創世記48:3-20 『クロスする祝福の手』 2006/12/03 松田健太郎牧師

創世記 48:3~20
48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、
48:4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』
48:5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。
48:6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。
48:7 私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」
48:8 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」
48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。
48:10 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」
48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。
48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。
48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。
48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。
48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」
48:17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」
48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」
48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。

長い間続いてきた創世記の学びも、いよいよ最後になりました。
もともともの計画では、数ヶ月で終わってしまうはずだった創世記だったのですが、そこから神様に語られる事があまりにも多く、結局ほぼ1年、35回のメッセージを通して創世記を学ぶ事となりました。
予定とは全然違う結果となったのですが、そこに神様からの豊かな祝福が与えられ、神様の計画は私たちの思いよりずっと素晴らしいということを思わされるような1年だったと思います。

創世記は、神様からイスラエルという名を与えられたヤコブが、子供たちに与える祝福によって終わりとなっています。
私たちの創世記の学びの締めくくりとしては、その中でもヨセフのふたりの子供たち、マナセとエフライムを養子として迎えるという奇妙な出来事から一緒に学んで行きたいと思います。

* * *

自分の死を意識した時、皆さんがもっとも気になるのはどんなことでしょうか?
多くの方は、家族のことが気がかりになるのではないかと思います。
自分がいなくなったら家族はやっていけるんだろうかとか、子供たちは兄弟げんかしないだろうかとか、考えることは色々あるでしょうね。

そういう意味では、ヤコブはある程度幸福な最期を迎えようとしていたと言うことができます。
彼が一番心を病んでいて、もう死んだと思っていた最愛の息子、ヨセフと再会する事ができたからです。
そしてそのヨセフは、エジプトの宰相になっていましたから、経済的な面でも、安定ということに関しても、何も心配する事がないような状況にありました。
しかし、幸せの絶頂にあるようなそんな時であっても、ヤコブになって最後に気がかりだったのは、やはり家族のことだったんですね。

ヤコブはヨセフを呼び出し、いよいよ最後の一仕事としてひとつの決断をヨセフに打ち明けました。
それは再会したヨセフの子供たち、マナセとエフライムを自分の養子として迎えるという事だったのです。

ヤコブは最期の時を迎えるに当たって、どうしてこの様な決断をしたのでしょうか?
ユダヤ人ではない私達にはわかりにくいことですから、ヤコブがヨセフの息子達を養子として迎えることによって何をしたかったのかをいうことを、一緒に考えて見ましょう。
① 帰るべき場所がある
マナセとエフライムは、エジプトで生まれました。
そしてヤコブも、ヤコブの息子達も、今ヨセフによってエジプトに連れてこられました。
ここから数百年の間、イスラエルの民はエジプトで生活していく事になるのです。

ヤコブがヨセフの息子達に教えたかった第一の事は、エジプトが彼らの故郷ではないということでした。
ヤコブのお爺さんであるアブラハムに神様が語り掛け、与えると約束された土地は、エジプトではなく、カナンなのです。

ヤコブは、その自覚がすでにできている息子達だけでなく、半分エジプト人の血も入ったマナセとエフライムにとっても、故郷はこのエジプトではない。
カナンこそが帰るべき場所なのだという事を、彼らを養子として迎えることを通して知ってもらいたかったのです。

私達クリスチャンもキリストによって、神様の養子として迎えられました。
それは、確かに私達はこの地上で生まれ、育ってきたけれども、私たちにも帰るべき場所があるのだということを教えるために他なりません。
それは神様のみもと、天国こそが私達が帰るところであり、本当の故郷のはずです。

私達は、地上で幸せになり、どうやって満たされるかという思いに捕われてしまってはいないでしょうか?
この世の宗教や、占いや、成功理論が教えているのは全てこのことです。
こうすればあなたは幸せになれる。
こうすればあなたは成功できる。
それは確かに幸せを感じさせ、満足を与えてくれるかもしれませんが、私達は永遠の時をこの地上で過ごすわけではないのです。

聖書の教える事はそうではありません。
イスラエルが数百年をエジプトで過ごさなければならなかったように、私達も神様の時が来るまでは地上にいなければならない。
地上での暮らしは確かに辛い事もある、苦しい事もある、人々が私達を疎外することもあるかもしれない。
しかしそれは当然のことだ。
なぜなら私達は最初から、ここには属してないからです。
天の御国にこそ、私達が所属する地があります。

みなさんは、どこに自分の居場所を見出しているでしょうか?
皆さんが天の御国に、自分が所属しているということを、見出す事ができますよう、心からお祈りしています。

② 2倍の祝福を受ける
マナセとエフライムは最初からヤコブの孫なのですから、わざわざ養子にする必要などないような気がします。
いずれヨセフを通して相続財産を受けることにもなるのでしょうから。

しかし、孫できるのと子供とされることには大きな違いがあります。
孫であれば、ヨセフが受け取った一人分の相続財産を兄弟ふたりで分けることになりますが、養子とされればそれぞれがひとり分の相続を受けることができるということです。
つまり、ヤコブの養子として迎えられることによって、マナセとエフライムは倍の祝福を受けることになったのです。

