創世記18:17-33 『とりなしの祈り』 2006/07/09 松田健太郎牧師

創世記 18:17~33
18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
18:26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
18:33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

先週のメッセージでは、神様がアブラハムと契約を結び、特別な関係を結んだというお話しをしました。
その特別な関係というのは、深い人格的な交わり、ひとことで分かりやすく言えば、友情ということができると思います。
この世界を創造された、全能の神様がひとりの人を選び友と呼ぶという、想像を絶するような歴史的な事件が起こっていたんですね。

この時結ばれた友情契約が種となり、それはイスラエル民族へと伝えられて行き、アブラハムの子孫イエス・キリストによって花開いていきます。
全てが、罪によって神様から離れてしまった人類を神様の元に呼び戻すという人類救済のために作られた、一本の道だったのです。

さて、神様が人類を救うという壮大な計画の種が植えられようとしていた一方で、その裏では闇の勢力が暗躍していました。
これまでもすでに何度か登場していたソドムとゴモラの悪が増し加わり、その罪の重さゆえに滅ぼされなければならない状態となってしまっていたのです。

滅ぼされなければならなかったというソドムとゴモラの罪が、具体的にどのような状態だったのかということは分かりません。
しかし、その罪は神様に対するものであり、これ以上黙っていることはできない、放って置けば、周りに悪い影響を与えて広がっていくしかないという状況だったのでしょう。

今日はそのソドムとゴモラという二つの都市国家の滅亡を前に、アブラハムが神様の裁きの意思と、滅び行くものを助けたいという思いの間で葛藤する姿を通して、共に学んでいきたいと思います

① 神との友情

18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

神様はこの世界の創造主です。
この世界の全てのものを創造し、統べ治め、すべてを裁く権利を持つ唯一の神様が、ここでただの人間であるアブラハムに、これからなそうとしていることを説明しています。
そればかりか、むしろそれを義務のように感じている。
神様はなぜ、ソドムとゴモラを滅ぼそうとしているということをアブラハムに打ち明けたのでしょうか?

それは第一に、アブラハムが神様のしもべだからです。

アモス 3:7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。

神様はこの計画を通してアブラハムに役割を与え、用いようとしていたのです。
そのためには、アブラハムにこの計画が示される必要がありました。
アブラハムがこのような神様の御心を知ることによって、彼の子孫に主の道を守らせて正義と公正を行わせるため、そして神様の約束の成就のためだったと聖書は語っています。

第二に、アブラハムが神様の友とされたからです。
私達が単なる被造物なのであれば、神様は私たち人間が神様の計画に対してどのように思うかなど関係ないことですし、私達がその計画を知る必要すらありません。
しかし、神様はアブラハムをご自身の友として見られ、アブラハムの思いを知りたいと思っているのです。
そしてその神様の思いは、クリスチャンとなった私たちに対しても同じです。

ヨハネ 15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

イエス様が私たちを、しもべではなく、友だと言ってくれました。
主が友と呼んで下さる私たちにも、やがて全ての人が裁かれる時が来るという神様の計画が示されています。
そしてその計画が私たちに示されているということは、私たちが成すべき役割もあるはずだということです。
今、滅びのときを前にして、私たちがこの世界で成すべきことは何なのか、私たちが救われた理由と目的をもう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか?

② 取り成しの祈り
主がこれから滅ぼそうとされているソドムには、アブラハムの甥のロトがいました。
それを考えると、ソドムとゴモラの滅びは他人事としてみることはできなかったでしょう。
アブラハムは、必死に神様に食い下がり、ソドムとゴモラのための取り成しをします。

取り成しとは、他人のために祈る祈りです。
この時には特に、ソドムとゴモラの人々は滅ぼされるということを知らなかったどころか、祈るべき神様をも知りませんでしたから、自分たちのために祈ることができる人は誰もいませんでした。
しかし神様の友とされたアブラハムが、彼らの救いのために祈っていたのです。

そんなアブラハムの祈りは大胆です。
「神様、あなたは正しいものも悪いものと一緒に滅ぼすようなお方ではないはずです。 もし、私と同じように信仰を持つ者が50人いたとしてもソドムとゴモラを滅ぼそうとなさるというのであれば、それは正義ではないのではないでしょうか?」
そう言って、アブラハムは神様に迫るのです。

