


イエス様が生まれた場所も、本当に貧しい所でしたが、イエス様の誕生に関わった人たちも貧しい人たちばかりでした。
イエス様の育ての親となったヨセフとマリアも、大工でしたから労働者です。
また、イエス様が生まれて最初に出産祝いに来た人々は、社会的にはとても下に見られていた羊飼い達でした。
なぜこの様な人々が選ばれたのでしょうか?
それは、貧しさや弱さを通して神様が働かれるためです。

I コリント 1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

私達は、自分が強いかのような錯覚を抱きやすい存在です。
現実を見れば、私達は人生で失敗を繰り返し、自分が全能ではないということをわかっているはずなのですが、心のどこかでは、自分の思い通りに全てを動かそうと努力したり、自分を自分の存在以上のものに見せようとがんばっています。
それでいつか幸せになれる日が来ると信じているのですが、幸せはいつまで経っても見えてきません。

これは全て、私達の無意識の中にある、自分が神になろうとする思いの中から生まれてくるものだからです。
私達は心のどこかで、頭が良くなければ、地位がなければ、運動神経がよくなければ、お金持ちでなければ、顔とスタイルがよくなければ、愛されない、生きていく事ができないと感じていないでしょうか。
これはクリスチャンであっても同じ事です。
多くのクリスチャンも、やはり同じ価値観の中に捉えられてしまっています。
これだけまじめなのだから、これだけ良い行いをしているのだから、これだけ献金をしているのだから、これだけ聖書を読んでいるのだから、これだけ祈っているのだから、神様は私をかえりみてくださって、愛して下さるはずだ。そのように感じてはいないでしょうか。

その価値観で生きていて、調子のいいときはいいでしょう。
むしろ自分は特別な存在であるかのように感じるかもしれません。
自分だけが勝ち組としていることができる状態は、本当に気持ちがいいものです。
しかし、何かうまくいかなくなってしまったとき、自分には価値がないと感じてしまうのではないでしょうか?

皆さんの価値は、他の人との比較の中にある相対的なものではありません。
私達は自分が神ではなく、創られたものであり、自分の中の弱さや貧しさに気づき、それを認めたときに初めて、神様が私達の中に見出している本当の価値にも気がつく事ができるのかもしれません。

新約聖書の中、ほとんどが労働者だったイエス様の弟子としては、ずば抜けてエリートだったパウロがこの様に言っています。

II コリント 12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

この世界に生きていて、弱さを誇るということは普通では考えられない事です。
しかしこのクリスマスの季節、私達は、私達と共にイエス様がいて下さるのだという事に想いを馳せ、むしろ自分の弱さを誇る事のできる信仰を身につけようではありませんか。

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