Iコリント15:1-11,16-22 『復活の命に生きる』 2006/04/16 松田健太郎牧師

Iコリント 15:1~11、16~22
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

みなさん、イースターおめでとうございます。
私達クリスチャンにとって、イースターはクリスマスよりももっと喜ばしい祝いの時です。
神様が私達と同じ肉体をもって生まれたということを祝うクリスマスも確かに嬉しい事なのですが、その時生まれたイエス様は、十字架にかかるために生まれ、そして復活したのがこのイースターだからです。
でも私達にとってわかりにくいのがイースターでもあります。
3日後に蘇るのだったら、十字架で死んでも意味がないじゃないかとか、やっぱりイエス様は神様なんだから、私達とは違うんだよと思ってしまったりするようです。
今日はこの機会に、死と復活という事に関して、聖書と共に、いくつかの視点から考えていきたいと思います。

① 肉体の死、復活の意味
私達はこの2ヶ月間の創世記の学びの中で、罪ということに関して学んできました。
罪によって、私達は苦悩の中で生きていかなければならなくなったのでしたね。
働く事や、結婚生活や、子育てがうまくいかなかったり、幸せをもたらすはずのものが苦痛に満ちてしまっているのは、私達の中にある罪のためです。
そして、罪は私達の中に死というものももたらしました。
死とはなんでしょうか?
死もまた、人間が罪を犯し、神様から離れた結果です。
アダムとエバが神様の言葉に従わずに、取って食べてはならないと命じられていた善悪の知識の木から取って食べ、その時に二人は霊的に死に、肉体も滅びる存在となってしまったというのが聖書の語っていることです。
私達は生まれたときから霊的に死んだ状態で生まれ、100年くらいの人生を生きた後、死にます。
お金があろうとなかろうと、有名だろうと無名だろうと、誰にとっても差別なく必ず訪れるのが死なのです。
死は罪の最大ののろいであり、私達にとってすべての苦しみを象徴するものなのです。

2000年前、イエス様は私達の罪のために十字架にかかり、その血潮によって私達の罪はすべて赦されました。
2000年前の十字架がどうして現代に生きる私達の罪を赦すことになるのか判らないという方もいらっしゃるでしょうが、十字架の事に関しては別の機会に何度も取り上げますから、今はとにかく十字架によって罪が許されたんだと言うことだけを覚えておいてください。

では、十字架にかかったイエス様はどうして復活したのですか?
それは、それは十字架によって、罪が赦され、のろいとしての死が帳消しとされたからです。
死とは罪の結果なのですから、罪が赦されたら死もなくなるのです。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

アダムによって、罪が人間の中に入り、人間は死というのろいをいつも目の当たりにする存在となりました。
そして第2のアダムであるイエス様を通して、罪が赦され、復活の命が全人類にもたらされたのです。
イエス様の復活は、罪が赦された事の証です。
復活がなかったとしたら、イエス様がどんなに素晴らしい事を言ったとしても、人類の罪を背負って十字架にかかったと言われても、素晴らしい宗教者だったというだけのことです。
他の偉人賢人たちと何の変わりもありません。

15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

イスラム教徒たちは、メディナにあるモハメッドの墓を訪ね礼拝します。
世界中の何万もの寺では、釈迦の骨の破片が祭られています。
イエス様の墓は、からです。
私達クリスチャンの希望は空の墓にあり、その希望は絶望に終わる事はありません。
空の墓は、私達クリスチャンが、やがて来るイエス様の再臨の時に、イエス様が蘇ったのと同じように復活し、永遠の命を持つということの証だからです。

② キリストにあって、キリストに生きる
今の私達は罪に染まった肉体の中にありますが、私達が復活させられる時には、罪のない、だから罪から来る苦しみもない、死もない、神様が最初に創造したのと同じ完全な状態で復活する事になります。

今の私達は罪の中にありますから、罪のない完全な存在として生きるということがどういうことか、中々想像がつかないだろうと思います。

ある人は、酒もたばこもない天国になんか行きたいとは思わないと言います。
酒やたばこに関わらず、この世で私達が味わう楽しみや喜びの大半は、罪の結果であったり、罪によって傷ついた心を癒したり慰めたりするために存在しているものですから、復活した時にはそういったものを必要としないでしょうから、心配する必要はありません。

