出エジプト12:1-14 『解放とその代償』 2007/06/24 松田健太郎牧師

出エジプト 12:1~14
12:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
12:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

ナイルの水が血に変わっても、かえるや、ぶよや、あぶにがエジプト中にあふれても、疫病や腫物に悩まされても、初めて見るような雹が降り、いなごに食物を食い尽くされ、ついにはエジプトが闇に覆われても、エジプトの王(パロ)はイスラエルの人々を解放しようとはしませんでした。
そしてとうとう、エジプトを10番目の災いが襲う事となったのです。

100万人以上という労働力を失うわけにはいかない。
奴隷に「開放しろ」と言われて開放してしまったら、他のみんなからなめられる。
そんな思いがパロの中にはあったのかもしれません。

それは、パロの頑固さからきた事ではありましたが、神様がパロの心を一気に折ってしまうのではなく、頑ななままにさせたと言うこともできました。

10番目の災いを前に、全ての事がふくらみ、積み上げられ、緊張が高まっていくようでした。
まるでこれまでの事が、すべてこの10番目の災いに向ける下準備にしか過ぎなかったかのように。

今日は、ただ単に災いというだけではない、神様の特別な計画によって、大きな意味を持っていた、この10番目の災いを特に取り上げて見て行きましょう。

① 新しい暦
10番目の災いは、他の9つとは明らかに雰囲気が違いました。
それは、イスラエルの全ての人々に感じる事ができたでしょう。
これまでの奇跡は、全てモーセとアロンがそれぞれの場所で何かをする事によって起こってきましたが、今回はイスラエルのすべての人々がそこに参加していました。

まず神様が命じたのは、新しい暦をここから始めるということでした。

12:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

それまでの暦では、一年は今で言う9月から10月くらいから始まっていました。
新しい暦はこの過ぎ越しから始まりますから、3月から4月くらいを第一の月とするということですね。

これは、この日からイスラエルの新しい一日が始まるという事を意味していました。
創世記の時代、イスラエルは民族ではなく、個人であったり家族でしかありませんでした。
その後子孫がどんどん増えていきながらも、イスラエルはひとつの国を形成するどころか、奴隷としてエジプトに仕える一族となってしまいました。
今、このとき、イスラエルはひとつの民族としての第一歩を踏み出そうとしていたのです。
言っていればここから、イスラエルが新たないのちを得て生まれる事を意味していたのです。

私たちもまた、クリスチャンになるときに新しい命を得ました。
私達がイエス・キリストを信じるとき、罪の奴隷から解放されて、永遠の命を受けます。
そこから私達の新しい暦がスタートしたのです。
イスラエルの開放は緊張とともに、そのような喜びにあふれた中で起ころうとしていました。

② 流された小羊の血
みなさんは、創世記でアブラハムが契約を与えられたときの事を覚えているでしょうか?
そのときアブラハムは、牛やヤギ、羊などの家畜を殺して、生贄としてささげました。
それは神様との神聖な契約のしるしでした。
イスラエルの開放の前に、そこに新たな契約が結ばれるかのように、家畜の血が流される事となったのです。

神様は、イスラエルの家族ごとに、雄で傷のない、1歳の羊かヤギを用意させました。
そしてその子羊を殺し、その血を自分たちの家の扉の門柱とかもいに塗るように命じたのです。

この晩、主の霊がエジプト中を巡り、その家庭で最初に生まれた子供、家畜の命を取り去ってしまいました。
それはまるで、イスラエル人の男の子を全て殺してきた過去を清算するかのような出来事でした。
あるいは、神様の初子であるイスラエルを開放しないパロに向けられた、裁きででもあるような出来事でした。

しかし、イスラエルの人々の家からは、初子が死ぬ事はひとりもありませんでした。
主の霊は門柱とかもいに塗られた小羊の血を見て、裁きはその家には下されず、彼らの家を過ぎ越されたのです。

イスラエル民族がエジプトから解放され脱出する事ができたこの時の出来事を、イスラエルの人々は“過ぎ越し”と呼んで特別な日としてお祭りしています。
イエス様が弟子たちとともに過ごした最後の晩餐は、この過ぎ越しの祭りのときでしたし、ユダヤ人は今でもこの過越し祭を大切に守っています。

それにしても、なぜイスラエルの人々はこの時、小羊の血を門柱とかもいにぬらなければならなかったのでしょうか。
そして、どうして彼らはそれを祭りとして後世に残していく必要があったのでしょうか。
それは、この過越しを通してイスラエルが開放されたという喜びもありましたが、過越しそれ自体より、そこに象徴されている本当の意味に重要なことが示されていたからです。

イスラエルの人々が門柱とかもいに塗った小羊の血。
この血が象徴しているのは、後の時代に流される事になった、イエス様が十字架で流した血です。
罪のあるすべての人が裁きを受ける事になる終わりのときに、イエス様を信じ、罪の贖いのために流された血を受け取る事によって、神様の裁きは私たちを過ぎこすのです。
この時に捧げられる小羊が、傷のない、雄の羊でなければならなかったのは、その羊がイエス様を象徴しているからですね。

