創世記28:10-22 『主がともにおられる』 2006/09/17 松田健太郎牧師

創世記 28:10~22
28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、
28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、
28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」

先週の水曜日から、奈緒美を保育所に預けるようになりました。
9時から5時の8時間、週に1~2日程度預けるので、教会の活動にももう少し幅がでてくるかもしれません。
最初は大変だと色々な人から聞いていたので、かなりの覚悟をしていたのですが、連れて行ってみると案外平気で、ニコニコして手を振りながら「バイバ~イ。」という感じでした。
これまでに何度か両親や妹に預かってもらったり、ダイエーの保育所に預けたりしていたので慣れたのかもしれませんね。
これでも最初両親や妹に預けた時なんかは、やっぱり大変な状態でした。
「ギャ~ッ」と泣き叫んで、マンションの駐車場からでも声が聞こえるくらい。
その時にはやはり、胸が引き裂かれているような思いに駆られたものです。
子供は子供であれ程の声を出して泣き叫ぶのは、親や家から引き離されるという経験は辛く、寂しく、不安で、見捨てられたような気持ちにさえなるものなのかもしれません。

聖書の中では、故郷を離れるという話が実にたくさん出てきます。
アブラハムも神様に出会ったときに生まれ故郷カルデヤのウルを離れて旅たちましたが、今日のヤコブの話もそうです。
ヤコブの子供ヨセフもエジプトに奴隷として売られ、後を追う形で他の家族もエジプトに移り、それからはイスラエルという民族全体が祖国であるカナンの地に帰っていくという話になっていきますね。
イスラエルの王ダビデもサウルに追われイスラエルから離れましたし、やがてイスラエルは捕囚を2回も経験することになっていきます。
そして聖書の中では、この故郷を離れるという体験がいつも重要な意味をもって描かれているのです。

私達は住んでいる土地、環境、文化、風習、伝統などにアイデンティティを求めようとします。
私たちが故郷から離れるということは、そういった全ての価値観を一度捨てなければならない事を意味しているのです。
だから故郷から離れるという体験は、大人である私たちにとっても不安な気持ちになるわけですね。
しかし、私達が故郷から離れ、今まで当たり前だと思っていたものが変わり、全ての特権を捨て去った時、私達は決して変わることの無いお方、神様を見出す事ができるのではないでしょうか?

皆さんの中にも故郷を離れて、いま日本に来ている方がたくさんいますね。
それだけではない、日本人の女性にとって結婚するということは、生まれ育った故郷を離れて新しい文化で生活するのと同じ事を意味します。
あるいは新しい会社に就職する時、職場でポストが変わった時、定年で退職する時、私達はみんな故郷と離れるのと同じような不安を目の当たりにします。

今日皆さんの中で、不安を感じていたり、孤独で寂しかったり、何かを心配したりしている方がいらっしゃるなら、その皆さんは今日のヤコブの気持ちをすごく理解する事ができるかもしれません。
そしてその中でヤコブと同じ体験をして、今日お帰りになる事ができたら素晴らしいなと思います。

① ヤコブの失意
ヤコブは失意のどん底にある状態にありました。
ただ単に故郷を離れなければならないというだけのことでなかったのです。
2度にわたって双子の兄エサウを騙し、長子の権利も、長子が受ける父イサクからの祝福も、ヤコブは手に入れたはずでした。
自分の手に入れたかったものを全て手にいれ、これからもう、約束された幸せな一生を送っていけばいいんだ、それが彼の人生計画だったのではないかと思います。

しかし、現実はそのようにはなりませんでした。
兄エサウはヤコブが長子としての権利と祝福を騙し取った事に怒り、殺意を抱き始めたので、ヤコブは母リベカの勧めに従い、家族の元を離れるしかなかったのです。

家族から離れてみれば、あれだけ苦労して手に入れたはずの長子の権利や祝福なんて、何の意味もありません。
自分が手にするはずの土地は遠く離れた所にあり、財産も手元になく、自分を長子として扱ってくれる家族さえいないのですから。
全てを手に入れようとしたヤコブは、全てを投げ出して逃げ出し、結局はすべてを失う結果になったということですね。

失意に打ちひしがれながらも、彼は止まることなく黙々と進んでいきました。
その時ヤコブの脳裏にあったのはどんな事だったでしょうか?
こんな目に合わせやがってというエサウへの恨みかもしれません。
あんな事、するんじゃなかったという後悔かもしれません。
あるいは命を狙っているだろうエサウへの恐れから、ただひたすら前に進んだのかもしれません。
やがて彼がたどり着いたのは、人里離れ、故郷のベェル・シェバから88キロも離れた荒野でした。
彼はとうとうそこで足を止め、野宿する事にしたのです。

見渡す限り見えるのは岩や小さな茂みばかり、いや彼が足を止めた頃には、もう真っ暗で何も見ることはできなかったかもしれません。
皆さんは人工物が回りにない大自然の中で、ひとりだけで野宿をしたことがありますか?
実は僕にもないのですが、アメリカを自転車で単身走破した方に話を聞いたことがあります。
初めはもう、とにかく恐いそうです。
月明かりがあればまだ多少明るいのですが、新月の時はもう真っ暗になってしまう。
テントも何もなく寝袋だけだったので、周りを覆ってくれるものもない。
彼はとにかく自分のものを手の届く所に集めて、しがみつきながら、明かりもつけっ放しで寝たそうです。

野の人であったエサウと違い、ヤコブにとってこれが初めての野宿だったでしょう。
その言い知れぬ不安の中、兄エサウへの恐れや、自分の失敗への悔しさ、色々な想いが交錯してなかなか寝付く事はできなかったはずです。
その様な中で、ヤコブはこの時初めて求めたのです、神様に。