ここで問われている正しさとは、罪の無い完全な人間としての正しさではありません。
アブラハムが義人として認められたのと同じような、正しい信仰を持つ人物のことです。
神様が「ソドムにもし50人の正しいものがいたら、その50人のために滅ぼさないことにしよう。」
神様がそう約束なさると、アブラハムは「もし50人に5人足りなかったらそれだけで許さないのですか?」それでも良いと神様が言われるとでは40人では、30人では、20人ではどうでしょうかと人数を減らしていきます。

考えようによっては、創造主である神様に対してなんと言うずうずうしい、しつこい、身の程知らずだと言うこともできるでしょう。
神様は「そのようなことはお前の知ったことではない。」と言って、アブラハムの執り成しを一蹴することもできたはずです。
しかし神様はそうしなかった、それどころかこの執り成しに耳をそばだて、アブラハムの値切るような交渉を次から次へと呑んでいきました。
むしろこの様なアブラハムの交渉を神様は喜び、楽しんでいたのです。
それは、アブラハムの滅び行く人々への愛を、そこに見ることができるからではないでしょうか。

他人に対して無関心であれば、私たちは他人のために取り成して祈ることなどできません。
誰が滅ぼうと他人ごとであり、自分には関係の無いことだからです。
しかし、イエス様は隣人を愛しなさいと言いました。
神様は、隣人に対する愛を心から喜ぶのです。

ソドムとゴモラの人々がそうだったように、私たちの周りにいる神様を知らない人たちも、自分のことを自分で祈ることはできません。
皆さんは、そのような人々のために祈っているでしょうか?
特に、まだ救われていない家族や友人の救いのために祈っているでしょうか?
彼らのために祈ることができるのは、神様と彼らの両方を知っているあなたしかいません。
主はそのような執り成しの祈りを喜び、必ず聞いていてくださっているはずです。

③ 最大の執り成し

18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

アブラハムは、もし10人の正しい人がいたら、その10人のために滅ぼさないというところまで進み、神様はその条件を呑みました。
そこでアブラハムは執り成しを終えると、神様はその場から去っていきます。

なぜ、アブラハムはそこで執り成しを終えたのでしょうか?
なぜ、最後のひとりまで食い下がらなかったのでしょうか?
恐らく、それがアブラハムの限界だったのでしょう。
これ以上は、あまりにおこがましくてお願いできない。
それに、いくらなんでも10人くらいは人がいるだろうと思っていたのかもしれません。
しかし、ソドムとゴモラにいた中では、ロトが辛うじて義人と数えられるだけでした。

アブラハムが最後のひとりまで食い下がっていたら、ロトひとりの正しさのためにソドムとゴモラは滅ばなかったかどうかというのは、仮定でしかありません。
しかし、神様はエレミヤの時代に、もしひとりでも義とされる者がいるなら、エルサレムを赦すと言ったように(エレミヤ5:1)、アブラハムの要求を受け入れただろうと思います。
何よりも私たちの救いそれ自体が、たったひとりの正しい人によってもたらされているからです。

信仰によって正しいとみなされたというのではない、歴史上ただひとり、神様の前に完全であったイエス・キリストの執り成しと、犠牲の上に私たちの救いは成り立っています。

罪の無いイエス様が、私たち人類のプライドや嫉妬という罪のために十字架にかけられた時、イエス様はその十字架の上でこのような執り成しの祈りをしました。

ルカ 23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

私たちにとって自分を思ってくれる人、愛してくれる人を愛し、その人のために祈ることは難しいことではありません。
しかし、自分を傷つけ、あざ笑う者をも愛し、執り成すのがイエス様の愛なのです。

そしてそのイエス様は、今も天で神の右の座につき、私たちのために執り成し続けているのです。

ロマ 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

ヘブル 7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

私たちがイエス様を知らず、神様の愛など気にもかけていなかったときから、イエス様は私たちを愛し、私たちのために祈ってきたのです。

アブラハムの執り成しもまた、甥のロトだけを救ってくれという祈りではなく、ソドムとゴモラ全体を救って下さいという祈りでした。

イスラエルが偶像礼拝の罪に走った時、モーセは命の書から自分の名前を消去してでも、イスラエルの民を赦してほしいと執り成しました。

パウロもまた、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい(ロマ9:3)」と語りました。

今すぐ、私たちの敵のために祈るのは難しいかもしれません。
しかし私たちが一人でも多くの人々を執り成して祈ることは、すでに救いの中に入った私たちクリスチャンの責任なのです。

今教会でもっとも必要とされているのは、何よりも祈りです。
どうか身近な人のことからでも、覚えて執り成し、祈り始めて下さい。

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