神様は、イスラエルの人々が奴隷から解放されるこの出来事を通して、未来に計画している人々への希望を、しるしとして残していました。
それをキリストの型とか予表といいますが、過越しの祭りもそのうちのひとつなのです。

イスラエルの人々は、アブラハムの子孫だからという理由によって裁きを免れたのではありませんでした。
もし彼らがモーセの言うとおりにしないで、小羊の血を塗らなかったとしたら、その家にはやはり裁きが下された事でしょう。
その一方で、もしエジプト人たちがイスラエルの人々と同じように、小羊の血を門柱とかもいに塗るなら、その家庭も裁きを受ける事はなかったはずです。
神の裁きから人を守ったのは、小羊の血だったということが、ここでは明確に語られています。

誰も、割礼を受けているからとか、信仰者として全力を尽くしたからとか、あるいは正しい行いをした良い人だったからとかいう理由で救われたのではありませんでした。
私達人間の功績というものは、人間同士の中で評価の対象とはなっても、神様の正しさの前に十分な善ではありえません。
しかし、私達の魂の扉の門柱とかもいに塗られた神の小羊イエス様の血によって、神の裁きは私たちを過ぎこします。

この時に流された小羊の血と、過越しの出来事は、その真実をイスラエルの人々と、私たちに教えてくれているのです。

③ 救いの代価
イスラエルの人々がいけにえを捧げるために小羊を殺す時、「あぁ、この羊は私達の身代わりとなってここで死ぬのだ。」と、自分の命の重さを考える機会になったのではないでしょうか。
それは確かに象徴でしかありませんでしたが、自らが手を下すという実感を伴うものでした。

私達がクリスチャンになったという事は、罪が赦されたという事です。
しかし、その罪はただ赦されたのではなく、そこには大きな代償が払われたはずです。
私達の救いのために支払われた代償、それは神様ご自身の血、イエス・キリストのいのちに他なりません。
この様な話があります。

毎日池のそばを回って小学校に通っている男の子がいました。
冬になると、池は凍りついてしまいます。
そのために彼の父親は、決して池に近づかないようにと注意を与えていました。
しかし、彼はある日父親の忠告を無視し、氷の上を歩こうとして池に近づきました。
そして氷の上に足を乗せたとたん、氷が割れて彼は冷たい水の中に落ちてしまいました。
ところが、ちょうど、そこをひとりの年配の郵便配達人が通りかかりました。
子供が溺れかかっているのを見た彼は、急いで駆けつけ、腕を捕まえてその子を引き上げて助けてあげました。
男の子はその郵便配達人のおかげで一命を取り留めましたが、数週間寝込むはめになりました。
男の子はきっと叱られるだろうと思っていましたが、父親は彼を一切叱責しませんでした。
やがて彼が回復すると、父親はだまって彼をお墓に連れて行ったのです。
そこには、あの郵便配達人が眠っていました。
郵便配達人は、男の子を助けた代わりに、自分の命を失ってしまったのです。
このことを通して、男の子は知りました。
自分の命は、もはや自分自身に属するものではないことを。
彼は新しい命を受けました。
彼が今生きているのは、一人の人が命を捨ててくれたからだと知ったのです。

私達は、善い行いや神様に人生を捧げる事によって、罪の奴隷から解放されたのではりません。
悪い事をしなかったから神様の裁きを逃れ、永遠の命を手に入れたのではありません。
私たちに与えられている永遠の命は、私たち自身が勝ち取ったのではなく、神様の恵みによって、神様が支払ってくださったものなのです。

Iヨハネ 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

それが自分の力によるのでなく、神様からの一方的な救いであるならば、私達の人生はもう自分自身に属しているのではなく、神様に属するものとなったのです。
しかし、それは恐怖や強制によるものではなく、愛に属するのだという事は、なんと素晴らしい事でしょうか。

④ 開放のとき
エジプト中の人々が、わが子を失った悲しみのためにすすり泣く中で、イスラエルは430年間を過ごしたこのエジプトを後にして旅立ちます。

奴隷としての生き方を強いられてきたイスラエルの人々にとって、開放は自由になれると同時に不安や恐れももたらした事でしょう。

私達が歩み始めた新しい生き方も、今までの罪に支配された生き方ではなく、愛の支配の中にある生き方です。
未だ罪の支配を受けているこの世の中で、その様な生き方をする事は不安や恐れも感じるでしょう。
しかし、この道のりは私達が独りで行く道ではありません。

たくさんの仲間とともに歩む道でもありますし、何よりも神様が共にいてくださいます。
私達は、その様な神様の導きに期待し、信頼して、この道を歩んで行こうではありませんか。

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