創世記22:1-14 『主が備えて下さる(アドナイ・イルエ)』 2006/08/06 松田健太郎牧師

創世記 22:1~14
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

今日のメッセージは先週からの続きです。
と言っても先週の話を知らなければわからない話というわけでもないのですが、先週のメッセージで話されたことをざっと復習しましょう。

25年という月日を待って、アブラハムにようやくイサクと言う約束された子が与えられました。
これでもう安心して人生を終わる事ができる。もう何も思い残す事がないと思っていたある日、アブラハムにとって最大であり、最後の試練が訪れました。
しかしその試練こそが、彼の人生の頂点でもあったのです。
アブラハムに与えられた最後の試練とは、彼のひとり子であるイサクをモリヤの山で全焼のいけにえとして捧げなさいということでした。
アブラハムは葛藤に葛藤を重ねた末、最後にイサクを捧げるためにその喉に手を伸ばします。
しかしその瞬間、「イサクに手をかけてはならない」という声が天から響き、ふと横を見ると、雄の羊が籔に角を引っ掛けているのを見つけ、イサクの代わりとしてその雄羊がいけにえとして捧げられました。

しかし、イサクを捧げるという試練に対する葛藤の中でアブラハムの信仰は研ぎ澄まされていったのだということがひとつ。
そして何よりも、自分の愛するひとり子に自ら手をかけるその苦しみこそ、イエス様が十字架にかけられるとき、神様ご自身が経験された苦しみに他ならないということでした。
「神は実にそのひとり子を与えられるほどに世を愛された。」という神様の愛。
その大きな愛で私達は愛されているのだというのが先週のメッセージの概要です。

気をつけなければならないのは、「私たちもアブラハムのように捧げましょう」とか、「執着しすぎてはいけない。」というのが聖書のメッセージではないと言うことです。
これはアブラハムの人生であり、アブラハムに与えられて試練であって、私たちのものではありません。
私たちにも、神様に全てを委ね、握ったその手を放さなければならないことがあるかもしれませんが、それは私たちの人生において神様のお取り扱いによってできることです。
私たちの努力によるのではありません。
決してこのメッセージを、神様に喜ばれるためには未練を振りほどかなければならないとか、捧げなければ神様に愛されないという風には受け取らないで下さい。
それは福音とはかけ離れたお話だからです。
さてこのように、先週はアブラハムを中心にこの箇所を見てきたのですが、今日は捧げられるイサクを中心にして一緒に見ていきましょう。

① 引き継がれる信仰
皆さんは、この時イサクが何歳だったとお考えでしょうか?
映画などでアブラハムが描かれる時、イサクが捧げられるこのシーンで、イサクは幼い子供として登場することが多いので、小さい子供として連想される方がほとんどかもしれません。
しかし、ユダヤ人の伝承によれば、この時イサクはすでに37歳になっていたとか、26歳だったと言われています。
だいたい30歳前後の年齢だったと言うんですね。

するとイメージが随分変わってくるのではないでしょうか?
幼くてまだ何も判らない子供を騙し騙し山奥に連れて行って、生贄として捧げるという恐ろしいけれどドラマチックな映像にはならないのです。

イサクとアブラハムはちょうど100歳年が離れていますから、仮にイサクが30歳だったとしたらアブラハムは130歳。
もうどっちが連れて行かれているのか判らなくなってきますね(笑)。
愛する我が子とは言っても、もう30歳のおっさんですよ。
全焼のいけにえの準備をするアブラハムをつぶらな瞳で見つめて、「火と薪はあるけど、全焼のいけにえのための羊はどうするの?」という感じではありませんね。

しかし皆さんには、ここでもうひとつ疑問にもって欲しいことがあるのです。
30歳、働き盛りの成人男性イサクを、130歳のお爺ちゃんであるアブラハムがどうやって全焼の生贄として捧げるのかということです。

どちらの腕力が強いかということは、考えてみれば誰にでもわかりますね。
イサクが「冗談じゃない」と言って逆らえば、老人アブラハムにはそれを止める術はありません。
しかしいけにえとして捧げるためにはイサクの両手を後ろで縛り上げ、石で築いた祭壇の上に乗せる必要があります。
もうお分かりでしょう。すべてはアブラハムがひとりでできる事ではないということです。
そしてアブラハムの手を助け、イサクの手を後ろで縛り、祭壇の上に乗せるように取り計らったのは、他でもないイサク自身だということなのです。

アブラハムが神様の声を聞き、モリヤの山で愛するひとり子を全焼のいけにえとして捧げるというこの出来事は、アブラハムの信仰というだけではなく、イサクの信仰でもあったということです。
信仰の父と讃えられる事になるアブラハムの信仰は、ここに子の世代へと引き継がれていきます。
アブラハムの生涯最大のクライマックスは、それと同時に世代交代の時でもあるのです。

② イサクに秘められた雛型
さて、さらに深みへと入っていくと共に、大きな疑問に一歩足を踏み込んで見ましょう。
アブラハムの信仰に対する試みとはいえ、愛するひとり子を捧げるという残酷な試練が彼に与えられたのはなぜだったのか、という疑問です。

その答えのヒントが、イサクを捧げる場所として選ばれた場所が、彼らがいる所から1日半も離れるモリヤであるということにあります。
アブラハムはわざわざこんな離れた場所まで来て、イサクを生贄として捧げなければならなかったのです。
なぜでしょうか?

