マタイ5:13 『あなたがたは地の塩です』2007/03/11 松田健太郎牧師

マタイ 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

みなさんは、塩が好きですか、それとも砂糖が好きでしょうか。
大人の皆さんに聞くと、塩の方が多いかもしれません。
でも子供達にこの質問をすれば、ほとんどの子たちが砂糖と答えますね。

では私達が生きていくためには、砂糖と塩、どちらが必要でしょうか?
子供達に聞くと、やはり砂糖と答えそうですが、この答えは塩です。
糖分も体には必要なものですが、果物など自然の食べ物の中に十分に入っているものです。だから、私達はわざわざ砂糖を使わなくても生きていくことは可能なんですね。
しかし、塩分が自然に含まれている食物を探すのは簡単ではありません。
塩分は血液中に含まれていますから、血まみれの生肉をそのまま食べれば塩分を摂取できますが、それでもわずかな量です。
だいいち、私達はなかなかそういう食べ方をしませんね。

砂糖に比べて、塩は自然の食物の中ではなかなか見つからない。
だから、わざわざ塩を使わなければ、塩味を感じる事ができません。
そのように、生きていくためには塩は不可欠なものなのです。
少量でよいのですが、簡単には手に入れる事ができない、非常に貴重なものだったのです。

私達クリスチャンは、地の塩となるために召されています。
イエス様は「あなたがたは、地の塩である。」と言いました。
私達は砂糖ではなく、塩なのです。
私達が自然にはなかなか摂取できない塩となる。
ではそれは、どういう意味だったのでしょうか?
今日はその意味を探りながら、神様の恵みを共に味わっていきたいと思います。

① 腐敗を食い止める
クリスチャンは塩であると言われたとき、まず真っ先に思い立つのは、塩が持つこの効果ではないでしょうか。

現代の社会を見てみても、また聖書の話を読んでいても思うのは、人間とは堕落し腐敗していくものだということです。
最近、ある有名なテレビ番組のねつ造問題が騒がれていました。
またある製菓メーカーの食品管理の問題もありました。
視聴率や利益を最優先にする経営体制が、多くの堕落と問題を起こしてしまった典型的な例ですね。

ひとりの人間としてもそうですが、集団になった時にはさらに甘えが生じてしまい、モラルや意識を維持するのは難しくなってきます。
言うまでもない事ですが、この様な出来事のひとつひとつが罪という誰もが抱えているものに起因していることを考えれば、決して他人を責めているだけでは済まない部分があるのです。

進化論的哲学の価値観は、世界が進化によって良い方向に向かっていると楽観的に捉えていますが、現実は決してそれを支持してはいません。
罪の法則は、私達を腐敗、堕落させていきます。
神様がノアの時代に、一度世界を滅ぼしてしまわなければならなかったように、そして一度全てが一新された後にも、ソドムとゴモラが裁かれなければならなかったように。
旧約聖書の中で、イスラエルが何度堕落し、その度ごとに引き上げられなければならなかったことでしょうか。
人類の歩みは、水が高いところから低いところに流れるように、罪の法則を受けて堕落していくのです。

私達クリスチャンは、そのような堕落を防ぎ、腐敗を遅らせる塩なのだと、イエス様は言います。
その人がその場にいると、普段平気でできていることができなる。
普段、普通に言っているようなことが言えなくなる。
人との交わりの中で、その集団の良心となる人がいます。

あるいは、普段はどうしてもネガティブになってしまう思考が、その人と話していると方向転換して良い捉え方となっていくというような人がいます。

手段は色々あるかもしれません。
しかし、その人がいる事によって他の人々に影響を与える、塩としての働きをクリスチャンは持っています。
クリスチャンであるという事は、そういうことなのだとイエス様は言うのです。

② 地の塩になるために
「そんなことを言われても、私には地の塩になんてなれません。」という方もいらっしゃるかもしれません。
「塩になれない私は、クリスチャンではないのでしょうか?」
いいえ、皆さんは立派なクリスチャンです。

イエス様は、「あなたがたは地の塩になりなさい。」とか、「あなたがたはやがて地の塩になるでしょう。」と言ったのではありません。
「信仰を持っているあなた達こそ、クリスチャンこそが地の塩です。」と言い切っているのです。

私達は、地の塩です。
私達が何かする事によって地の塩になったり、その役割を果たすとは限りません。
ましてや、私達が努力をして「塩でありましょうね。」と肩をたたいて励ましあうと言うような、そういうことではありません。
私達の信仰生活が長かろうと短かろうと、信仰が成長していようとからし種に等しかろうと、私達の自信や実感とは何の関係もなく、私達はすでに地の塩なのです。

