マタイ5:5 『柔和なものは幸いです』 2007/01/28 松田健太郎牧師

マタイ 5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

僕はマンガやアニメが好きで、子供の頃からよく観ていました。
そこには悪者が登場して、その悪者は多くの場合、世界制服を企んでいます。
そして主人公が、世界征服をたくらむ悪者と戦うというのが、昔からマンガやアニメのパターンなんですね。

みなさん、世界を我が物にしている人とは、どんな人でしょうか?
世界の王者、支配者という人がいたとしたら、どんな人が世界の支配者になれると思いますか?
多くの人は、リーダーシップに富み、鉄のように強固な意志を持った人物を想像するのではないでしょうか?
ある人にとっては、マンガやアニメのように世界の支配者となるのは、秘密結社や悪の軍団の親玉に違いないと思うかもしれませんね。

会社も大企業となり、世界に進出していく段階となると、強烈な個性をもったリーダーが社員を引っぱり、様々な戦略を練り、一致団結してビジネスを広げていきます。
世界的リーダーに求められているのは、強い意志と、やり遂げる粘り強さです。

イエス様は、そのような私達のイメージをことごとく壊します。
イエス様は、“柔和な者”こそが地を相続し、世界を手に入れると言うのです。

柔和な人は、どうやって地を受け継ぐ事になっていくのでしょうか?
柔和である事とは、どういうことなのでしょうか?
今日も私達の中にある常識を脱ぎ捨てて、イエス様に示される神様からの恵みを、素直な心で受け止めていきましょう。

① 真の柔和
「柔和」という言葉に、皆さんはどんなイメージをもっているでしょうか?
心優しく、穏やかで、どんな時にも耐え忍んで怒らない、腹をたてない。
どこか弱々しいイメージもあるかもしれません。
自分の意見を持たなくて、いつも他人に合わせているような、悪く言えば八方美人とも言えるような性格。
どことなくふっくらしていて、やさしい瞳をした人を見ると、「あの人は柔和そうだなあ」と思ったりもします。
しかし、イエス様がここで話している柔和さとは、私達が考えているものとは違います。

聖書は、イエス様を指して柔和だと言っています。
私達はイエス様を最大の見本として、真の柔和さとは何かを見ていきましょう。

イエス様は罪もないのに不当な裁判にかけられ、十字架にかけられたのに、ひとことも言い返すことがありませんでした。
押し寄せてくる病人や障害者たちを、文句ひとつなく癒しました。
子供たちは自然に近づいて取り囲み、イエス様の周りには社会的に弱い人たちがいつも集まっていました。
確かに、私達が抱く柔和のイメージと一致しますね。

しかし一方で、イエス様は律法学者やパリサイ派の人々と激しくぶつかり、神殿を汚すような不法な行いには怒る強さも持っていました。
その様な強さがなければ、どうして私達の罪のために十字架にかかってくださることなどあったでしょうか?

真の柔和さは、強さの上に成り立っているものなのです。
罪を憎み、正しい事を愛し、真実を曲げるような事には立ち向かうことができる強さを持っています。
しかし、自分自身の事に関しては、どんな見返りも、権利も主張しない。
自分が人からどの様に取り扱われるのか、自分の将来がどうなるのかの心配をまったくしません。
イエス様だけでなく、聖書に登場するモーセやダビデ、エレミヤのような人々が、全てその様な柔和さを持っていたことを私達は見ることができます。

イエス様が教える柔和さとは、自分が傷つけられる事を避けようとして人の言いなりになる、この世的な柔和とはかけ離れているのです。

どうして、それほど自己犠牲的に人を愛する事ができるのでしょうか?
それは私達が神様に愛されているからです。
神様が、全てを保障していることを知っているからです。
人から与えられるものではなく、自分で勝ち取るものではなく、神様から与えられたものを、心から喜んで受け取ることができるから、いつも柔和でいられるのです。

柔和さとは、心の貧しさと本当の悲しみと慰めを持たなければ育まれないものだということがわかるでしょうか。
イエス様こそ柔和な人の代表であり、私達もその柔和さを身につけるように召されているのです。

イエス様の柔和さを表す代表的な言葉があります。

マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

29節で、“心優しく、へりくだっている”という言葉は、今日の箇所の“柔和なもの”と同じ言葉が使われています。
優しいという字は、ニンベンに憂いと書きますね。
真の柔和とは、憂える人の中から生まれるものなのです。
イエス様は私たちと同じ人となられて、罪は犯しませんでしたが、数々の悲しみと、苦しみと、試みを通りました。
苦しみを知っているから、他の人を慰める事ができます。
試みを知っているから、他の人を励ます事ができます。
弱さを知っているから、気遣ってあげることができるのです。

