創世記1:26-31,2:7-2:8 アイデンティティ2『神に似せられたもの』 2006/02/12 松田健太郎牧師

創世記 1:26~31、2:7~2:8
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。 1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。
1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

先週に引き続き、神様の創造の話です。
今日は、特に人間の創造に焦点を当てて話をしていきたいと思います。

人間は動物の一種である。
人間と、他の動物との違いは、種としての区別だけであるいというのが、進化論が唱える価値観です。
しかし聖書は、人間と他の動物を明確に区別しています。

第1に、神様は熟慮して人間を創造したということです。

1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

他の全てのものが次々と創造されていく中、人の創造に関してだけは、神様が何を意図して創造したのかということが記されています。
そして2章の7節には、具体的にどのように人類が創造されたかということまでもが記されています。
ダビデがこのような歌を作り、神様に問いかけるのも無理はありません。

詩篇 8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

それは神様の創造の中心に人間がいる事を表しているのです。
神様は、人間が生きていくための環境として、この世界の全ての物質を創造したのだという事です。
実はこのことは、クリスチャンでも何でもない科学者の多くが、同じように感じ始めている事でもあるのです。
一方では進化論を通して生命を説明しようとしている科学者達が、突き詰めていくとこの宇宙の全ての法則、位置関係やバランスが、すべて人類が生まれるということを意図して出来上がったとしか思えないほど絶妙に出来ていると考えています。
まったく、人類とは何なのでしょうか?

その質問に答えていく前に、もう一つ生まれてくるだろう疑問に答えておく必要があるでしょう。
それは、ひとりしかいないはずの神様が、どうして“われわれ”と複数形で話しているのかということです。
実はここに出てくる“神”という言葉自体も、ヘブル語では複数形で表されています。
これは今話したい趣旨とは違うので簡単にしかお話しませんが、ひとつにはユダヤ人的言語の使われ方で、完全な存在である神様は、ひとりであっても複数形として表記されるようになっているということであり、更に言えばここに三身一体の神様が表現されているということもできるでしょう。

さて、他の動物とは区別されて創造された人間の第2の違いは、
人間は、神様に似せられて創られたということです。
それでは“人が神に似せられた”とはどういう意味なのでしょうか?
人が神に似せられた部分に関しても、いくつかの事を挙げることができますが、これは決して神様に実体があって、姿かたちが似せて創られたという意味ではありません。
ひとつには、人間は霊的な存在として創造されたということです。
この“霊”という言葉を説明するのは難しいので、ここでは詳しく話しませんが、肉体という器が滅んでも、“霊”という人格の部分は滅びることがない永遠の存在なのだと考えておいてください。

ふたつめに、人間は神様と交わりを持つ存在として創造されたということができます。
三位一体の神様が、父なる神、子なるキリスト、聖霊の間で交わりを持つことができるように、人間も神様と交わりを持つことができます。
神様が霊であり(ヨハネ4:24)、人が霊的存在として作られたから、人間は神様を求め、礼拝し、神様と人格的に交わりを持つことができるのです。

他にも、人間が神に似せられて創造されたということに中には、人間が知的存在として創られたということや、道徳的存在であるということ、そして自由意志を持っているということが含まれています。

人が神に似せて創られたということを、まとめてひとことで言うなら、『神は人をご自分に似せて、理性と道徳をわきまえる不滅の霊を持つ者として創造された(現代訳1:27)』と言うことができるでしょう。
それではそれに続く箇所を見てみましょう。

1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

このように、人間は神様から祝福を受けました。
他の動物と区別して創造された人間には、万物を治め、地のすべての動物を支配するという特権が与えられます。
それは人間が自己中心的な独断と欲望のために支配するということではなく、神様の意思と計画を理解し、地上で神様の計画を実行する役割を与えられていたということです。
この世界が人間のために創られたからこそ、そこに人間の果たす責任も与えられた訳です。

 

さあ、ここでもう一歩踏み込んだ疑問をぶつけて見ましょう。
神様は、どうして私たち人間を創造したのでしょうか?
皆さんはどうしてだと思いますか?
これに関しては、創世記の中では触れてくれていないのです。

神様はひとりでは寂しかったのでしょうか?
それとも、自分の好き勝手に創って、手の上で弄ぶためでしょうか?

