詩篇23:1-6 『死の陰の谷を歩むとき』 2007/03/25 松田健太郎牧師

詩篇
23:1 主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

先日テレビを見ていると、中国のある地方で、山が緑色に塗られているというニュースを耳にしました。
また、他の場所では赤く塗られている所もあるそうです。
どうしてまた、山にペンキを塗りたくるような事をしてしまったのか調べてみると、風水に影響していると言う事がわかりました。
家のこの方角に赤いものがあると、幸せが来ると言う占い師の言葉を信じて、色を塗ったというんですね。
ある個人の運気を上げるために環境が破壊されてしまうというのですから、迷惑な話ですね。しかし、日本人もそれを見て笑ってはいられません。

日本人ほど占いが好きな民族はいないと言われています。
朝テレビをつけるとどの番組でも必ず“今日の運勢”を教えてくれますね。
今日のいて座は運が良いとか、今日の運勢はA型の血液の人が一番とか、あなたのラッキーカラーはどうとか、この一日をどう過ごしたら幸せになれるかをすべて教えてくれます。

みなさんは、本気になってこの占いに耳を澄ませているということはきっとないでしょうが、多くの人たちが、この運勢と言う価値観に引っ張りまわされています。

調子がいい時には、素晴らしい事ばかり起こるように感じますが、調子が崩れてくると、とたんに嫌な気分になってきます。
今日の運勢が悪かったことがショックで、その日は消極的に過ごしてしまう。
何か良い事があっても、いいことが続くはずがないので喜ぶ事もできず、次に起こるはずの悪い事が怖くて不安に怯えてしまう。
運勢の悪い時には、良い事が起こっても悪い方にとったり、悪い事が起こってもショックを受けないようにといつも悪い事が起こるのを待ち構えます。
それは、自分で不幸を呼び寄せていることになりますね。

そういう価値観を持っている人は、クリスチャンになってからもまだその考え方を引きずる傾向があります。
何か悪い事が起こると、どうして神様はこんな事を私にするのかと、何でも神様のせいにします。
悪い事が起こったというのはどういうことかといえば、つまり自分に都合の悪い事が起こったということです。
神様に別の計画があっても、それが自分の都合と合わなければそれはその人には悪い事になります。
でも、財布を家に忘れてきたのを神様のせいにするのは、ただの八つ当たりですね。

私達の人生には、良い事も、悪い事もあります。
クリスチャンになったからといって、ラッキーな事ばかりが起こったり、私達にとって都合のいい事ばかりが起こるのではありません。

イスラエルの昔の王様であったダビデは、神様にもっとも愛された王として知られますが、人生の中では信じられないほどたくさんの苦難を乗り越えてきました。
彼の人生が大きく上がったり下がったりする中で、ダビデが占いの結果に一喜一憂するのではなく、どんな時でもしっかりと神様を見据えていられたのはなぜか、今日は彼の作った詩篇を共に考えながら、神様の祝福を味わっていきたいと思います。

① 羊はさまよう
ダビデ王はこの詩篇の中で、私達人間を羊として例えています。
みなさんは、羊にどのようなイメージを持っているでしょうか。
なんだか平和で、一日中草を食べて昼寝をしているような、のんびりしたイメージでしょうか。

羊は、愚かな動物としてよく知られる動物です。
草原で草を食べているとそれに夢中になって、他の仲間たちがどこに行ったか分からなくなったり、謝って崖から落ちてしまうということもあるそうです。

私達も羊のように愚かで、羊のように視野が狭いかもしれませんね。
生きる事に夢中になって、日々の事に夢中になっている間に、自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかわからなくなってしまいます。
気がつけば、崖をまっ逆さまに落ちているかもしれません。

私達は、現代日本に生きる羊達のようです。
ビルに囲まれ、時間に追われ、自由を奪われ、愛に飢え、魂に渇き、人を傷つけ、傷つけられ、私たち日本の羊がさまようのはコンクリートと鉄骨の荒野です。
私達は荒野をさまよう羊なのです。

しかし、愚かな羊も羊飼いに連れられて目的地にたどり着く事ができるように、私達にも羊飼いがいるのだと聖書は教えてくれています。

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

イエス様が私達の羊飼いです。
主は道に迷い、命を失いかけていた私たちを救い、緑の牧場に、そして水のほとりへと導いてくれるのです。
そこは死の砂漠ではなく、生命に溢れた緑の大地です。
私たちの心の渇きを、永遠に満たしてくれる水に囲まれた場所なのです。
私達は歩きつかれた足を休め、そこに体を横たえ、安らぎの中に心を休ませます。
この羊飼いに従う時、私たちは乏しいことがないのです。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

この世の荒野をさまよっている間、私達のたましいは多くの傷を受けました。
この世に正しいものは無いという価値観。
良い成績を取らなければ愛されないという恐怖。
誰かから愛されるために自分の身も心も捧げたのに無残に捨てられ、ごみの様に扱われる。
私たちの魂は、深い深い傷を負い、この世界に見えるのは絶望だけだったかもしれません。

しかし主は、私たちの心を活気に満ちさせ、死にかけていた魂に新たな命を吹き込みます。
私たちが御言葉の草を食み、聖霊の水を飲む時、私たちの心は生き返るのです。
その様な場所に、神様は私たちを招き、導こうとしているのです。

