創世記3:14-24 アイデンティティ5 『罪に引き裂かれたもの』 2006/03/12 松田健太郎牧師

創世記 3:14~24
3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

インターネットで、ダーウィン・アウォードというサイトがあります。
劣悪な遺伝子は滅んで、優良な遺伝子だけが残っていくというのが進化論ですが、自らの命を奪うようなおバカなことをしでかした人々に、進化論を証明した人としてダーウィン賞を授与しようというジョーク・サイトです。
そのサイトの中から、受賞したいくつかの話を紹介しますが、これからのお話はすべて実話です。

① 崖の傍らにまだくすぶっている残骸を発見した時、アリゾナハイウェーパトロール隊員たちは途方に暮れていた。
まるで飛行機事故の後のように無数に残された金属の残骸は、一部が高熱のために気化してしまった自動車の部品であることが判明したのである。
研究員と、地元警察の捜査でわかったことは引退したとある空軍士官がJATO(Jet Assited Take-Off)ユニットと呼ばれる輸送飛行機の離陸支援のためのジェットエンジンを手に入れ、車の地上でのスピード世界記録を目指して実験をしたらしいということだった。
現場には目撃者がいなかったために記録にはならなかったが、研究員がデータを測定した結果、恐らく次のような事があったであろうことが割り出された。
運転手は1967年のシボレーを運転していた。
墜落地点から6kmほど離れた地点でJATOユニットに点火、これはその地点にアスファルトを焦がした跡と、タイヤが溶けた跡が残されていた事によって推測された。
車の速度は時速500kmから600kmにも達しただろう。
運転手は間もなくパイロットとなり、この時に彼はF-14戦闘機と同等のアフターバーナーと衝撃波を体験したと思われる。
溶かしながら続いていくタイヤの跡は、その地点から5kmの長さに及び、その後2kmほどの距離を飛行して、車は崖の高さ7mの所に激突した。
運転手の遺骸は大部分は発見されなかったが、いくつかの骨と、歯と、毛髪がジェットの噴射口から抽出された。
車の残骸からは辛うじて読み取る事ができるバンパーステッカーが発見されたが、そのステッカーには皮肉にもこの様に書かれてあった。
“わたしの安全運転の評価をして下さい。お気づきの点があったら次の番号まで。フリーダイヤル1-800-クソクラエ”

②(2004年4月29日、ウェストバージニア州ブルーシーホーク)
アルフレッド(63)は、シロアリの被害に悩んでいた。
彼は天然ガスは危険であるという話を聞いたことがあり、彼は天然ガスが低コストの燻蒸消毒にもってこいだと考えた。
彼は家のドアと窓を閉じると、ガスの栓を開き、妻と一緒に近くのトレーラーキャンプ場で一夜を過ごした。
翌朝、彼は大手を振って家に戻ってきた。
彼が家の扉を空けた瞬間、掛け金からのわずかな火花が家中に充満したガスに引火し、爆発の衝撃で彼は庭を軽く飛び越え、近くの小川の中に叩き込まれた。
爆発は町中の電話回線と電線を切断し、教会の入り口のドアは吹き飛ばされてしまった。
衝撃は10km離れた家の窓をビリビリと震わせたという。
アルフレッドは一命を取り留めたが、全身激しい火傷のため、近くのキャベルーハンティントン病院までヘリコプターで運ばれた。
彼の家には保険はかけられていなかった。
燻蒸としては効果的だったと見え、シロアリは全滅していた。

③ 男がシアトル・ストリートに駐車されていた移動住宅からガソリンを盗もうとしていた。ガソリン・タンクの給油口からホースを忍び込ませ、ガソリンを勢いよく吸いだすと、予想より多くの量が噴出してきたので驚いた。
数分後、見回りの警官が通りかかると、男が下水近く、移動住宅の傍らで真っ青な顔をして丸くなって倒れているのを発見した。
男はガソリンを盗もうとしていた事を認め、しかしガソリンの給油口と間違えて下水タンクの中にホースを差し込んでしまったと語ったという。
彼が勢い良く吸い込んでしまったものは・・・・?