聖書は神様をこの様な方として表しています。

Iヨハネ 4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

神様は愛です。
愛そのもののような方なのです。
そして愛である神様には、愛する対象が必要となります。

私達は、愛されるために創られました。

この事は、聖書の決まった箇所にその言葉通り書かれているわけではありませんが、聖書の全体を通して、私達が愛される存在として創られたのだということを知る事ができます。

私達が神様に逆らう自由まで与えて下さった神様。
どんなに罪を犯しても、私たちを完全に見捨てる事のない神様。
他の人が私をどのように扱おうと、私を愛して下さる神様。
私達が罪を犯すことを悲しむ神様。
私達が痛み、苦しむ時、ともに嘆いて下さる神様。
私達のために、ひとり子を与えて下さった神様。

人間が神様の気まぐれで創られたのであれば、とっくに全てが滅ぼされて、人類はもう存在していないでしょう。
人類全体から見ればどんどん神様から離れているようにも見えますが、人類が滅びる徴候は今のところ見えません。
ノーベル文学賞を取ったインドの詩人タゴールはこんな言葉を残しています。
「すべての赤ちゃんは、神さまがまだ人間に絶望していないというメッセージをもって、生まれてくる」
永遠の愛を持った神様は、終わりの時がくるその日まで、赤ちゃんをこの世に送り続けて下さるでしょう。
そして、新しく生まれてくる赤ちゃんのすべてが、愛されるために生まれてくるのです。

 

こうして人間を創造し、人の役割を明確にされた後、神様はこのように創造の6日目をしめくくります。

1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

神様によって全てのものが創造されたとき、『それは非常によかった』のです。
そこには神様が創造しようとされた通りのものがありました。
完全なる神様が創造した世界は完璧なものでした。
人間もまた、完璧な存在として創造されました。

しかしそろそろ皆さんは思い始めているかもしれません。
神様がすべてを完全なものとして完璧に創造した。
しかし、私達は完璧と言えるだろうか?
今私達が目にしている現実の世界は、完璧な世界とは言えないのではないか?

これまで聖書に描かれてきた、神様が創造したと言う世界と、私達が今生きている世界とはあまりにも大きな差があります。
この差は一体どこから生まれてくるのでしょうか?
それが来週お話しする“罪”がもたらした結果です。
罪に関しては来週詳しくお話しますが、今日知っておいて頂きたいのは、神様が最初に創造した時点では、世界も私達人間も完璧な存在として創られていたのだということです。

確かに今の私達は、罪に犯され、歪められた不完全な存在です。
そんなことは、自分自身の事を冷静に見つめてみれば余程の自信過剰でない限り、自分が不完全な存在だという事がわかりはずです。
しかし私達はその答を外側の事に向けてしまいがちなのです。
私達に必要なのは本をたくさん読む事でも、体を鍛える事でも、ダイエットしたり整形手術をすることでもありません。
何か特殊なトレーニングを受けたり、悟りを開くことで完全なものになるのでもないのです。
自分をどれだけ清めようとしても、例え罪を犯さないように心がけても、私達は神様が初めに創造したようには、完全になる事はできません。
何よりもまず必要なのは、私達が天のお父様の元に帰る事です。
神様は私達にこの様に呼びかけています。

イザヤ 44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

罪という余計なものを取り去った本当の“わたし”は、神様と共にあります。
本当の自分は、神様のところにしかありません。
ひと時“自分探し”という言葉が女性週刊誌を賑わしていましたが、田舎に行こうが、海外旅行に行こうが、本当の自分は見つける事ができないのです。

天のお父様は、放蕩息子を待ち侘びる父親のように、私達の帰還を待ち望んでいるはずです。
私達は、愛されるために生まれたのですから。

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