創世記2:9,16-17,3:1-6 アイデンティティ3 『罪に傷つくもの』2006/02/19 松田健太郎牧師

創世記 2:9、16~17、3:1~6
2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

全知全能の神様が私たちを愛しているというのであれば、私達はどうして幸せではないのでしょうか?
皆さんの中には私は幸せだと感じている方がたくさんいらっしゃる事は知っています。
この質問を通して考えていただきたいのは、自分が幸せだという事が神様に愛されているということを意味しているのでしょうか? ということなのです。
結論を先に言うと、“私が愛されている”ということと、“私が幸せである”ということは、別の問題です。
私達の幸せを阻害しているものは、ひとことで言えば“罪”です。
このことも誤解を生むと思うので先に言っておくと、私の罪に対する罰として幸せが与えられないという事でもありません。
罪とは何なのかということと、罪が私達にどのようにして不幸をもたらすのかということをお話していきたいと思います。

① 罪がもたらす不幸
エデンの園にあるリンゴを食べたために人類は罪びとになったという話は有名な話ですが、この話には多くの誤解があります。
まずは、アダムとエバが食べたのはリンゴではありません。
まぁ、リンゴではなかったとも書いてありませんから絶対にそうではないとも言えませんが、それは善悪の知識の木と呼ばれるものでした。
神様は、善悪の知識の木を、いのちの木とともにエデンの園の中央に生えさせました。
人類の罪の根源であるこの木を、神様はどうしてわざわざ、園の中央という人目につく場所に置いたのでしょうか?
ここにも大きな誤解があります。
善悪の知識の木は、罪の根源でも何でもないからです。

善悪の知識の木が、いのちの木とともに園の中央に置かれたということには象徴的な意味があります。
それは、善悪の知識の源も、いのちの源も、神様と共にあるのだということです。
善悪を定めているのは私たち人間ではなく、神様です。
そして、神様から離れることは、いのちの源から離れるということも意味しているのです。

神様は善悪の知識の木から食べることを禁じましたが、それは人類が善悪を自分で決めるのではなく、善は神様にしかないということを知るためです。
言い換えれば、アダムとエバは、神様の言葉に従ってこの木から食べないということを通して、善と悪を知ることができていたのです。
結果的に、人類の代表者であるアダムとエバは、この善悪の知識の木から食べてしまいます。
その経緯に関しては来週お話しますが、結果としてどのような事が起こっているかということを、私たちは現在見ることができます。
「自分が正しい」という価値観の中には、必ず争いが生まれます。
人類の歴史上、戦争が正義と悪の戦いであったことは一度としてありません。
お互いが正義を主張して、正義のために戦っていたのです。
戦争に負けたほうが、結果として悪とされます。
これは、この世に善も悪も存在しないということを意味しているのではありませんので注意してください。もし善も悪もないのであれば、人を殺す事が間違っているとさえ言うことができず、最終的には自己中心にならなければどうしようもなくなってしまいます。
この世に善悪はないということではなくて、正義は人間と共にはないということなんだということを、しっかり理解してください。

この罪の重さは、神様に頼らず自分の判断で善悪を決めるようになてしまったというだけに留まりません。
それは、蛇の姿をとったサタンがどのような誘惑をしてエバの心を揺らしたかをみればよくわかります。

3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

5節の途中に“あなたが神のようになり”という言葉があります。
これこそが、誘惑の源であり、罪の本質的な部分でした。
この辺りの事も来週またお話しますが、今明確にしておきたいことは、罪の大元である“自分が神になろうとする思い”が、私たちを不幸にしているということです。
私達人間が全能の神であれるはずがないじゃないですか?
でも、私達は心のどこかで、自分は全能だと思い込んでいたり、全能の存在になりたいと思っているのです。
全能の神になろうとしているというのが言いすぎだとしても、誰もが自分以上の存在になりたいと思っているということなら実感できるのではないでしょうか。
その思いが向上心につながる事もあるのは確かですが、問題はこの欲望にはキリがないということです。
絶対に全能にはなりませんから、絶対にこの想いを満足させることはできないのです。

この様な神になろうとする思いがもたらす具体的な状況を4つほど例として挙げてみましょう。
ひとつは、ノーが言えなくなってしまうという状況です。
人から頼みごとをされたら断れない人のパターンですね。
理由は色々あるのでしょう。ノーと言ったら自分が嫌われているような気がするのかもしれません。あるいは自分にその能力がないと思われたくないというプライドから来るかもしれません。
しかしこれは、自分に限界がない全能者のような錯覚を抱いている典型的なパターンです。

