マタイ5:3 『心の貧しい者は幸いです』 2007/01/14 松田健太郎牧師

マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

子供の不幸を願う親は、よほど何か心の病を抱えていない限りは、おそらくいないだろうと思います。
あまりに言う事を聞かないので腹をたてることもあるでしょうし、時には罰を与える事もあるでしょうが、それはその子の幸せを願っているからです。
子供を棄ててしまう親であっても、自分が育てるよりは幸せになるだろうという希望を持って棄てるのです。

では子供の幸せを願う両親は、子供がどの様になる事を願うでしょうか?
ある両親は、ガンガン習い事をさせて、教養と技術を身につけ、医者か、弁護士か、あるいは将来日本を引っ張っていくようなリーダーになって欲しいと考えます。
ある両親は、別に天才にならなくても、お金持ちにならなくてもいいから、とにかくお金や食べ物に不自由することなく、程ほどの暮らしをして欲しい。それが一番だ。
その様に考えます。
いずれにしても、必要な分は持つ事ができるような大人になって欲しいということを私達は願い、教えるのではないでしょうか。
それが幸せに繋がると、私達が信じているからです。

しかし、イエス様が私たちに教えた幸いとは、それとは全く違う価値観に基づくものでした。
「心の貧しい者は幸いです。」
心が貧しいとはどういう意味なのでしょうか?
いったい、貧しいという言葉が、幸いと結びつくなどということが本当にあるのでしょうか?
今日は、山上の説教の中の最初の教えについて、一緒に学んでいきたいと思います。

① 心が貧しいということ
心が貧しいとは、どういう意味でしょうか?
日本語でそのまま考えると、心が豊かな事の反対なのかな? と感じます。
すると、ケチで、冷たくて、融通が利かなくて、ギスギスして心に潤いが無いような、そんな人は幸いですということをイエス様は言いたいのでしょうか?!
そんな事が、イエス様の心であるはずがありませんね。

僕は日本語の聖書が、どれもこれもこの箇所を、“心の貧しさ”と訳している事が不思議で仕方がありません。
英語では、ここは心(heartとか mind)という言葉ではなく、spiritと訳しています。
“心が貧しい”というよりは、“霊において貧しい”という言葉なんですね。
それは、原文により近い言葉だと思います。

霊において貧しいということは、神様と繋がっている部分、人間存在のもっとも深いところにおいて貧しいという事です。
創世記の中で、初めに神様が息を吹き込まれて、人間は生きる存在となりました。
その息によって与えられたいのちこそが、霊なのです。

また言語的な部分から考えていくならば、ここで言われている“貧しい”状態というのは、不足しているとか、乏しいとか、十分でないとか、貧相であるとか、そういう中途半端な貧しさではないと言うことです。
イエス様が使われた“貧しい”は、まったくゼロの状態、何も無い、与えられなければもう生きてはいけないほどに貧しい状態を指しています。

つまりイエス様が言いたい“心の貧しさ”とは、「神様とのつながりにおいて、神様の恵みにすがるのでなければ一日たりとも生きてはいけない状態 」の事を言っているのです。

私達は生きていく上で色々な経験もしてきましたし、色々な事を学んでもきました。
本も何百冊と読んできましたし、セミナーにも参加しました。
私達には知恵もあります。知識も、経験も、思想も、哲学ももっています。
私達には家族や、友人や、これまで関わってきた多くの人脈もあります。
しかしそのどれもが頼りにはならない。
いや、頼りにしてはならない。

どれもが、私達の人生を生きるうえで大切だし、素晴らしいものですが、それら全てが満たされていてもなお、永遠の神様との繋がりこそが私たちにとっての必須条件なのです。
神様との繋がりがないのであれば、どれだけの繁栄を受け、保障に囲まれていたとしても、私達は霊に餓えて死んでしまう。
それを自覚していることが、心の貧しいということです。

これは、“自分が低い者であるかのように振る舞う”ということではありません。
そういう意味では、私達がイメージする謙遜やヘリくだりとも全然違うのかもしれません。
神様の前にあって、自分の能力や身に着けてきたことは何の価値も持ち得ないという、事実を知っているかどうかだけの問題です。

私達が心の奥底にある、神になろうとする幻想を棄てて、あるがままの自分自身を見つめる時、私達はただただ、創造主である神様の前に身を差し出すことしかできません。
私達がいつでもその事実から目をそらさずに、信仰によって神様と結びついて生きていくなら、私たちは幸いであるとイエス様は言っているのです。

② 天の御国は私達のもの
心が貧しいということによって、どうして私達は幸いになるのでしょう?
心の貧しい人が幸いである理由は、天の御国がその人たちのものとされるからだとイエス様は言っています。
では、天の御国とは何なのでしょうか?

天の御国と聞いて、皆さんが真っ先に連想するのは、天国ではないでしょうか?
確かに、イエス様が「天の御国」と言うとき、そこに天国が示唆されていることは確かです。
しかしそうすると、「心の貧しい者は幸いです。その人たちは、生きている間はどうであっても、死んだら天国に行く事ができるからです。」という事をイエス様は言いたかったのでしょうか?
死んでから報われるのだから、生きている間は苦しみなさい。
それがクリスチャンであるという事なのでしょうか?