馬鹿な事をしてしまえば、それに伴う結果が起こるというものです。
自分が蒔いた種という言葉があります。
自分がしたある事柄に対して、結果が伴います。
良い事も悪い事もあるでしょうが、要は原因があって、結果があるということです。
聖書はこのように言っています。

ガラテヤ 6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

創世記から何週間かに渡って罪ということに関して学んできましたが、人類は罪というものに対する刈り取りをしなければなりません。
今日は罪に対する報い、人類がしてしまった事の結果を、一緒に見ていきたいと思います。

まず、罪とは何かということに関してもう一度復習しておきましょう。
私達は罪と聞くと、犯罪の事を考えてしまったり、自分がしてしまった不道徳や、人の心を傷つけてしまった事などを連想します。
しかし、聖書で語られている罪は、そのようなものとは別のものです。
言うなれば、それは“神への反逆”です。
創造主である神様から離れ、否定し、自分自身を神とする意識です。

罪は、アダムとイブが禁じられていた善悪の知識の木から取って食べた時、人類の中に入ってきました。
なぜアダムが犯した罪の結果が、全人類に影響を及ぼすのでしょうか?
「アダムが犯した罪なら、アダムが償うべきことではないのか?」
「どうして現代に生きる私達が罪に定められなければならないのか?」
そのような疑問を抱くのは当然かもしれません。
それは、アダムと同じ罪を、私達も犯しているからなのです。
アダムに入った罪の性質が遺伝的に私達に伝えられたり、人間関係を通して罪の行動が、親から子へと伝えられています。
(親から虐待を受けて育った子供が親になった時、自分の子供を虐待してしまうという事と同じです。)
私達が罪に定められ、裁きを受けるのは、昔アダムが犯した罪のためではなく、今を生きる私達が神様に対して犯し続ける罪のためなのです。
この罪が元となって、犯罪や人の心を傷つけると言うような、行いとしての罪を生じさせます。
私達が悪い事をする時、神様に反逆しているとは考えてないかもしれませんが、神様を認めず、自己中心的な態度は神への反逆から生まれた罪であり、その罪によって私達の中にあるはずの神の形が歪み、様々な罪の行動を私達に起こさせているのです。

私達は自分の罪的な性質を親や環境のせいにしてしまうのは簡単ですが、両親も同じようにその両親から罪の遺伝子や環境を受けてきたことを忘れてはなりません。
罪はアダムとエバの時代から、私達の中に脈々と伝えられてきたものなのです。

さて、「善悪の知識の木から取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」というのが、神様の約束でした。
しかし、アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べた瞬間、ふたりは死んだ様には見えません。
それは、二人の死が肉体的なものではなく、霊的なものだったからです。
霊的に死んだ状態で生まれてくる私達には、霊的な死がどのようなものであるのかをなかなか理解することができません。
私達は神様に霊的な存在として創造されたということを、何週間か前にお話したことをおぼえているでしょうか?
神様も霊的な存在であり、私達の肉体は土から創られた器に過ぎません。
私達が霊的に死んでしまった結果、私達は霊的な存在である神様とのつながりを無くし、神様の存在を知ることも、感じることもできなくなっていってしまったのです。

神様がご自分に似せた霊を失ってしまった人間は、まるで鋳型が歪んでしまったように、全ての事が歪みを持って現れてくるようになりました。
結果として、私達は様々な形で罪の実を刈り取ることになります。

3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

女性が子供を産み育てることも、夫婦の関係も、労働も、喜びや楽しみだけでなく、全てがゆがめられ、苦しみや悲しみ、痛みを伴うものになってしまったのです。
地上は元々人類のために創られたものでしたから、人類に罪が入った時に、地上の全てに影響を与え、地上は罪のために呪われてしまいました。
霊的な死が、私達の正しさを奪い、私たちを神様との交わり、祝福、恵みから引き離して私達の人生は苦悩に満ちたものとなってしまったのでした。