「あなたがたこそ塩であって、他にはいない。」これは、大きな慰めです。
私達が塩である事実と言うのは、私達の努力や実力の世界ではない。
これが、新約の恵みの世界なのです。

旧約聖書の時代、イスラエルの人々は、自分達を清く保つために他の国や文化の人々とは切り離された環境に身をおかなければなりませんでした。
それがイスラエルという民族に与えられた生き方だった。
人々は、清くないものに触れると、すぐに影響を受けて汚れてしまうからです。

しかし、私達クリスチャンは自分を他者から分離させるようにとは命じられていません。
むしろ外に出て、人々と交わる事を求められています。
腐敗を防ぎ、汚れを浄化する役割が与えられているのですから。

イスラエルという民族と、私達クリスチャンとの間に何の差があるのでしょうか?
旧約の時代と、新約の時代の人々で決定的に違うのは何でしょうか?
それは、私達に聖霊が与えられていると言う事です。
三位一体である神様のひとり、聖霊が私達の内にいてくださる。

私達はイエス・キリストに連なる信仰を持った時、聖霊が与えられます。
聖霊が与えられていなければ「イエスこそ主である」と言う事はできませんし、聖霊が与えられているのなら、表面的にはクリスチャンらしくなくても、どんな人であろうと私達はクリスチャンなのです。
そして神様は、この聖霊を通して私達を地の塩としてくださるのです。
だから、聖霊を受けている私達なら誰でも、もうすでに地の塩となっているのです。

③ 塩けを効かせる

5:13b もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

私達が努力して塩気を保たねばならないとしたら、この言葉は恐怖です。
私達が地の塩としての効力を失ってしまう事は、神様から見捨てられ踏みつけられる事を意味する事になってしまいます。

当時、土と混ざり合ってしまったり、雨や陽に照らされて塩気をなくしてしまった塩は、利用不可能でした。
何の役にもたたない、無価値なものなのです。
しかし、そこらに捨ててしまうとその場所に植物が生えなくなってしまうので、草が生えない方が好ましい道路にまいたのです。
結果的に、役に立たない塩は人々に踏みつけられる事になりました。

もし私達がクリスチャンとして、地の塩としての働きができなければ、その能力がなくなってしまったら、神様は私達を無価値なものとして踏みつけてしまう。
だから私達はますます塩気を増さなければならない。

その様な心配を、私達はする必要がありません。
私達には、もう塩気が与えられています。
そして、それを失う事はありません。
地の塩としての働きは、私たち自身の中にあるのではなく、聖霊の働きの中にあるのだからです。
神様は私達にこう言います。
出エジプト 14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

これが恵みの基本です。
私達が自分の力で何とか地の塩にならなければと奮闘する時、神様はもちろん、私達のその思いを喜んでくださるでしょう。
しかし働きとして考えるなら、私達は聖霊の働きを邪魔してしまっているかもしれませんね。

では、どういうことですか?
私達は何もせずにじっとしていれば良いということでしょうか?
そうであっても、神様は私達を用いてくださることができるでしょう。
自分では何もしていないつもりであっても、私達がただ生きているだけのつもりであっても、神様は私達を用いる事ができます。
でも、もっと効果的な方法があります。
私達が聖霊に満たされ、喜びをもって信仰生活を送るという事です。

塩を使う一番の理由は、塩味をつけるために他なりません。
塩が振られなければ、料理には味気のないものになってしまいます。
私達クリスチャンの生き方が、そのように味気のないものになってはならない。
私達が神様の愛を知り、喜びを持った信仰生活を送っていくなら、それは私達の人生を味のあるものにしてくれるだけではなく、周りの人々にも影響を与えていきます。

喜びに満ちる私達の存在は、時に周りの人々を清め、堕落や腐敗を食い止めます。
私達がもつ塩気が砂糖の甘さを強調させます。
労働者が疲れて塩をなめるように、疲れている人々が、私達の塩気によって元気を与えられるかもしれません。

私達は地の塩です。
私達は地の塩として、家庭に、学校に、仕事場に、あらゆる場所に遣わされています。
そして地の塩がそこにあるなら、周りの人々は変えられていくのです。
その変化はあまりに小さくて、私達の目にはわからないかもしれない。
霊的な変化なので、そもそも私達には見えないかもしれません。
しかし、私達のいるところには神様もまたいらっしゃるのです。
その事を信じ、平安をもってそれぞれの場所に遣われて行こうではありませんか。

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