創世記25:19-34 『エサウとヤコブ』 2006/09/03 松田健太郎牧師

創世記 25:19~34
25:19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。
25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。
25:21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。
25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。
25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
25:24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。
25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。
25:26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
25:27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
25:28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。
25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

僕が通っていた大学は、日本の大学のアメリカ校だったのですが、できたばかりで生徒が必要だったということもあり、成績やテストの点が悪くてもお金があれば入れるような学校でした。
そういう学校だったので、周りにいるのはどこかの会社の社長の息子だったり、大阪市内に土地を持つ地主の子供だったりと、お金持ちが多い環境でした。
今までお金がなくて困ったということもほとんどなかったのですが、周りの友人達を見ているともし自分が大金持ちの家庭に生まれていたら、欲しいものも我慢しなくて良いのに、どうして自分の家は彼らのようなお金持ちではないんだろうという思いが大きくなっていきました。

やがて音楽をやるようになってくると、今度はピアノを弾ける友人がかっこよく見えて仕方がないんですね。
その時には思いました。
「どうして家の親は僕にピアノを習わせなかったんだろう。無理にでも通わせてくれればよかったのに。」

自分にない物を羨む『隣の柴が青く見える』瞬間を、誰でも経験したことがあるのではないでしょうか?
こういった思いは、他の人と自分を比較する価値観の元に生まれてきます。
この比較する価値観が嫉妬心や争いを生み出していくのではないでしょうか?
聖書の教える価値観はそうではありませんね。
神様は私たちひとりひとりを最高の者として創造したのです。
そんな聖書の価値観を通すと、今までに見ることができなかったものが見えてきます。

僕がその大学に合格した時に、アメリカに留学させるのに十分なお金が与えられていた事、そしてそのお金を自分のためではなく僕のために費やしてくれる両親が与えられていた事。
また、音楽を愛する心を与えられた事、今からでも始めようと思えばピアノだって弾けるようになる10本の指が与えられている事。
今の自分に与えられているものを数え上げれば、いくらでも数える事ができ、感謝する事もできるのです。

① 比較の価値観と聖書の価値観
さて、今日からのシリーズの主人公は、“イサクから出るものがアブラハムの子孫と呼ばれる”と言われたイサクの子供が中心となってきます。
エサウとヤコブですね。
夏休み前くらいに丁度こどものお話の中で取り上げられていた所ですから、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

この双子、エサウとヤコブは、母のお腹の中にいた時から争い、ぶつかり合っていました。
僕は妊娠した経験がないのでわからないですが、子供がお腹の中で蹴ったりする時には、痛かったり、違和感があるのだろうなと思います。
二人の子供たちが喧嘩をしてしまっているのですから、お母さんも大変だった事でしょう。
不安になった母ラケルは、「大丈夫なんでしょうか?」と、神様に祈るわけです。

25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。
25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

私達がエサウとヤコブの物語を聞くとき、どうしてもヤコブが悪者であるかのような印象が残ってしまいます。
ヤコブが、長子としての権利をエサウから騙し取り、エサウから神様の祝福を奪ったというイメージですね。
しかし聖書をしっかり読んでみれば、神様の祝福の選びは、生まれる前からすでに弟のヤコブに与えられていたということがわかります。
ヤコブがエサウから奪い取ったから、ヤコブは神様の祝福を得たのではありません。
もうすでに与えられているものを、自分の力で?ぎり取ろうとした結果、ヤコブはトラブルを招いてしまったというのがエサウとヤコブの物語の根底にある教訓です。

さあ、そうするとエサウがかわいそうではないかと、心の優しい方は考えてしまうかもしれません。
「神様は不公平だ。」「そんなのひいきだ。」
「エサウが長男として生まれてきたんだから、長男としての祝福をそのまま与えてあげればいいのに。」
でもこれは、比較の価値観ですよね。

神様の選びを受けて、メシヤの家系に連ねられていく事は名誉な事かもしれませんが、その人にとって必ずしも素晴らしい人生をもたらすとは限りません。
「いいなぁ、イスラエルという民族は。神様から特別に愛され、特別な祝福を受けて。」
と思われる方もいるかもしれませんが、神様の選びを受けるということは相応の責任も伴うということでもあるのです。
イスラエルという民族が背負ってきた歴史が、必ずしも羨ましいとは僕は思いません。
会社に入ると課長や部長に早くなりたいな。いずかは俺も社長になるんだ。と思うかもしれませんが、実際に役職につけばそれがどれだけ責任の重い仕事なのかを思い知らされますね。
人によっては、給料が少なくても定年するまで平社員の方が幸せだということがあるかもしれないのです。

事実、エサウは長子の権利なんて最初から望んでもいなかったのです。
そして早々とその権利を放棄し、最終的には父親から受けるはずだった長男としての祝福も受けることができませんでした。
だから彼の一生は不幸だったかといえばそういうわけでもなく、彼の自由奔放な気質のままに生涯を楽しみ、その子孫は国を作り、エドム人という民族をも形成していきます。
神様の選びがエサウではなく弟にあったということは彼が神様に見捨てられたということではまったくありません。
後で見るように、むしろエサウの方が神様から離れていってしまったというのが、この時に起こったできごとだったのです。

② 家族の亀裂

25:27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
25:28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