アブラハムがイサクを主に捧げてからおよそ2000年後、このモリヤの山は少し別の名前で呼ばれていました。
このモリヤの山の一部を、“ゴルゴダの丘”というのです。

このモリヤの山、ゴルゴダの丘で、私たちの罪を贖う生贄の雄羊としてほふられた方を、私達は知っています。
神のひとり子であるイエス・キリストが、私たちの罪の赦しのためのいけにえとして、十字架で死んでくださったのです。

先週のメッセージで、アブラハムがイサクを捧げたのは父なる神様が私たち人間のためにひとり子を十字架につけたその痛みを表す雛形だという話をしました。
そうであれば当然のこととして、アブラハムのひとり子イサクは、神のひとり子イエス・キリストを表す雛形として描かれているのです。

振りほどこうと思えば振りほどく事ができたのに、アブラハムがいけにえとして捧げようとするその時に逃げ出すのではなく、むしろ父がいけにえとして捧げようとするその作業を手伝うイサクの従順。
ゲツセマネで血の汗を流しながらも、「あなたの御心のままに」と十字架の道を選んだイエス様の従順。

自らを焼く事になる薪を背負ってモリヤの山を登るイサクの姿。
これからかけられる十字架を、自ら背負わされてゴルゴダの丘を登りゆくイエス様の姿。
すべてがオーバーラップしてきませんか?

そう考えれば、イサクが何もわからない幼子なのではなく、30歳前後だと言うのもすごく辻褄が合うというか、そうでなければならないような気がしますね。
聖書に書かれていないので、私達が絶対にそうだということはできないのですが、イエス様が30歳の時にキリストとしての道を歩み始められ、33歳の時に十字架にかけられたとするのであれば、この時のイサクもやはり、33歳だったのではないかとさえ思えてきます。

イエス様を知っている私たちクリスチャンが思い描くイサクは小さな子供で、イエス様を認めないユダヤ人達が伝えてきた伝承が30歳前後という年齢として覚えているのは、考えてみれば何とも皮肉なことですね。

ただ単に、アブラハムの信仰、イサクの信仰の成長のためであれば、いくらでも別の方法で試み、成長させる事が神様にはおできになったでしょう。
しかし、アブラハムからイサクに伝えられる神様の契約と祝福が、どのような意味を持つものなのかということを後世の私達が理解するためには、彼らの経験を通してイエス・キリストの雛形が描かれるということは神様にとって必然だったのです。

③ 主が備えて下さる
さて、さらにもう一歩先に進んでみましょう。
イサクはイエス・キリストを表す雛形なのですが、イサクとイエス様ではひとつ重大な部分で違いがあります。
イエス様は十字架の上で実際に死にましたが、イサクは結局死ななくて済んだということです。

アブラハムがイサクの首をかき切ろうと手をかけた時、神様がその手を止めるのをアブラハムは聞きました。
「お前の信仰はよくわかった。その子に手を下してはならない。」
目を上げると、彼は籔につのを引っ掛けている雄羊を見つけました。
アブラハムはイサクの代わりにこの羊を捕まえ、全焼の生贄として捧げます。
ここに重要な真理が表されています。
それは、「贖い」です。

この時、イサクは死ななければならないはずでした。
しかしその身代わりとして、雄羊が与えられたのです。

私達はひとり残らず、永遠に滅ぼさなければならない罪人でした。
しかし私達にはイエス様が与えられ、イエス様が私たちの罪を贖い、私たちの身代わりとして十字架にかかってくださったのです。

この出来事の後、アブラハムは神様を「備えて下さる主」として崇めました。
神様が備えて下さるのは何でしょうか?
神様が私たちの必要を満たしてくださるということもできるのですが、ここに表されいるのはそれよりもずっと大きなことです。
それは、神様が私たちのために贖いを備えて下さっているとい事なのです。

私達はすぐに、この贖いの備えを忘れてしまいます。
贖いに繋がらない信仰は空しいものです。
「捧げなさい。」と言われれば「そんなことを言うなんて、神様はいじわるだ。」と言って神様から逃げ出してしまったり、備えられていた雄羊を目にしても、頑固にイサクを捧げる事にこだわって本当に殺してしまったりする。
皆さんの信仰はその様にはなっていないでしょうか?

イエス様はこのように言いました。

マルコ 10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

それを聞いて驚く弟子達にイエス様が言った言葉を思い出して下さい。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはできます。」(マルコ10:27)

私達が自分の力、行い、努力によって救いに達する事はできません。
どんなに素晴らしい善行も、人助けも、自己犠牲も、神様を喜ばせることはできないのです。私達は絶望的なくらい不完全で、不十分だからです。

しかし、神様の贖いが備えられている。
それが聖書の語る福音です。

私にはアブラハムのように愛するものを捧げる事ができない。
イサクのように従順な信仰はない。
大丈夫です。
主の備えがあります。
主の山、ゴルゴダの丘には贖いという備えがあるのです。

私達は「贖われている」という事実をただ信じ、喜びを持ってその真実を受け取ればいい。ただそれだけで良いのです。

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