出エジプト17:1-7 『試みと争い』 2007/07/15 松田健太郎牧師

出エジプト 17:1~7
17:1 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。
17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
17:4 そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

先週は、エジプトを脱出し、荒野をさ迷う天から与えられたマナという不思議なパンによって食物を得ることができたというお話をしました。
イスラエルの人々は、このマナを通して神様との関係を学ぶ事となりましたが、それと同時に命を繋げる事ができたのです。
しかし、生きるために必要なものが他にもあります。
それは、水ですね。
彼らが水のみ場を見つけてそこで水を補給しても、水筒の水は砂漠ではあっという間になくなってしまいます。
そんな中で、食べるものは神様から与えられていても、水はどんどんなくなっていきます。
イスラエルの人々は、そこでまたしても不満を抱き始めました。

皆さんなら、この様な状況でどうするでしょうか?
イスラエルの人々がこの時どうするべきだったでしょうか?
それは、マナを与えてくださった主に、今度は水を求めて祈ることではないでしょうか?

詩篇で、ダビデ王はこの様に歌っています。

詩篇 103:2 わがたましいよ。
主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

しかし、私達は過去においてなされた主の御業を、何と簡単に忘れてしまう事でしょうか?
もちろんそれは、イスラエルの人々も例外ではなかったのです。
今日は、イスラエルの人々の経験を通して、試練を前にして、私達が何をすべきかという事をともに学んでいきましょう。

① 主への試み

17:1 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。

イスラエルの人々は、マナが最初に与えられたシンの荒野を去り、かつて神様がモーセの前に燃える柴として現れた神の山ホレブのふもと、レフィディムという所まで移動してきました。
シンの荒野では水を見つけることができなかったからです。
ところが、水を求めてやってきたのですが、そこにも水はありませんでした。
それを知った人々は、過去に神様が与えられた恵みを全て忘れてしまい、心の中の不満を爆発させました。
そして、神様の代理人であるモーセと争って言ったのです。

17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」

これまでにも何度も繰り返してきたつぶやきですが、今回は文句だけで収まりません。
自分たちをエジプトの地から遠ざけ、水も食べ物もない荒野に連れてきたモーセとアロンを逆恨みし、石で打ち殺そうと迫っていたのです。
その時モーセは、人々にこの様に答えました。
17:2b「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」

モーセは、これは自分に対する不満だけでなく、主に対する試みだと言っています。
この「主を試みる」とはどういう事なのか、私達はもう少しよく考えてみなければなりません。
主を試みるとはどういう意味なのでしょうか?

聖書の中で「試みる」という場合、まず神様が人間を試みる、試練と呼ばれるものがあります。
これは私達の信仰に対して試練を与えるためのもので、「試練」を通して私達の神様との関係が深められ、清められるのです。
また、サタンが私たちを試みる場合があります。

サタンからくる試練を、「誘惑」と私たちはと呼びます。
サタンは時として、私達の信仰の弱い部分を試み、私たちを神様から引き離そうとします。
イエス様でさえ、サタンからの誘惑を受けましたね。
しかしそれだけではなく、人間が神様を試みるのだということです。

この時イスラエルの人々の中にあったのは、「主は私達の中におられるのか、おられないのか」という疑いの心であり、神様が共にいてくださることに対する試みです。

「神は、もう私のことを愛してくれてなどいない。」
「たとえ神でも、砂漠に水を生む事などできはしない。」
「自分たちがこんなに苦しい目に合うのは、神が我々と共にはいないからではないか。」
あらゆる不信仰が神様の愛と、力と、存在のすべてに疑いを生じさせます。
そんな時に私達は、自分で納得いくような証拠をよこせと、不遜にも神様を試みてしまうのではないでしょうか。

聖書には「あなたがたの神、主を試みてはならない。」と書かれています。(申命記6:16)
第一に、それは神様に対する侮辱だからです。
そして第二に、私達には十分な証拠が与えられています。

パウロは手紙の中でこの様に言いました。

ローマ 1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

私達が信仰を持って神様と向き合うなら、世界は神様の存在にあふれています。
しかし、疑いをもって世界を見るなら、いくらでも否定する事ができます。
その様な視点でいたら、私達は決して確信を持つ事はできないでしょう。
聖書に関しても同じ事が言えます。
私達が疑いを持って聖書を読むとき、聖書の御言葉は自分にとっては無関係なおとぎばなしのようにしか捉えることができないかもしれません。
しかし、信仰をもって聖書を読むなら、その御言葉が生きたものとして私達の中に入ってきて、私たちに力を与え、私たちをさらに神様の元へと近づけるのです。