次に、ノーが聞けなくなってしまうという状況です。
自分は全能であるはずなので、人からのノーを受け入れられないのです。
人にノーを言わせないために他人に対して支配的になったり、厳しい現実を回避したり、現実味のない将来の夢に浸り続けるということがあります。

3つ目にイエスが言えなくなってしまう状況をあげましょう。
もう少し具体的に言うと、他の人が助けを求めていても手を差し伸べないという状況です。これは男性にありがちかもしれません。
妻が家事や子育てでどれだけ助けを必要としていても、家事一つ手伝おうとしません。
これは、全能であると信じている自分に陶酔しているか、全能ではない他人に対して批判的になったりしているような鼻持ちならない状況です。

最後に、イエスが聞けなくなってしまう状況があります。
これは言葉の意味としては捕らえにくいですが、つまり人が助けの手を伸ばそうとしているような時でも、「あ、僕は大丈夫です。」と言ってしまうような状況です。
いわゆるポジティブ志向というのはこれに当てはまります。
ポジティブ志向は一見素晴らしい事のように思えたり、信仰的であるかのように見えますが、必要な時に助けを呼ぶことができないことは致命的です。

私達は、多分この4つの内のどれかに当てはまるのではなくて、この4つを全て持っているだろうと思います。
実はここにあげた4つというのは、人間同士の関係の中に起こる心理学的な状況なのですが、問題なのは私達がこれを神様に対してしてしまっているという事なのです。

神様に与えられた厳しい律法にノーと言うことが出来ずに、苦しい信仰生活を送ってしまったり、一生懸命祈った祈りがきかれなければ神様に対して怒ってみたり、自分のことを最優先にして神様への賛美や礼拝や奉仕を怠ったり、神様抜きですべてのことを解決しようとしたり、これでは神様との正しい関係が結べるはずがないではありませんか。

人間同士の関係に起こる問題を解決し、よくするには、秘訣があります。
それは自立した人間になるということです。
神様との関係は逆のような気がしませんか?
神様に依存する事が正しい事のように感じるかもしれません。
しかし、神様が私達に求めているのは、自立した関係なのです。

② 神様との自立した関係
マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

とても有名な箇所ですが、30節に注目して下さい。
イエス様は、私が与えるくびきは背負いやすくて、荷は軽いと言っていますが、イエス様が全ての荷を背負うからあなたは馬車に乗って後からついて来なさいとは一言も言っていません。
それは私達にも背負わなければならない重荷があるということです。

ガラテヤ 6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。

ガラテヤ書では、先ほどお話した私達が全能の存在ではないということにまで触れてくれています。

私達は神様に委ねる必要があります。
しかし、私達は神様に全てをお委ねするということと、神様に依存するということを区別しなければなりません。
もう少し判りやすい言い方をしてみましょう。
私達には、自分自身が負わなければならない責任があります。
自分の責任を神様に押し付けるのは依存です。
自分自身の感情、態度、行い、そして私達に与えられた責任というものは、私達が自分で運ばなければならないものです。
一番最初にお話した、自分が幸せであるかどうかというのは、感情に当たる部分です。
今、私達が幸せを感じているかどうかということは、私達の責任だということなのです。

しかし、神様が成すべき事を私達がする必要はありません。
自分には負えない重荷、神様が負うべき重荷は委ねる必要があるのです。
全能であるのは神様のお仕事です。
善悪を判断して、裁くのは神様のお仕事です。
それ以外にも、私達に負いきれないような岩のような重荷は、すべて引き受けてくださるとイエス様は言っているのです。

③ 私達の幸せ
救いの条件として、良い行いをすることではなく、私達の信仰が問われているのでしょうか?
それは、自分で善悪を決めようとする罪の性質が、信仰とは反対の事だからです。

クリスチャンになったけど、自分の罪が赦されたかどうか判らないという方がいます。
神様があなたの罪を赦したかどうかを決めるのは、あなたではありません。
イエス・キリストを信じるならあなたの罪は赦されたのだと神様が言うなら、あなたの罪は赦されたのです。
私のようなものが本当に神様に愛されているのかどうか、判りませんという方がいます。
神様があなたを愛しているかどうかを決めるのは、神様ご自身です。
神様の御言葉である聖書が、あなたを愛していると語っているなら、あなたは必ず愛されているのです。
聖書が語る事実と真実を信じ、ただ受け止める事が信仰です。
神様が休みなく語って下さる愛を受け入れ、神様との関係を、素晴らしいものにしていこうではありませんか。

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