出エジプト14:1-14 『信じる者に開かれる道』 2007/07/01 松田健太郎牧師

出エジプト 14:1~14
14:1 主はモーセに告げて仰せられた。
14:2 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。
14:3 パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うであろう。
14:4 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。
14:5 民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」
14:6 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
14:7 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。
14:8 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。
14:9 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。
14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。
14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」
14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

エジプトの人々が、我が子を失った悲しみに暮れる中、百万人を超えるイスラエルの人々がエジプトを出発しました。
彼らは急いでいたので、食べるものは種無しのパンだけでしたが、それでも準備は十分にできていました。
彼らは家畜、好意的なエジプト人たちから分け与えられた財産、そしてヨセフが約束していたようにヨセフのミイラを携えてエジプトの地を後にしたのです。
その中には、この混乱に乗じてイスラエルの人々と共に脱出しようとするほかの外国人たちの姿もありました。
この様な人々が、イスラエルにさらなる混乱を招く事になったのですが、モーセはあえて、彼を排除してしまう事をしませんでした。
一緒に来る人々は同士として認めたという事と、何よりエジプトを脱出するのが先決で、細かい事にこだわっている時間がなかったのです。

イスラエルを導いているのは、神様ご自身でした。
昼は雲の柱、夜は炎の柱が彼らを導いたと聖書には書かれています。
それがどんな光景だったか、なかなか想像がつきにくいのですが、壮大な奇跡だったと思います。
私達は、このような方法で神様の導きを示された事はないだろうと思います。

これは、人々に聖霊が与えられていなかった時代に表された神様の臨在です。
現代を生きる私たちクリスチャンは、確かにこの様なすさまじい奇跡を見ることはないかもしれませんが、聖霊によって直接神様の導きを受ける事ができますね。
また、神様は聖書の御言葉を通して、私たちを導かれます。

詩篇 19:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

聖霊のうながしと、聖書の御言葉が、私たちにとっての雲の柱、炎の柱なのです。
今日は、神様の導きのままに進んだイスラエルの人々が体験した壮大な奇跡を、共に見ていきましょう。

① 思いがけない後退
さて、それが神様の導きの中にあるとはいえ、必ずしもまっすぐの道とは限らないのが私達の人生ですね。
やっとの思いで脱出したイスラエルの人々に、神様は驚くべき事を命じます。

14:2 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。

せっかく奴隷から解放されて、エジプトから出て来ることができたのに、神様は道を引き返しなさいとおっしゃるのです。
もちろんエジプトまで戻ってしまうわけではありませんが、彼らはわざわざ袋小路になったような場所まで戻り、宿営する事になりました。
そしてそれが、彼を窮地に立たせる事になるのです。

私たちが何かを成そうとしているとき、これから事が進むと思っていたことが、突然行き詰ったり、後退してしまうように感じることがあります。

伝道していた人が、突然信仰を否定するような事を言い出す。
病が癒されると思ったら、別の病が発見されてしまった。
確かに神様の導きによって始めたミニストリーが、頓挫してしまうという事も少なくはありません。

しかし、それが本当に神様の導きによって始まったものなのであれば、神様が確かにそこに働かれているのであれば、私達には後退にしか見えないようなことであっても、それは必要な後退です。
前に進む上で、何かを乗り越えるために必要な後退なのです。

イスラエルにとっての後退は、エジプトと決着をつけるための後退でした。
ここで決着をつけなければ、エジプトはどこまでもイスラエルを追ってくるし、新しい国にまで攻め込んでくるでしょう。
すべてのしがらみを絶ってしまうためにも、恨みを抱いてイスラエルにこだわりを持ってしまっているパロとの決着が、ここでつけられなければならなかったのです。

② イスラエルの不信仰
さて、エジプトのパロは、イスラエル人たちを行かせてしまった事を後悔していました。
エジプトにとって百万を超える労働力を失うことは、致命的な経済力ダウンにつながりますし、何よりもメンツというものもあったでしょう。
しかしイスラエル人たちが後退し、袋小路に入り込んだという事を知ると、今こそチャンスとばかりに兵を集めさせたのです。

14:6 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
14:7 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。
14:8 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。
14:9 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。