不信仰からくる試みを、神様に向けないようにしましょう。
私達が神様を試みるのは、私達は悪魔からの試みを引き込む事にしかなりません。
私達は神様への信頼を持ったときにこそ、その恵みをそのままの形で受け取る事ができるのですから。

② ホレブの岩を打つ
イスラエルの人々の試みを受けたとき、神様はそれを一笑に付す事もできたでしょう。
あるいは怒りをもってイスラエルの人々を罰する事もできました。
しかし、哀れみ深い神様は、この時にも一方的な恵みをもって、イスラエルの必要を満たしてくださったのです。

神様はモーセに、ナイルの水を血に変えたあの杖で、ホレブの岩を打つように言いました。
モーセは長老と共に岩まで行くと、神様が命じられたようにその岩を杖で打ちました。
するとそこに奇跡が起こりました。
打たれた岩からは水がほとばしり出て、流れがあふれたのです。
「水は砂漠を川となって流れた。」と、詩篇では描写されています。(詩篇105:41)

何もない荒地に川があふれるなどと、一体誰が想像できたでしょうか。
岩の下には地下水脈がある事が多いといいますが、人の力で叩いただけで、水が川のようにあふれだすなどという事がありうるのでしょうか?

私達の神様は、どんなに不可能に思える状況からも豊かに与える事ができるお方です。
私達はその事を信じて、いつでも神様に信頼していたいものですね。

③ 湧き出る命の水
さて、天から不思議なパン“マナ”が与えられた事は、単にそのパンでイスラエルの人々の空腹が満たされたという事だけを意味していないのと同じように、モーセがホレブの岩を打って水があふれ出したという奇跡の中にも、もうひとつの霊的な意味が含まれています。
この岩はキリストを指し示す雛形のひとつなのです。

パウロはコリントに宛てた手紙の中で、ホレブの岩の出来事に関連してこの様に書いています。

Iコリント 10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

イスラエルの人々が不満を抱き、不信仰の罪によって神様を試みたとき、彼らの不信仰は神様によって打たれるに足りるものだったはずです。
しかし、その時に打たれたのはイスラエルの人々ではありませんでした。
人々の代わりに、神の山ホレブにあった岩が打たれる事によって、人々は豊かに水を得て、命を繋ぐ事ができたのです。

イエス様ご自身はこの様に語られました。

ヨハネ 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39a これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

人生の土台であり、また岩となるべきイエス・キリストを救い主として信じるとき、私たちの人生には、決して尽きる事がない永遠の命の水である聖霊が与えられます。
このイエス様に信頼して歩むとき、私達はいつも聖霊に満たされ続けることができるのです。

皆さんの中に、今試練の中にいる方はいらっしゃるでしょうか?
神様の取り扱いを受け、神様からの試みに合われている方はいらっしゃるでしょうか?

その様なときに、皆さんが疑いを抱いて、不信仰に陥ってしまわないように心からお祈りします。
そこで私達が神様を見失ってしまう事こそ、サタンが心待ちにしている事だからです。

ひと時の暗闇のために、過去における輝かしい神様の光を覆い隠されてしまうことがないようにしてください。
不信仰の故に神様を試みるなら、それによって私達の未来の輝きが失われてしまうからです。

イスラエルの人々は、これまでの奇跡と恵みの数々を目にしたにも関わらず、主を試み、神様を悲しませました。
それでこの地は、“争い”を意味するマサや、“試み”を意味するメリバとして覚えられる事になりました。
この不名誉な事件は、後の世に渡って語り継がれていく事となったのです。

皆さんはこの時の彼らの二の舞となることがなく、神様からの試みを通して信仰をさらに成長させることができますように。
その試練を受け止めて、なおも岩なるキリストに信頼していく事ができますように。
その時こそ私達は、聖霊に満ち溢れて、豊かなクリスチャン生活を送っていく事になるのですから。

主はこの様に言われます。

イザヤ 43:19 見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

祝福が、皆さんと共に豊かにありますように。

 

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