② 羊は護られている
羊飼いが私たちを導こうとしている緑の牧場に向かう道は、どんな道のりでしょうか?
それは茨の道かもしれません。
何キロも何十キロも続くような、急な坂道かもしれません。
岩場の影には、私たちを待ち受けるライオンや、狼がいるかもしれません。
そんな恐ろしい道が待っているなら、例え最終目的地が美しい緑の牧場だったとしても、怖気づいてしまいますよね。

確かに、私たちがクリスチャンになった後も、道のりは決して平坦になるわけではありません。
何も楽になるわけではないどころか、もっと大変な人生が待っているのかもしれません。
それまで私たちが経験してこなかった誘惑や、迫害が待っているという事もあります。
それでも、私達は羊飼いの後を着いて行くべきなのでしょうか?

詩篇ではこのように歌われています。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯(さかずき)は、あふれています。

例え私たちを待っているのが、絶望的な死の陰の谷であったとしても、私達は災いを恐れる必要がありません。
それは羊飼いであるイエス様が、私たちを守ってくれているからです。
ダビデは手にした杖や石投げ機を使って、羊を守るためにライオンや熊とも戦ったといわれています。
野獣を追い払う鞭や、羊飼いの足を運ぶための杖が頼もしく握られているので、私達羊は野獣に殺される心配もなく、安心して主の後を追っていく事ができるのです。

たとえどんな苦難を目の当たりにしていても、
私の敵の前で、食事を整えて、頭に油を注いでくださる。
敵が自動小銃を構える前で食事をとるという状況を想像できるでしょうか。
実際にそのような状況がありえるのかどうかわかりませんが、言いたい事は、それくらい安心できるということです。

私達は獣が牙を剥いて襲い掛かってくるその瞬間にも、食事が出来るくらいくつろいで、安心してもいいんです。それは、神様が私たちを守ってくださるからです。
世界の創造者に護られているなら、何を恐れる必要があるでしょうか?
私たちの人生に、どの様な困難を見る事があっても、私達は何も心配しなくても良いのです。
私達は、主の絶対の護りの中にあるのですから。

パウロは、テサロニケやエペソのクリスチャン達に「いつも喜んでいなさい。」と言いました。
それは、どんなに苦しくても作り笑いをして耐え忍びなさいという事ではなく、主にあっていつでも喜んでいて良いのだ、感謝して良いのだという事です。
みなさんは、危機的状況を前にしても落ち着いてお茶を飲んでいられるくらい、神様に信頼を置く事ができているでしょうか。
これが、主にある平安というものです。

③ 羊は信頼する
この詩篇は、このように締めくくられます。

23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

私たちの人生に今見えているのは、砂漠の中で独りたたずむような絶望かもしれません。
クリスチャンになってイエス様を受け入れたあとも、決して終わる事のない死の陰の谷を目の当たりにするのかもしれません。
あるいは今にも敵が迫り、咽もとに噛み付こうとしている瞬間かもしれません。
しかし、私達は安心して羊飼いである神様の後をついていけばいいのです。
私たちの命の日の限り、主のいつくしみと恵みとが、私たちの後について来るからです。

でもそのために私達は、私たちを導こうとしている神様の導きに信頼し、従わなければなりません。
私達は時として、神様の導きに逆らい、自分の道を行こうとしてしまわないでしょうか?
主に逆らい背中を向けるなら、そこにあるのはやはり絶望でしかありません。

4節で登場した、野獣を追い払うための鞭は、時として私たちに対して向けられる事があります。
その時私達は「どうしてですか神様。なぜあなたが私を苦しめるのですか?」と、神様を恨み、憎んでしまう事があるかもしれません。

そんな時神様は、道を外れようとする私たちを元の道に戻そうとしているのです。
道を外れて私たちが獣に襲われ、殺されてしまうのを、神様は黙って見てはいられないからです。
どうか、神様への信頼をなくさないで下さい。
私たちの羊飼い、神様は私たちを愛しているからです。

イエス様は新約聖書の中でこのように語ってくれています。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 」

イエス様は、私たちのために命を捨ててくださる羊飼いです。
私たちの一匹が迷った時、残りの99匹を残して、一匹の私を探し出し、見つけた時には宴会を開いて喜んでくださる羊飼いです。

イエス様が私たちと共に歩んでくださいます。
イエス様が私たちを護ってくださいます。
イエス様が、私たちの心の傷を癒してくださり、魂の飢えと渇きを満たしてくださいます。
それを信じ、イエス様に従う事が、羊飼いに導かれる生き方なのです。

私達の人生は、自分に都合のいいことばかりが起こる人生ではありません。
でもそんな時、私達は自分の運の悪さをのろう必要はありません。
神様が何と意地悪かという事で、あるいは神様に愛されていないと思い悩んだりする必要はありません。

私達は、そのような大変な状況の中にあっても、たとえ死の陰の谷を歩むような時であっても主の導きに信頼して歩み続けることができます。
困難を通してこそ、私達は神様の力を垣間見る事ができます。
苦難の中でこそ、私達が神様の愛を実感することができるはずです。

みなさんが喜んで、主の後を追う羊となりますように。

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