ヤコブはどうしてこの様な祝福をふたりに与えたのでしょうか?
ヨセフが、もともと最愛の妻からの子供であり、ヤコブにとって一番大切な息子だったということもあるでしょう。
ヤコブには元々ひいきをし、偏愛する傾向がありましたから、妻への愛、ヨセフへの愛が、孫たちにも及んだという見方もできるのかもしれません。

しかしヤコブがもらしたこの様な言葉の中に、彼の本心が含まれているのではないのでしょうか。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」

迷子になった1匹の小羊が帰ってきた喜び。
なくなった銀貨が見つかった時のよろこび。
放蕩息子が帰ってきたときの喜びが、ヤコブの中にありました。

父親が放蕩息子を迎えて、惜しみなく雄牛を屠らせたように、私達の天のお父様が、私達が救われた時に諸手を上げて喜んでくださったように、ヤコブはヨセフとその子供たちに会う事ができたことを神様に感謝し、心から喜んだのです。

神様は私達人類を等しく愛して下さっていますが、私たちがクリスチャンとなった時に、特別な祝福を与えて下さっています。
主から与えられた特別な祝福である聖霊によって歩む時、私達は何倍も豊かな人生を送る事ができるのです。

③ クロスする祝福の手
ヤコブがマナセとエフライムに養子に迎えたのは、ただ単にヤコブの子供になるということだけを意味してはいませんでした。
ヤコブは、寝床を汚した長男のルベンに代わり、ヨセフに長子の権利を与えるつもりにしていました。

そのヨセフの子供たちが、ヤコブの養子として迎えられた今、ヨセフの子供が長子とされるということをこのことは意味していたのです。

48:8 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」
48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。

ヤコブは、ヨセフの子供たちがこの場にいる事を知ると、今この場で長子の祝福を授ける事にしました。
ヤコブはヨセフに、ふたりをヤコブの前に連れてくるように命じます。

ヨセフはヤコブの前に二人の息子達を連れてきて立たせました。
ヤコブの目が見えないことをよく知っていたヨセフは、判りやすいようにヤコブの向かって右側に兄であるマナセを立たせ、左側に弟エフライムを立たせたのです。

しかしその時ヨセフは、とても奇妙な光景を目にする事になりました。
ヤコブは左側に立っているエフライムの頭に右の手を置き、右側にいるマナセの上に左手を置いたのです。
つまりヤコブは、自分の前で腕が交差するようにして、それぞれの子供たちの頭の上に祝福の手を置いたわけです。
なんでわざわざこんな訳のわからない事を、ヤコブはしたのでしょうか?

当時のヘブル的な考え方のひとつに、右手の方が左手よりも大きな祝福が与えられるという考え方がありました。
判りやすい言い方ですと、「イエス・キリストは神の右に座したまえり。」と言いますね?
右側により大きな権威があるからです。
私たちも、「こいつは俺の右腕なんだよ。」って言いますよね?
だから、兄の頭に右手を置き、弟には左手を置いて祝福するのが常識なんです。
それをわざわざヤコブは、腕を交差させて反対に祝福を与えようとしている。

ヨセフは、年老いて目の見えないヤコブが混乱したのだろうと思い、ヤコブの手を戻そうとしました。
「お父さん、こっちが兄のマナセですよ。だからこの子に右手を乗せてください。」と言うわけです。
その時、ヤコブはヨセフに言い放ったのです。

48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」
48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。

後にイスラエルが12部族を形成していく時、エフライム族はその中でもっとも大きな部族となり、北を代表する部族として知られるようになります。
この時にヤコブが預言的に示したこの祝福が、後の時代にこのような形で現実的なものとなっていくのです。

この様にして、ヤコブの息子となったものの中で一番若いエフライムに、ヤコブは長子としての祝福を与えました。
これは、神様が今まで示してきたことと一致していますね?
アブラハムの祝福が、兄イシュマエルではなく弟イサクに与えられたように。
イサクからの祝福が、兄エサウではなく、弟ヤコブに与えられたように。
ヤコブからの祝福は、兄ルベンではなく、兄弟の中でもっとも小さく、養子として迎えられたエフライムに与えられたのです。

神様の祝福は、低い所に流れていきます。
「主は弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らの栄光の位を継がせ(Iサム2:8)」るお方です。
「主は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う。(ヨブ5:11)」

今週から12月ですから、クリスマスにふさわしい箇所も取り上げましょう。
天使ガブリエルによって御子を授かった事を告知されたマリアは、この様な賛美を神様に捧げています。

ルカ 1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

人類の救い主を輩出するという名誉な役目は、平凡で、田舎者で、何の素晴らしい特徴も持っていなかったマリアに与えられました。
それは、高い者を引き降ろし、低い者を高くされる神様のアブラハムの時代からの祝福が、この小さな乙女マリアの元に与えられたという神様の恵みが歌われているのです。

神様は、唯一罪に汚されず、天に昇る資格を持っていたイエス様をその座から引き降ろし、十字架にかけ、私達の罪を贖って下さいました。
そして神様はその代わりに、神様の恵みなど受ける価値のないような私達を罪の中から引き上げ、養子として迎え入れてくださったのです。

皆さん今、ご自分の頭の上を見上げて見てください。
皆さんの霊の目には、見えているでしょうか?
皆さんの頭の上に、神様の交差した祝福の右手が述べられています。

神様の大いなる祝福が、皆さんの上に熱く注がれますように。

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