創世記11:1-9 『散らされた人々』 2006/05/07 松田健太郎牧師

創世記 11:1~9
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

洪水が終わった時、神様がノアを初めとする洪水を生き残った人々と動物達に与えた祝福はこれでした。

創世記 9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。

この祝福の通り、人々も動物もどんどん増えていきました。
人々は、ノアの箱舟が漂着したアララト山からシナルの地の平野へと移っていきます。
ここに人々はバベルという町を作っていきますが、この地はバビロニアのことです。
この町が大きくなっていき、後の時代にバビロン帝国となってイスラエルの人々を苦しめる事になるのですから、歴史が長く、文明の発達した国だった事がわかるだろうと思います。

人類は神様の示すとおりに地に増え広がっていく事をせず、バベルで一箇所に固まってしまいました
神と共に歩んでいたノアの時代が終わり、世代が交代していくと、人々は神様の命じた事をすっかり忘れてしまい、それぞれの心の中にある罪の声に従って、また自分勝手な生き方をし始めてしまいます。

① 神にちかづく

11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

自然石を加工して用いていた彼らが、れんがを作ることを覚え、さらには瀝青(れきせい)(アスファルト)を使うようになっていきました。
このような文化、文明、技術の発達それ自体は何も悪い事ではありません。
キリスト教は地動説や進化論の否定の歴史から、まるで科学や文化に反発しているかのように見られることがありますが、それはとんだ誤解であって、科学の黎明時代に科学者を生んできたのはユダヤ・キリスト教文化です。
ニュートンも、ミルトンも、ガリレオ・ガリレイも、みんなクリスチャンだったのですから。
しかし、私達はその文明や文化の目的がどこにあるのかという部分に気をつけなければなりません。

この時文明と技術が人々にあたえたものは、自分たちの力でどんなに大きなことでもすることができるという自信と自負でした。
人々は自分たちが塔を作り、頂点を天まで届かせることができると考えたのでした。

1980年代のバブル経済時代に、日本ではやたらと超高層ビルを建築して、バベルの塔になぞらえてバブルの塔などと呼ばれたりもしましたが、もちろん高層ビルが悪であるということではありません。
この時代に人々が作ろうとしていたのは単に高いビルなのではなく、天に届くための、宗教的な意味を持つ塔だったのです。(ジッグラドというピラミッド型の建物だったと言われています。)
その根底に合ったのは、自分たちの技術によって神に届く事ができるという高慢でした。
人間が神を引き降ろし、人間を引き上げようとする行為は、神様への反逆に他なりません。

現代も、科学技術は目まぐるしく発展し続けています。
神の設計図と呼ばれるゲノムの解読も進み、DNAの働きもどんどん解明されてきています。クローニングによって人間のコピーが造られるに十分な科学力を、今人類は手にしています。
その様な技術の用いられ方が倫理的に正しいかどうかは、確かに重要な問題でしょう。
そこでどのような結論が出されたとしても、私達が手にしている技術力を通して、私達が神様にも手が届くといううぬぼれを持つのなら、私達はバベルの塔を作った人々と、同じわだちを踏む事になります。

科学技術に限らず、修行や鍛錬によって神に近づこうとするなら、それはやはり神様を引き降ろそうとする行為です。
私達が自分の力で神様に手を伸ばし、届く事は絶対にありません。
自分の力で神様に近づいたり、神様になろうとするなら、私達はむしろ神様から遠ざかる事になるのです。

11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

私達が世界中の山を積み上げたとしても、決して神様に届く事はありません。
私達が全人類の得をすべて積み上げたとしても、やはり神様には届きません。
しかし、神様が私達の元に降りてきてくださるのです。

箴言 30:4 だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

私達は、確かにその名がイエスであることを知っています。
私達は、この時代の人々よりももっと神様を良く知っています。
私達にとっては、主はもっと身近な方です。
私達は、神様が私達と同じ目線に降りてきてくださったイエス様を知っているからです。

② 主にある一致

11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

神様から離れた人類が、一つの民族として、一つの言葉で導き出した行動は、またしても神様への反逆でしかありませんでした。
そこで主は、人類がこれ以上滅びの道を真っ直ぐに突き進んでいかないために、言葉を混乱させ、互いに言葉が通じないようにされたのです。
それによって、彼らは互いに意思の疎通が困難になり、神様への反逆の共同作業が止んで、当初の神様の計画通りに、人類は世界中に広がっていきました。