パロが、イスラエルの人々に追いついて捕らえるために率いたのは、600のエリート部隊を筆頭とする戦車部隊でした。
百万を超える人々に差し向けるには少ないような気がしますが、イスラエルの人々は武器を持っていません。
戦闘の訓練も受けていませんし、これまで奴隷として暮らしてきたのですから、奴隷としてのメンタリティが染み付いてしまっています。
これから追いついて、足止めをするには十分な人数だったことでしょう。
それを証拠に、背後から迫るエジプト兵たちを見たイスラエルの人々は、恐れをなして主に叫び、モーセに訴え始めたのです。

14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。
14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」

イスラエルの人々は、今や雲の柱、炎の柱から目をそらし、後方のエジプト兵たちに目が奪われてしまっていました。
それはあたかも、イエス様の許しによって水の上を歩いたペテロが、波に心を奪われて沈み始めてしまったときのようでした。

私たちも、大きな出来事が私達の上に降りかかったとき、不安に襲われて焦点を見失ってしまう事があります。
いつでもイエス様だけを見つめていられれば私達は平安なのですが、子供の事だったり、経済的なことだったり、病気や死にかかわる事だったりした時に、その問題の大きさに心を奪われてイエス様から目を逸らしてしまうのです。
そして不安の中で、この時のイスラエルの人々のようにつぶやいてしまう事がないでしょうか?
私達の中にもまた、罪の奴隷としてのメンタリティが染み付いているのです。

イスラエルの人々が解放されたときのことを思い出してみてください。
数々の奇跡を彼らは見たはずでした。
エジプトを10の災害が襲い、しかしイスラエルの民には何の危害も加わらず、神様が直接介入してエジプトから導き出してくださったのです。
そして、今は雲の柱、炎の柱という新たな奇跡によって、彼らを導いてくれている。
その様な数々の奇跡を目にしてもまだ、神様を信用しきれないのが私達の弱さです。
不信仰に陥り、救われなかったほうが良かった、神様との関係なんてなかったほうがよかったと呟くような言葉ほど、天のお父様を悲しませる事はないのではないでしょうか。

③ 主が戦われる
不安に囚われてパニックのようになるイスラエルの人々に、モーセはこの様に告げました。

14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

今、私達が恐れている状況は何でしょうか?
私達が心配し、不安に思っている事は何でしょうか?
モーセを通して、神様は私たちにも語りかけてくださっているようです。
「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたのために行われる主の救いを見なさい。あなたは、きょう見る悩みや問題を、もはや永久に見ることはない。」

神様は、どうやって私たちを問題から引き出してくださると言っていますか?
聖書には、立ってその問題に立ち向かいなさないと書かれているでしょうか?
イスラエルの人々は、全力を尽くしてエジプト人たちと戦いましたか?
そうではありませんね。

みなさん、主が私達のために戦ってくださるのです。
私達が自分の力では解決できないような問題でも、神様にはできるのです。

それとも神様は、人の魂を救う事はできても、お金の問題はどうにもならないでしょうか?
人間関係だけは神様にも修復できませんか?
子育てに関してはムリですか?

私達の神は、この世界のすべてを創りあげた創造主です。
その神様が私たちと共にいて、私たちを助けてくださっているのです。
神様が私達に代わって戦ってくださるならば、私達は安心して神様の救いを待ち望めばいいのです。

④ 開かれる道
前方には海、背後からはエジプトの大戦車部隊、逃げ道はどこにもない。
そして周りからはモーセに対する批判と敵対の声が迫り、状況は最悪でした。
しかし、人々が不安になり、混乱し、神様とモーセに文句を言う中、モーセはひたすら神様を信じ続けたのです。
彼の信仰と言うより、もうそれしかなかったのかもしれません。

モーセは、神様の言葉に従って杖を上げました。

14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。
14:22 そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

右と左にそびえる水の壁の間を、イスラエルの人々は進んでいきました。
その後から、エジプト兵たち。
しかし、イスラエルの人々が渡り終えた途端に水は元に戻り、後から来ていたエジプト兵たちを飲み込んでしまったのです。

私達は神様に従っていても、窮地に立たされ、絶望的な場面に遭遇する事があります。
四方壁に阻まれ、内側にも敵が満ちるような状況です。しかし、そんな時でも、私達は何も恐れる必要はありません。
私達がそれでも神様を信じ、従い続けるなら、私達の前には道が開かれるのです。

イスラエルの前に、海を割って道を開いた神様が、私たちと共にいてくださいます。
私達はこの目で、もっと素晴らしい奇跡を見ようとしているのかもしれません。

Iコリント 10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

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