父イサクはエサウを偏愛し、母ラケルはヤコブを偏愛していました。
この様な家族の分裂は今の社会でも見られますね。
あるいは親子の断絶だったり、父親ひとりが孤立して、母親と子供全員が対立しているという家庭もあります。
ある意味でほっとさせられるのは、聖書の登場人物のほとんどが、理想的な家庭環境を築けていなかったということですね。
神様に用いられるためには理想的な家庭環境ではいけないということではもちろんないでしょうが、家庭内の幸せが、神様に愛されるための条件というわけではないということです。
私達は家庭内の問題を前にしたときにはどうしたら良いのでしょうか?
それは他の問題を前にするときと同じです。
あきらめるのでもなく、開き直るのでもなく、問題を主に差し出し、委ね、解決へと導かれるように祈り求めていくことです。
そして主の声に耳を済ませるとき、自ずと解決のための方法が示されていくのではないでしょうか?

非常に残念な事ですが、この時、イサクとリベカの家庭内で起こった家族間の亀裂は、もっと大きな問題へと発展していってしまいます。
それについては、来週一緒に見ていくことにしましょう。

③ 長子の権利
エサウとヤコブには、大きな違いが一点ありました。
その違いによって、ヤコブは神様の愛をより多く受け、エサウは神様から離れていく事になってしまったと言っても過言ではありません。
それは、神様の召しであり、選びである、長子の権利に価値を見出す事ができたかどうかということの違いです。

25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

長子の権利とは、何でしょうか。
それは財産だったり、メシヤの家系に名を連ねる事であったり、カナンの地の相続権であったり色々なものが含まれていたのですが、判りやすく一言で言えば神様からの特別な祝福です。

エサウはその祝福を煮物ひとつで、あっさり譲ってしまいます。
これは別に、エサウには欲が無かったんだとか、そういうことではありません。
将来受けることになる神様からの祝福よりも、いま目先の空腹を満たしたかったというただそれだけのことです。
刹那的であり、場当たり的なんですね。
「神様だとか、長子の権利だとか喰えないものなんてどうでもいい。俺はとにかく腹が減ってるんだ。」というわけです。

先日ニュース番組の特集で、15才で家出して、渋谷を彷徨っている少女が出ていました。
彼女はパパと呼んでいる50代の会社社長からお金をもらい、それで生活していました。
こんなに楽にお金がもらえるのに、普通の仕事をする気なんて無い。
そう言った彼女はこの様にも言っていました。
「今が楽しければそれでいい。自分の未来を予想してどうするのって感じ。」
今だけを生きている彼女に、未来なんてあるのでしょうか?

私達はどうでしょうか?
私達はエサウや、15歳の少女とは違うと言う事ができるでしょうか?

イエス様の十字架による救いと、永遠の命を聖書は語ります。
私達は与えられた永遠の命のために、今の人生を歩む事ができているのでしょうか?
私達はやっぱり、今、生きている間をいかに幸せに生きるかということだけのために生きてはいないでしょうか?

占いや風水がどうしてこんなに人気があるのですか?
それは、今幸せを手にいれる方法を教えてくれるからです。
町に出て永遠の命の事を人々に話しても、ほとんどの人たちは気にも留めずに通り過ぎて行きます。
彼らは口をそろえてこう言うのです。
「腹が減って死にそうなのだ。永遠の命など、今の俺に何になろうか。」
関心も払わず、相変わらず目先の事だけを考えているのです。

今は我慢して不幸なまま生きたら良いということを言っているのではありません。
しかし、私達が復活してから過ごす事になる永遠の時間に比べたら、私たちの人生の時間なんてほんの一瞬でしかありません。
今の短い人生を楽しむために与えられている永遠の命を手にすることなく捨ててしまうのでは、あまりに短絡的、刹那的、場当たり的では無いでしょうか?

「今よければそれでいい。」という15歳の少女が間違っている事は、大人であれば誰でもわかることなのに、自分の事となるとわからなくなってしまうのはなぜなのでしょうか?

イエス様は言います。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのち(永遠のいのち)を損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:25)

今の楽しみをどれだけ追求したととしても、それが世界の全てを手に入れるほどの価値があるものだったとしても、所詮は100年で終わってしまう楽しみです。
その後に待っているはずの永遠の喜びを受けることができないのなら、その100年にどれだけの価値があるでしょうか?

人間的にみれば、エサウは男らしくて、さっぱりしていて、単純で、ヤコブよりもずっと親しみやすい人格だったかもしれません。
しかし、エサウは今の喜びだけを選んで、神様を顧みる事がなかった。

ヤコブは人格的にも少し問題があったかもしれないし、嘘をつくという人の目にも判りやすい罪を犯しました。
しかしヤコブは、神様を見据えていたのです。

山で遭難した時のように、目の前の木々に捕われていたら決してそこから抜け出る事はできません。
一方で、遠くに目標を定めそこに向かって真っ直ぐ歩いていけば、必ず目的地にたどり着く事はできるのです。

皆さんは神様に目を据えて人生を歩んでいるでしょうか?
どうか皆さんが目の前の事に捕われてしまっていたり、比較的だったり、刹那的だったりするのではなく、神様の価値観、永遠の視点で世界を見、今の人生を過ごす事ができるように心から祈ります。

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