出エジプト3:1-12 『神様のしもべとして』 2007/06/03 松田健太郎牧師

出エジプト 3:1~12
3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

さて、2週間開いてしまいましたが、私達はいまモーセの人生を通して色々な事を学んでいます。
モーセはたくさんいるイスラエルの人々から特別に選ばれた、イスラエルの指導者でした。
この時、モーセだけが神様と顔を合わせて話をし、神様の御心を特別に示されて人々を導いたのです。
ところが、こういった話を通して、皆さんの中でひとつの誤解が生まれてはいないだろうかという心配が僕の中にはあるのです。

皆さんは、ある特別な人だけが神様と関係を持ち、御心を知り、それに従って人々を導くのだと思ってしまってはいないでしょうか?
牧師や、役員や、ある程度の信仰歴を持った人たちだけが神様の御心を知り、祈ったり、人を神様の元に導く事ができるのだと思っていらっしゃるとしたら、それは大きな誤解です。

旧約聖書の時代、モーセを初めとする限られた人だけが神様の啓示を受け、神様の事をよくわかっていない大多数の人々を導いたのはたしかです。
しかしその頃の人々は、現代を生きる私達と大きく違うことがひとつあります。
それは、聖霊の存在と役割です。
旧約の時代に聖霊は限られた人に、限られた人にだけしか与えられていなかったという事なのです。

先週はペンテコステでしたね。
メッセージの中で、三谷さんが聖霊についてお話してくださったと思います。
約2000年前、ある年のペンテコステの日以来、私達信仰をもつクリスチャンすべてに、聖霊が与えられたんでしたね。

私達が信仰を持っているなら、自分がクリスチャンだと言う確信があるなら、自覚していようといなかろうと、必ず聖霊が私達の内に与えられています。
だとすれば、私達クリスチャンはみんな、モーセと同じ立場にいるのです。
神様は私達ひとりひとりに語りかけてくださり、用いてくださるということですね。

今日は、復習も兼ねて出エジプトの今までの部分を振り返りながら、私達がどのようにして神様の僕として生き、信仰生活を送っていけばいいのかを、モーセの場合を通して考えていきたいと思います。

① 神様の僕として生きる
「神様に仕え、僕となり、神様のための働きをしたいと思っても、いざとなると自分に何ができるのかよくわからない。」という話をよく聞きます。
多くの場合、私達は自分に何ができるかを考えてから、それに関して神様の働きをしようとするのではないかと思います。
だから、自分の賜物が何かを探ったり、神様が私の人生に何を計画しているのかを知るまで、なかなか動き出すことができないという事もあるのではないでしょうか。

まずは自分にできる事をやろうと思うことは、決して悪い事ではありません。
そこには、神様のためにできる事をしようという意思があるのですし、神様はそれを喜んでくださる事は疑いないことです。
でもよくよく考えてみると、それは自分の計画であって、神様の計画であるとは限らないのではないでしょうか。
モーセが最初に失敗したのは、まさにそれが原因でした。

出エジプト 2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。
2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。
2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。

この時のモーセにとって自分ができる事は、同胞を鞭打つエジプト人を止めることでした。
しかし神様の計画は、ヘブル人がただ単に苦しまなくなる事なのではなく、エジプトから開放されることだったのです。

この時の失敗の結果、モーセはエジプトを逃げ出し、ミデヤンの地で40年もの月日を過ごす事になります。
そしてその事が後にトラウマとなって、モーセが神様の働きに戻る事を阻害する事にもなってしまったのです。

4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

神様が実際にモーセを用いられようとした時、モーセは完全に自信を失っていました。
自分がイスラエルの指導者となり、人々を導いてエジプトから脱出するなど、とても現実的なこととは考えられなかったのです。

今の自分に何ができるかという事は問題ではありません。
自分にできそうな事を見つけて「これをします。」と決め付けたり、それしかしないと言うのであれば、自分が本位となっている考え方です。
自分の計画や思いつきに神様が賛成して力を与えてくれるのではなく、いつでも先に神様の計画があって、私達がそれに従って行動するというのが聖書的な方法なのです。
自分が中心なのではなく、神様が中心なんだということですね。

② 神様の御心を知る
では私達は、神様の御心や計画を、どうやって知ることができるのでしょうか?
それが自分の思いからきたものではなく、神様の御心であると確かに知るためにどうしたらいいのでしょうか?

