創世記21:1-21 『約束の子』 2006/07/23 松田健太郎牧師

創世記 21:1~21
21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」

① 笑い
皆さんのお母様はまだ御存命(ごぞんめい)でいらっしゃるでしょうか?
そうでしたら、皆さんのお母様をちょっと思い浮かべて下さい。
もうとっくに母は亡くなっているという方は、奥様かご自分のこととして考えて下さい。
また、子供たちにはお婆ちゃんということになるでしょう。
今それぞれ思い描いている、お母さん、奥さん、お婆ちゃん、あるいはご本人に、もうすぐ妊娠して来年には子供が生まれると言われたら、皆さんはどのような反応をするでしょうか?

サラが89歳の時に御使いが現れ、子供が授かると聞いた時、サラは思わず心の中で笑いました。
その笑いは「やった~!」という喜びの笑いではなく、「はっ、そんなバカな。」という不信仰の笑いでした。いわゆる失笑という奴ですね。
その時主は、笑うサラを戒めています。

創世記 18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」

この時された約束の通り、サラは身ごもり、90歳の時に母親となりました。
当時の人々は長生きで、アブラハムは175歳まで、サラも127歳まで生きたと聖書には書かれていますから、今で言う90歳とは感覚が多少違うかもしれません。
しかしそうは言っても、ありえないほどの高齢出産だったことはサラたちの反応からみても判る事でしょう。

ちなみに日本では、明治18年1月28日に京都の女性が81歳で出産したという記録が残っているそうです。
まぁ信憑性は薄いそうですが、本当だとすればサラに負けないくらいの高齢出産ということになりますね。

サラだけにかかわらず、こういう話を聞いたときに私達の中から出てくるのは、やはり失笑だったり、ジョークに対する笑いと同じ笑いだろうと思います。
普通、本気としては受け取れない。
常識的に考えてありえない話だからです。

しかし主は、約束されたとおりサラを顧みて、仰せられたとおりに主は子供を授けました。
サラはみごもり、後継ぎとなる男の子をアブラハムのために産んだのです。

89歳の時に、来年子供を産むと聞いてサラから出てきた失笑は、一年後、神様への感謝と喜びの笑いに変えられました。
この子供「イサク」という名は、「笑い」という意味を表しています。
そのイサクという名は、生まれる前に神様から与えられていた名前でしたが、サライは授かったイサクを前にして主にある笑いというものがどういうものなのかということを初めて知る事になったでしょう。
何よりもサラはこの時、自分に笑いかけて下さっている神様を知ることができたのです。

神様は私達にも笑いかけておられます。
皆さんは今、笑いの中にあるでしょうか?
今現在、皆さんは悲しみの中にあるかもしれません。
苦しみの中に身を置いているかもしれません。
私達が絶望の内にある時には、どのような希望を耳にしても、私達は失笑をもってしか答えることはできないかもしれません。
しかし神様は、私達の失笑を喜びの笑いに換えて下さるのです。

② 女の戦い
さて、アブラハムが主の声を聞き、自分に後継ぎが与えられて子孫は大いなる国民とされるという約束をされてから、25年の歳月が経っていました。
その間ふたりは固い信仰を持って待ち続けたわけではなく、アブラハムもサラも神様の約束をなかなか信じることができず、不信仰のためにたくさんの罪を犯しました。
それにも関わらず、神様は約束の子であるイサクを授けて下さったのです。
とは言っても、不信仰のために蒔いてしまった罪の種は、自分で刈り取らなければならないのも現実でした。

16年前、神様の約束にも関わらず、子供が中々与えられないのを知ったサラは、アブラハムと自分の奴隷の間に子供を産ませ、それを自分の子供にしようとしました。
それは当時のカナン地方の法律では利に適った事でしたが、神様の御心に適う事ではありませんでした。
その時にサラがアブラハムに与えたのがハガルというエジプト人の奴隷で、生まれてきたのがイシュマエルです。

ハガルが妊娠した時から、サラはハガルに嫉妬し始めました。
その嫉妬によって、サラはハガルをいじめたと聖書には書かれています。
そのいじめがあまりに酷いので、ハガルはアブラハムの下を逃げ出そうとしたくらいです。
しかしその時にはまだ神様の時が満ちていなかったので、ハガルは戻って、しばらくの間はアブラハムやサラと共に生活していくことになりました。

でもこの一件にはハガルの方にも問題があったんですよ。
自分に子供ができたので、サラよりも自分の方がアブラハムの妻として相応しいという様な態度を取って、サラを見下し、挑発し続けていたのです。