3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

いのちの木から取って食べる事によってそれまで得ていた永遠のいのちは、罪と引き換えに失われてしまいました。
今や神様を離れて、勝手に善と悪の判断をするようになってしまった人間は、いのちの木から取って食べる手段を取り去られ、肉体的にもいのちは限りのあるものとなってしまったのです。

「罪から来る報酬は死です。」と、ローマの人々に宛てた手紙でパウロが言っています。
私達の罪は、創造主である神様に対する反逆の罪です。
罪人にふさわしいのは裁きと死です。
進化論的に言うなら、私達は罪という劣勢遺伝子を持っているのですから、滅んでしかるべきはずなのです。
ではなぜ、神様は私たち人類を、文字通り滅ぼしつくしてしまわなかったのでしょうか?
確かに私達は霊的に死に、肉体としても限りある命を持つ存在になってしまいました。
しかし神様が気に食わないと言うのなら、神様は創造主なのですから、失敗作だといってぽいと捨ててしまえば良かったはずです。
人間はもう、神様が愛するには値しないんじゃないですか?
もう、必要のない存在になったのではないですか?
しかし神様は、私達人類を滅ぼしつくす事をしませんでした。

アダムとエバは、罪によって我が家であった楽園を後にしなければなりませんでした。
しかし神様は、人をエデンの外へ送り出す前に、獣の皮の衣を与えて下さったのです。

3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

それまで、ふたりはイチジクの葉を自分たちでつづり合わせて、それで自分自身を覆っていました。
それに代わって与えられた皮の衣は、罪を覆う衣を表す印です。
ここには、罪を覆い隠すものとして必要な条件がふたつ隠されています。
神様に与えられた衣は、すぐに枯れてしまうイチジクとは違ってずっと二人の裸を覆う事ができたでしょう。
私達が自分で作ったものでは、罪を覆う事はできません。
しかし、神様に与えられた衣は、罪を覆い隠す事ができるものなのです。
そして皮の衣を作るためには、獣の命が犠牲にされなければならなかったはずです。
人の罪が覆われるためには、他のものの命が犠牲になり、血が流されなければなりませんでした。
これは私達の罪のために血を流した、イエス・キリストの十字架による罪の贖いを表しています。

先ほど紹介した、「罪から来る報酬は死です。」という言葉の後で、パウロはこの様に付け足しています。

ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

また、このように言っています。

ガラテヤ 3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

私達は神様の前には、自分で自分を正しくする事はできません。
しかし私達には、神様がご自身の血を流した、キリストという義の衣を着ることを許されているのです。
神様がアダムとエバに与えた獣の衣は、私たちを愛するがゆえに与えられた、救いの約束の印です。

思えば、罪にゆがみ、汚れてしまったこの世界の中で、ただひたすら、永遠に生きなければならないとしたらそんな苦しい事はないのではないでしょう。
限られた命というのは、むしろ神様からの恵みなのです。
私達の命は限られていて、私達はちっぽけな存在です。
私達はそれに気がついた時、自分の限界と罪を知り、悔い改めて神様に立ち返ることができます。
神様との関係が断たれ、神様を見ることも触れる事も出来ない世界に私達があって、それでも私達が永遠の神様に想いを馳せて、立ち返る機会を与えて下さっているのです。

神様の裁きなしには、神様の救いはありません。
神様の怒りがなければ、神様の温かな愛を本当の意味で実感する事はできません。
私達は罪を犯し、神様の怒りに触れ、神様の居ない世界の苦しさ恐ろしさを経験していますが、だからこそ神様の愛の深さと、恵みの大きさを知る事ができるのではないでしょうか。

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