ヘブル 2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

② 地を受け継ぐ
柔和な者は、地を受け継ぐだろうとイエス様は言っています。
地を受け継ぐとはどういうことなのか、その答えは聖書の中にたくさんあります。

Iコリント 6:2 あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

IIテモテ 2:12a もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。

私達がイエス様を通して神様の養子となったなら、私達はやがて来るべき時に約束の地を受け継ぐ事になります。
そのとき私達は、イエス様と共にこの世界を支配し、裁くようになるのです。

しかし、イエス様は天の御国を受け継ぐと言うのではなく、地を受け継ぐと言いました。
それは、終わりの時を待つまでもなく、私達はこの地上で勝利を抱く事ができるという約束です。

この地上は弱さをとどめている。
罪によって汚され、悪にまみれ、痛みと、苦しみと、悲しみにまみれている。
しかし私達が、主にある柔和を身につけるなら、この地上においても必ず勝利していく事ができるのです。

 

イエス様によって柔和なものとされたパウロがこの様に言っています。

IIコリント 6:8b 私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、6:9 人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

柔和であるということは、自分自身の権利や見返りを、すべて放棄するようなものです。
しかし、私達にはすでに、神様から全てが与えられています。
だから柔和である事は、幸いなのです。
そしてその幸いは、柔和にならなければ知ることができない幸いなのです。

③ダーウィンの改心
チャールズ・ダーウィンという人を、みなさんご存知だと思います。
彼は進化論を提唱し、キリスト教会に対して真っ向から戦いを挑みました。
ダーウィンは、進化論の研究のために世界中を探検していましたが、彼はやがてマゼラン海峡の向こう側にあるフエゴ島にたどり着き、ひとつの研究結果をヨーロッパ中に発表しました。

「このフエゴ島に住んでいるインディアンたちは、進化の中間の過程にある。
彼らは未だに人間ではない。これはむしろ猿に近い。
その証拠に、このフエゴのインディアンたちは絶対に神を信じるという宗教心や信仰がわからないはずだ。」

このレポートを聞いたとき、イギリスのある伝道的な教会は、燃え上がったのです。
「なんという傲慢、不遜な発言だろうか!」
そして、ガーデナという青年宣教師が代表者となり、6人のチームが立ち上がってフエゴの宣教に乗り込んだのです。

彼らはマゼラン海峡を渡り、フエゴ島に上陸を企てました。
しかし、彼らはその時点で壊血病のために体は弱り、その上激しい暴風雨に見舞われました。
それに加えてフエゴのインディアン達の襲撃を受け、彼らは6ヶ月足らずの間に、6人全員が死んでしまったのです。

この悲しいニュースがヨーロッパ中に流されました。
これを聞いたイギリスの教会は、聖霊の迫りを受けてかつて無いほどに激しく燃え上がりました。
それは、インディアンに対する復讐に燃えたのではありません。
ダーウィンに対する、自分たちのプライドに燃え上がったのでもありませんでした。
フエゴ島の人々に対する愛と、憐みに燃え上がったのです。
「神の愛を知らないこの人々に、彼らも愛されている事を知らせたい。違うものを全て殺し、排除しなくてもいいのだということを教えてあげたい。」

そして諸教会から、我も我もと青年たちが、フエゴの宣教のために奮い立ったのです。
そのために多くの青年達が献身し、訓練を受け、溢れんばかりの愛を携えてマゼラン海峡を渡りました。

みなさん、数年後に、このフエゴの人々は一人残らずイエス・キリストを信じて洗礼を受けました。
フエゴ島全体がキリスト教化されたのです。
それは当時の多くの国々がそうだった様に占領された結果ではなく、青年達の愛と、優しさと、思いやりによって変えられたのです。

これを知ったチャールズ・ダーウィンは悔い改めました。
彼はその年から死ぬまでの数年間、海外宣教のための献金を定期的に送り続けたそうです。
そして彼は後に、死の床にあって、イエス・キリストを救い主として告白し、クリスチャンとして、天にその名を記されるものとして天国に凱旋していったのです。

私達は柔和でしょうか?
全てのクリスチャンが、柔和であるように召されています。
しかし柔和になる事は、簡単な事ではありません。
私達が柔和になるという結果だけを求め、自分の力でそうなろうとするなら、私達は決して本当の柔和を身につけることはできないでしょう。

柔和になるためには、本当の悲しみを知るものでなければなりません。
本当の悲しみを知るためには、心の貧しい者でなければなりません。

これはすべて、神様の愛に支えられ、聖霊に身をゆだねるとき、私達が変えられていく成長した姿なのです。
この教会に集う私達が、残らず主にある柔和を身につける事ができますように。

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