モーセは、神様がその御心を示してくださるまで、神様のご計画を本当の意味ではまったく知りませんでしたし、理解していませんでした。
モーセが神様の御心を探り当てたのではなく、神様がモーセの前に現れ、その御心を示してくださったのです。

出エジプト 3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

神様の御心を知るために特別な方法や、法則があるわけではありません。
しかし聖書には、確かに神様が私達人間にその御心を現してくださる事が記されています。
私達はただ、自分の中にある罪の影響によって、何が神様の声であり、何が自分自身の思いなのかという事の見分けが、つきにくくなってしまっているのです。
聖書にはこのように書かれています。

Iコリント 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

私達はどうしても自分の知恵や知識に頼って神様の御心を知ろうとしてしまいます。
しかし、私達がどれだけ聖句を暗証していたとしても、教理や神学的知識を持っていたとしても、それによって神様の御心を知ることができるわけではありません。
だいいち教理や教義は教会によって違うわけですし、そのどれが正しいのかを知ることすら、私達には不可能ですね。

神様の御心は、法則の理解によって知ることができるのではありません。
聖霊によってのみ知ることができるのです。
神様が聖霊によって私達に語ってくださるからこそ、私達は御心を知る事ができるのです。
では、どうやってそれを聞き分けるのでしょうか。
どうしてそれが自分の思いつきや、サタンの誘惑でないと知ることができるのでしょう?

みなさんは、人ごみの中で、夫や妻、あるいはお子さんの声が呼ぶ声にはっとして振り返った経験はないでしょうか?
羊は知らない人に自分の名前を呼ばれてもまったく反応しません。
しかし、羊飼いが呼べば、たくさんの人の中でもその主人の声を聞き分けて、羊は羊飼いの元に行くそうです。
私達にもまた、大勢の人々の中から、自分の聞きなれた声を聞き分ける能力が備わっているのです。
神様の声を聞き分ける秘訣もそれと同じです。
つまり、聖霊の声を聞き分けるために必要なのは、神様との親密さなのです。

私達がいつも神様と過ごし、その声に耳を澄ませているなら、私達は自分の思いやサタンの嘘に惑わされる事なく、ちゃんとその御心を知ることができます。
しかしそのためには、私達が神様としっかりした愛の絆で結ばれている必要があるのです。

みなさんは神様との時間をいっぱい過ごし、愛の関係をしっかり築く事ができているでしょうか。
私達が週に一度しか神様に耳を傾けようとしないなら、私達はどれだけ素晴らしい話に心を打たれたとしても、他の声に惑わされてすぐに神様を見失ってしまうかもしれません。

私達がどれだけ聖書を読んでいたとしても、それが勉強のためでしかなければ、それは単に知識でしかありません。
私達がどれだけ祈っていたとしても、その祈りが自分の思いを神様にぶちまける一方的な祈りでしかなければ、神様との関係を深めていく事などできないでしょう。

どうか神様とのコミュニケーションをとってください。
神様を知識としてではなく存在として知り、神様との時間をたくさん過ごし、自分中心ではなく神様を中心とした価値観を持つ事ができるように、その親密さを増してください。
その時にこそ、神様がなそうとされている計画の一端が、私達に対して明らかにされていくのです。

③ 神様の計画の中に飛び込む
さて、神様の御心が明らかにされたとき、ひとつの事を考えて頂きたいのです。
数あるご計画とみわざの中で、神様はどうしてその計画を示されたのかという事です。

神様がモーセの前に現れた時、イスラエルの民をエジプトから解放する計画を明らかにしたのはなぜだったでしょうか?
それはモーセが、神様のそのみわざに加わり、彼に与えられた役割を果たすためでした。
皆さんに示されている神様のそのご計画の中には、皆さんが果たすべき何らかの役割があるのではないでしょうか?

その計画の中で、自分ができそうな事など何もないかもしれません。
モーセも、イスラエル解放の計画を示された時、自分にできる事は何もないと感じていました。
しかし、今の自分にそれができるかどうかは問題ではないのです。
私達を通して、そこに神様が働かれるのですから、可能かどうかを私達が心配する必要はありません。
私達がそこに足を踏み入れ、神様の計画に参加しさえすれば、そこから先は神様がなされる事です。

皆さんの心に、今示されている何かがあるでしょうか?
教会にはこのような活動が必要なのではないとか、この人は福音を聞く事を欲していと感じている人がいたりするでしょうか?
牧師にその事を教えてくださるのもひとつかもしれません。
しかし、その働きに召されているのは僕ではなく、皆さんかもしれないのです。

勇気をもって、その一歩を踏み込んでみましょう。
それは決して平坦で、楽な道ではありませんが、その様な経験を通してこそ、私達は神様の素晴らしさを遺憾なく体験する事ができるのです。

皆さんの上に、神様の導きと祝福が豊かにありますように。

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