これまで祖父アブラハムが信仰し、父イサクが信仰してきた神様。
それまで何度も話には聞き、何とは知らず、自分もその祝福を願って止まなかった神様という存在。
ほとんどの人にとって、神様との出会いと言うものは平穏無事なときには起こりません。
家族を失った時や、大きな病気になった時、自分の人生がひっくり返るような出来事が起こったときなど緊急事態を通して、私達は神様との出会いを経験します。
それは、私達が極限状態に置かれて初めて神様を求めるからですね。
ヤコブが初めて神様と出会ったのも、人生の中の極限的な状況の中で起こりました。

② アブラハム、イサク、そしてヤコブの神
野宿をしたその夜、ヤコブは夢を見ます。

28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

彼がまず夢の中で見たのははしごでした。
この頃の時代背景などを考えると、はしごと言うよりは階段状のものだったでしょう。
そしてそのはしごは、天から地に伸びる階段でした。
これはかつて人類が、地上から天に届こうとして建造した階段状の建物、バベルの塔とは反対のものだったのです。

私たち人類は神様に反逆した悪魔に耳を傾け、自分たちが神に取って代わろうとする罪を犯しました。
その罪によって、私達は神様から遠く離れた存在になってしまったんですね。
しかし遠く離れてしまった神様に手を伸ばし、自分たちの力によって再び神様に届こうとしたのがバベルの塔の事件でした。
そして、今ヤコブが夢の中で目にしているのはそれとは全く逆のものだったのです。

「神様の側から、今わたしに手を差し伸べてくださっている。」
ヤコブにはそう感じられたかもしれません。
そして見よ、神様ご自身がヤコブのからわらに立っておられるのを、彼は見たのです。
主は、彼に仰せられました。

「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。(創世記28:13)

これと同じ約束を、私達はこれまで何度も耳にしてきましたね。
それは、アブラハムにされた約束とまったく同じ約束だったのです。
祖父アブラハムが聞き、彼の人生をまったく変えてしまうことになった神様ご自身の約束。
ひょっとしたら父イサクでさえ直接には聞いたことがなかったかもしれない主の約束と祝福、それをヤコブは夢の中で耳にしたのです。
その時、おじいちゃんのアブラハムが信じていた神様、お父さんイサクが信じていた神様は、今やヤコブの神様ともなりました。

その時、ヤコブは自分がこれまで本当に求めていたものが何かを知ったでしょう。
名前だけの長子の権利ではなく、父親からの形だけの祝福ではなく、世界の創造主神様からの直接の約束と祝福、これこそヤコブが望みをもって追い続けたものでした。
そしてそれは、神様から直接与えられなければならなかった。
自分の知恵や策略という人間的な手段で手に入れようとすることは、自ら塔を建て上げて神様に届こうとする罪に他ならなかったのです。

自分の行動によって神様を動かし、祝福を手に入れることはできません。
自分の努力によって神様に届こうとするなら、やがて崩れ落ちて全てを失ってしまう。
ならば神とは決して届く事のできない、果てしなく遠い存在なのでしょうか?
そうではありません。
神様の方が私たちのところまで降りてきてくださるからです。
ヤコブはその事を自ら体験し、このようにつぶやきました。

「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」(創世記28:16)

主が、ここにおられます。
知識としてではなく、誰かに聞かされたこととしてではなく、主が共におられる事を、皆さんは個人的な体験として知っているでしょうか?

③ 主がともにおられる
イエス様がメシヤとしての人生を歩み、福音を述べ伝え始めると、人々はどよめき、大きな驚きをもってイエス様を見るようになりました。
それはイエス様が見せた数々の奇蹟だけではありません。
「あの学者はこの様に言った。」と人の話ばかり取り上げている律法学者とは違い、イエス様は神様ご自身としての権威がある者のように教えられたからです。(マルコ1:22)
まるで神様ご自身がそこにおられるような話し方。
人々は、イエス様のその御言葉から神様の臨在を感じた事でしょう。

神様の権威を持って教えられたイエス様は、愛に満ち溢れたお方でもあります。
人々はイエス様を通して、神様が私たちをどのように愛されているかということも知る事ができました。
ですから、神様が私たちの元に降りてきて、私たちと共にいてくださるという体験を、私達はイエス様を通して経験することができるのです。

そのイエス様が弟子達にこのようにお話されています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:51)

ヤコブが夢の中で見た、天から地に向けられた御使いが行き来するはしごとは、イエス様を表している型です。
イエス様こそ、神様と私たちを結ぶ架け橋であり、天と地を結ぶはしごです。
そう思って見た時、まるで実体があるかのようにヤコブのかたわらに立った神様とは、そうか実はイエス様のことだったんだろうなぁということが判ってくるわけです。

私達が孤独な時、失敗をして苦しんでいる時、自分自身を見失ってしまった時、希望を見出せず絶望感に苛まれている時、例えもう神様には見捨てられてしまったと感じているその時でも、イエス様は私たちと共にいてくださいます。
それは実体のないイメージではなく、人間の都合の良いように作り上げられた偶像ではなく、私達がぬくもりと、優しさと、愛を感じる事ができるお方です。

自分自身で築き上げたものは崩れてしまうかもしれない。
しかし私達は、人の力なのではなく、このお方に希望をもって歩んでいこうではありませんか。

最後にイエス様が私たちのために残してくれた約束の言葉を読んで締めくくりたいと思います。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20後半)

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