ある人は、悩みや苦しみがあるから人生楽しいのであって、苦悩のない人生なんて張り合いがないと言います。
しかしそのような人たちも良く考えてみれば、楽しんでいるのは悩んで決断していく課程や、苦しみの結果自分が得たものに対して喜びを感じているのであって、悩んだり苦しんだりしているその状態が楽しいと感じる人はいないだろうと思います。
今の生活の中で、苦悩と共にあってどのように幸せに生きていくかということと、復活の体で永遠の命をもって生きていくこととは土台が全く違う話だということです。

いずれにしても、復活した状態がどのようなものでどう感じるのかという事に関しては、その時に私達が体験して見なければわかりません。
しかし私達は、天の御国において、私たちを創造して下さった神様とともにいる喜びを、今から味わっていく事ができるのです。

ペテロは手紙の中でこの様に書いています。

I ペテロ 1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

また、イエス様はこの様に言いました。

ヨハネ 8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

ところが、多くの人たちのクリスチャンに対するイメージはまったく逆のような気がします。
クリスチャンになると、楽しみもがまんしなければならなくなるし、自由がなくなりそうだから嫌だというのです。
でも実際に、喜びもなく、不自由そうなクリスチャンが多いのも確かですね。

ピリピ 4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

という言葉を聖書の中に見つけては、いつも喜んでいなければならない。どんなに苦しくても、辛くても、喜んで居なければならないといって、必死になってニコやかに振る舞っているんです。
それは喜びとは呼べません。
パウロが言いたかったのは、主と共にあることはいつも喜んでいられることなんだということです。

また、私達は生まれたままの自分は自由なんだと思い込んでいます。
実の所は、罪の奴隷の状態なのですが、そのことには気がつかないのです。

私たちを縛り付けているのは、自分の感情と欲望に身をまかせて、こうでなければ生きていけない、これが自分のものにならなければ幸せになれないと信じる自我、それこそが罪の性質です。

ローマ 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

私達は自分で自分の体を創造したのではありません。
私達は罪の支配の下に生きるのか、神様の導きに従って生きるのか、ふたつにひとつしか道はないのです。

神様に委ねて生きる生き方は、今までの自分とは違うので時には不自然に感じる事があるでしょう。
神様の導きは、今までの自分の選択とはまったく逆方向にあるというのも、よくあることです。
時に「本当は左に行きたい」と思い、「どうして右にいかなければならないのか」と思う時、また誰が見ても損だと思う場合でも、必ずそこに、私達の思いを超えた神様のご計画があることを信じてください。
私達が自我に死に、全てを委ねて神様の導きに従う時、私達はキリストにあって生きることができるのです。

③ 絶望の中にある希望
人生を生きていくのは大変な事です。
苦しみも、痛みも、悩みも、時には私達に担いきれないように感じる時があります。
皆さんの中には、今大変な困難の中におかれている方もいることを、僕もよく知っています。
そして、今みなさんが抱えている、誰も知らない苦しみ、痛み、悩みも、神様はご存知です。
私達は物事と向かい合うのに3つからひとつの選択をしなければなりません。
逃避か、傍観か、挑戦かです。
どの選択をしたとしても、時間は先に進んでいきます。
私達がもっとも好む選択はどれでしょうか?

イエス様は心の貧しいものには天の御国を、悲しむものには慰めを与えます。
弱いものを強くし、呪いを祝福に、ピンチをチャンスに、絶望を希望に変えるのがイエス様の福音であり、聖書が伝える真実です。
私達が死をも打ち破った主にその希望を預けるなら、どのような困難に対しても、主にあって挑戦するという姿勢を貫けるのではないでしょうか?

ヨハネ 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

私達は一粒の種です。
神様の祝福がめいっぱいに結ばれるためには、私達が自我に死に、キリストに生きなければなりません。
しかし私達の内を支配するのが罪ではなく、自我ではなく、キリストとなったとき、私達は人生の中で、希望が大きく豊かな実を結んでいくのを目にするのです。

どのような選択をしても、私達はやがて自分が結んだ実を刈り取る事になります。
願わくば、皆さんが豊かに実ったキリストの祝福を刈り取る事ができますようにお祈りしています。

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