そしてそんなジメジメした女の戦いが繰り広げられるようになってしまったのも、アブラハムの無関心さと優柔不断さが原因だと言う事もできました。
結局は誰かひとりが悪いと言うことではなく、人が持つ罪というものが起こす悲劇がここにあったということでしょう。
しかし、神様の時が満ちたとき、女の戦いにひとつの幕が降ろされました。

21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」

イシュマエルがイサクをからかってバカにするのを目にしてしまった事が大きな原因ではありましたが、人間的な部分だけ見れば、ここにあったのはサラの一方的な嫉妬と焦りです。
「このままではイシュマエルがアブラハムの後継ぎになってしまうのではないか。」
もとはと言えば自分がそれを望んでいた事なのに、いざとなるとこんなに勝手な事をいってしまうのは、私達人間がもつ罪の深さを表していると言えるでしょう。
しかし、サラの思惑がどのようなものだったかはともかくとして、神様の御心もまた、イシュマエルではなく、イサクがアブラハムの後継ぎとされる事にあったのです。

21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

パレスチナの地を追い出される形となったイシュマエルは、この後12部族へと発展してゆき、アラブ人の祖先となります。
アブラハムからの後継ぎとなれなかったとは言え、神様が約束した祝福がどれ程大きいものだったかは、今でもアラブ諸国がどれほど石油に恵まれ、裕福な国となっているかを考えればわかるのではないでしょうか?

ここで始まったふたりの確執が、現代のパレスチナ問題の根っことなっていくのですが、これは本編とは関係のないことなので、また別の機会にお話しすることにしましょう。

③ 奴隷の子か、約束の子か
最後に、少し難しい話かもしれませんが、契約の民としての相続権がアブラハムの長男であるイシュマエルではなく、イサクに与えられた事に表されている比ゆ的な意味についてお話しておきましょう。
このことに関しては新約聖書、ガラテヤ人への手紙4章21~31節に書かれていることなので、興味があったら読んで見てください。

まずアブラハムとサラのアイデアや働きから生まれたイシュマエルは「肉的なもの」や「行い」をあらわしています。
一方で、神様の恵みによって与えられたイサクは、神様の「約束」を意味しているのです。

私達は子供の頃から教えられてきたのは、正しい事をしたら天国に行き、悪い事をしたものは地獄に行くのだということです。
誤解のないように言っておきますが、これは別に日本だけのことではなく、キリスト教が当たり前のようにある西洋の国々でも同じです。
これが肉の価値観。人類のスタンダードだということです。

似たような考え方として、良い成績を取ったら何かを買ってあげるとか、お手伝いをしたらお小遣いをあげるという具合に、行いに応じてご褒美が与えられるということあります。
もちろんそれ自体が悪いという事ではまったくありませんが、神様によって与えられる救いとは、それとは全く違う所にあるのだということを知って欲しいのです。

行いが生み出すのは、「~ねばならい。」という価値観です。
救われるために「善い行いをしなければならない。」「人助けをしなければならない。」「毎週教会に行かなければならない。」「毎日聖書を読まなければならない。」
このような価値観に自由はありません。
なぜなら、いつも完璧な行いをすることはできないからです。
だから、いつも自分は天国にいけるのかどうかわからないという不安に駆られる事になります。
私達が行いによって天国に行かなければならないとしたら、私達は行いに縛られ、不安に支配された奴隷になってしまうのです。

しかし救いは一方的な恵みであるというのが聖書に書かれている真実です。
神様は私達の罪をキリストに負わせ、十字架につけ、私達の救いを成就されました。
「十字架で死なれたイエス・キリストを信じる者は、誰でも救われる。」というのが神様の約束です。
私達がその約束を受け入れ、信じる時、私達を縛り付けるものはなにもありません。
私たちは完全に自由なのです。

奴隷の子、イシュマエルにはアブラハムからの相続権は与えられませんでした。
約束の子、イサクが契約の子でもあるのです。

皆さんは奴隷の子の様な生き方をしてはいないでしょうか?
イサクがそうだったように、私達もまた自由の子であり、約束の子供です。
イエス様が私達を自由にして下さったのですから、私達はその自由を喜び、神様からの愛と恵みをいっぱいに受ければ良いのです。
私達はしなければならないのではなく、喜びをもって全ての事をなすべきです。
私達は愛されているから、神を賛美し、礼拝し、御言葉を学び、人を愛し、人を思いやり、与えられているから人に与え、人に仕えることができる人間へと成長していこうではありませんか。
それこそが、私たち約束の子供たちの喜びであるはずだからです。

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