実際に、多くのクリスチャンがそういう意味として受け取り、生きている間に考えられる限りの試練を自分自身に課し、生きている間はひたすら貧しく、人々の苦悩を背負い、聖い生活の中に身を置きました。

生きている間に苦しめば苦しむほど、私達は天に宝を積む事になるから、地上にいるうちには清く、貧しく、美しくという宝塚のキャッチフレーズのような生活をしていたのです。
でもそれは、自分の鍛錬によって、あるいは修行によって自分を高め、天国に行こうとする事と結局は何の変わりもありませんね。

その一方であるクリスチャンたちは、地上で天の御国を実現させる事がクリスチャンの使命だと考えました。
彼らは、イエス様が教えた山上の説教をみんなが実行するなら、そこに天の御国は完成するはずだと考えたのです。
彼らは自己犠牲的な愛に生き、倫理と道徳に溢れた国家を作るために奔走しました。
その様な生き方は確かに人々の心を動かし、多くの人々が彼らを尊敬し、素晴らしい事だと考えるかもしれません。
しかしこの地上では、そのようなコミュニティが長期間存在し続けられた試しはありません。
どうしても自己矛盾や無理が生じてきて、内側から崩壊してしまいます。
それもまた、聖書が指し示す天の御国、十字架による罪の赦しや、救いとはかけ離れたものなのです。

イエス様はこのように言っています。

ルカ 17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

私達クリスチャンは、信仰によって救われ、死んだ後には天国に行く事ができるということを知っています。
しかし、天の御国とはそれだけのものではありません。
私達クリスチャンは、いま生きている間から、天の御国の中で生きることができるのです。
そしてそれは、心の貧しい者だけが手にする事ができる幸いなのだと、イエス様は言っているのです。

私達が、知恵を増したり、知識を得たり、経験や、修行や、あらゆる方法によって心、霊を満たそうとするなら、私達はひと時の幸せを手に入れる事ができるかもしれませんが、聖書が教えている幸い、祝福というものを手に入れる事は決してできません。
この世に属するものによって、私達を霊的に満たす事はできないからです。

しかしもし、私達が自分を満たす事に関して、他のどんなものにも頼らず、ただひたすら神様によって満たされていくことを望むなら、神様は決して私たちを裏切ることなく、その愛を豊かに注いで下さいます。

それは、自分自身が神様になろうとしたこの世の最初からの罪を悔い改め、「神様の愛と真実の支配」の下に生きるということに他ならないからです。

③ 心貧しい者の幸い
いろいろ理屈っぽくて難しい話をしているようですが、ここにいる皆さんのほとんどが、心を貧しくすることを一度は経験しているはずです。
私達は、心貧しくない限り、クリスチャンになることはできないからです。

自分の能力や努力によってではなく、神様から与えられたイエス様の十字架によって罪が赦され、それを信じる信仰によって私達は救われるというのがクリスチャンの信仰です。
救いが一方的に与えられた恵みだと信じて、それを受け取ることは、霊において貧しい状態で無い限りはありえません。

しかし残念なのは、多くのクリスチャンが信仰を持った次の瞬間には心の貧しさを忘れ、自分の能力や努力に頼った信仰生活を始めてしまうということです。
それは、まったく神様の望む事ではありません。

唯一神様と等しかったイエス様でさえ、人としてこの世にあるうちはこの様に言いました。

ヨハネ 5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

ヨハネ 14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

心の貧しさにおいては、イエス様が私達の手本です。
私達は、イエス様に見習って、心の貧しい者として生きる事ができているでしょうか?
確かに私達には自我があるので、心の貧しい状態を維持している事は、時として難しいと感じる事があります。

使徒のひとりとして知られるパウロも、その難しさを感じていたようです。
宗教的には完璧なほどに優等生だったパウロは、かつてはそれを誇りとして生きていましたが、キリストを知った後、そのような知恵や、知識や、熱心さは損失でしかないと告白しました。(ピリピ3:4~9)
それは、パウロが重ねてきた努力や行いによって、彼は傲慢になり、自分を高め、自分の力に頼り、常に高ぶりの誘惑と戦い続けなければならなかったからです。

 

イエス様の弟子達の多くは、漁師や取税人のような、宗教的には何の価値も見出されないような人々でした。
イエス様の周りにいつも集まっていたのは、病人や生まれつき体の不自由な人々でした。
そして心の貧しかった彼らが、ただひたすらイエス様により頼んだとき、人々は癒され、目が開き、足は歩き出し、新たないのちを得て変えられていったのです。

私達の心は貧しいでしょうか、私達は霊においての貧しさを自覚し、信仰によって主により頼むことができているでしょうか?
私達の心が貧しい状態でないなら、私達の信仰生活は幸いなものにはなりえません。
クリスチャンであるという事も、他の宗教を信じている人たちと何の変わりもありません。

しかし私達が苦しみ、涙し、寂しさに打ち震える時、身も心も弱り果てて倒れる時、イエス様は「心貧しく、信仰によって神様によりすがる者は幸いだ。天の御国はあなたたちのものだから。」と約束して下さるのです。

神様は、涙を賛美に、苦しみの喘ぎを喜びの踊りに変えてくださいます。
苦悩に悩んでいた私たちを、苦しみの中にあるほかの人々を慰める者に変えてくださり、希望と愛の内に歩ませてくださいます。

その事を信じ、苦しみの中にあっても、喜びの中にあっても、いつもイエス様を見つめ続けようではありませんか?

イザヤ 57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

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