現在世界には、191の国連加盟国があり、5000語を超える言語が話されています。
この様な中でも今度は同じ民族の者同士が結託して民族主義(ナショナリズム)が生まれ、人々は互いに争い合っています。
一方で、混乱は民族的な壁に留まらず、私達は同じ日本人同士が接する中でも、この人には言葉が通じないと感じる経験をしています。
伝達ミスや、相手が自分の言ったことをちゃんと理解しているはずだという思い込みから人間関係のトラブルが起こるのです。

人が集まると問題を起こすのは、昔も今も変わりません
暴走族にしても、やくざにしても、ひとりひとりと話してみれば案外やさしさを持った良い人たちだったりします。
女性も、群れになると悪口が始まってしまったりしますよね。
全く人類は、どのような環境におかれても神様がもっとも悲しむ状況を探し出し、トラブルを起こす術に長けているようです。
それを考えると、全人類が結託して悪をなし、神様に反逆する様は恐ろしい有様だった事でしょう。

しかし、私達が本当に求めるべき一致は、家庭内での夫婦円満でも、親子の和解でも、民族的な一致による世界平和でもありません。
私達がどれだけ表面的に平和や一致を求めても、本当の意味で心から分かり合うということはないのです。
神様に逆らう罪を持っているがゆえに、私達は永遠に争い続け、互いに分かり合うということはありえないのでしょうか?

ペテンテコステは1ヶ月先ですが、ここでイエス様の昇天の後、ペンテコステの日に弟子たちに起こった事を見てみましょう。

使徒 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

もっと華々しい奇蹟が起こっても良さそうなものなのに、聖霊を受けた人々が外国の言葉で話し始めたのはどうしてだと思いますか?
ここに示されているのは、聖霊の満たしにこそ、バベルの塔のときに受けた混乱を解除する鍵があるのだというしるしに他なりません。

さらに他の箇所も見てみましょう。

エペソ 4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

エペソ 4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

私達が神様に近づいていく事も、私達がひとつになっていくのも、私達の努力によるのではありません。
私達が自分の力に死に、イエス・キリストが私達の内に生きてくださることによって、そして私達一人一人が御霊に満たされる事によって、全て可能になるのです。
聖霊によって私達が成長し、私達はやがて、イエス様と似たものとなっていきます。
私達がイエス様を頭とした体として結び合う時、私達の信仰は一致し、お互いに対する愛によってひとつに結び合わされていきます。

キリスト教という宗教に属する事それ自体が私たちをキリストに似たものとするのでも、互いに一致を持たせるのでもない事に気をつけてください。
もしそうなら、世界はもっと平和で、すでに半分近くが一体となる事ができているでしょう。
しかし実際には、教団、教派同士が互いを否定し合い、キリスト教国と言われている国が愛によってではなく戦争によって相手を支配しようとしているというのが現実です。

私達を互いに結びつけるのは、イエス様が私達に命じた、神様に対する愛による一致と、隣人を自分と同じように愛する“愛”です。
私達は、イエス様の十字架の愛を信じ、御霊によって歩む事によらなければ、この様な愛で互いに愛し合うことはできないのではないでしょうか。

私達の西葛西国際キリスト教会は、色々な教会のバックグラウンドから人々が集まって構成されている教会です。
この教会の中にバプテストもあれば、聖公会もあり、無教会派もあれば、韓国の教会もあり、カリスマ派もあれば福音派もありながら、共におひとりの神様を礼拝しているこの教会のありかたは、日本中見回して見てもなかなか見ることはできません。
私達がキリストにあって更に成長し、もっと深い愛で結び付けられる時、私達はバベルの塔以来続いてきた混乱の呪いをも、乗り越える事ができるのです。

③ 序章を終わる前に
創世記からの学びを始めて、11章を10回に分けてお話してきましたが、ここまでが創世記の序章に当たり、そして聖書全体を通しての序章でもあります。
お気づきかどうか判りませんが、これまでの10回のメッセージは、創世記の箇所から直接解釈していく部分と、イエス様の福音を通して見たふたつの視点によって構成されていました。

イエス様の福音を取り除いてそれぞれの話を見てみるとこれまでの話というのは、神様が私たちを愛をもって創造したということ、しかしその私達が悪魔の罠によって罪の中に落ち、その罪がどれほど酷いものだったかということになります。
ここまでの聖書のテーマは、人類がいかに罪に汚れ、神様の裁きを免れない、もう滅んでいくしかない、絶望的な存在かということなのです。

人間は神様の支配を拒否し、世界が罪にまみれているという事を前提に、来週から、人類にどの様にして救いが与えられていくかという壮大な物語が始まります。

今も世界は罪の支配下にありますが、イエス様の十字架を知る私達は安心して救われた喜びに満たされながら、来週からの学びを進めていきましょう。

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