エペソ2:19 『神の家族にようこそ』 2007/07/22 松田健太郎牧師

エペソ 2:19
2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

私達は普段、何気なく教会という言葉を使っていますが、教会という言葉は色んな事を表す言葉でもあります。

ひとつには建物としての教会という事。
ふたつ目に、個人としての教会。
わたしたちひとりひとりが教会であるという言い方をしますね。
三つ目に、公同の教会としての教会。
プロテスタントもカトリックも、正教会も、世界中の教会がキリストを神として見上げ、十字架による罪の贖いによって救いを受けたひとつの大きな教会です。
そして四つ目が、私達がもっとも多く口にする、集まりとしての教会です。

今日はこの後、小西湧くんの洗礼式があります。
湧くんは、物心ついたときから信仰をすでに持っていました。
そういう意味では、洗礼を受ける以前に、救いはこれまでもすでにあったと言えるでしょう。

しかしこの洗礼式を通して、今日湧くんはその信仰を確かなものとします。
そして改めて、私たち西葛西国際キリスト教会という集まりとしての教会の一員となることを意味しています。
今までにもこの教会に集ってくれていたわけですが、これからはこの教会に属する、主にある家族の一員となるわけです。

今日は、せっかくのこの様な機会ですから、神の家族の一員になるという事がどういう事なのかという事を一緒に考えてみましょう。

① ひとりではなく
今日の聖書箇所をもう一度読んでみましょう。

エペソ2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

聖書は、私たち教会のつながりは“神の家族のようだ”というのではなく、“神の家族である”と言いきっています。
私達が教会の一員になるということは、神の家族に属するという事なのです。

時々、「信仰は私と神様との関係なのだから、私は教会には行かずひとりで信仰を守っていく。」という方がいます。
しかし、聖書はクリスチャンをそのような存在としては書いていません。

イエス様は、私達がキリストというぶどうの木に繋がる枝と例えて言いました。
ぶどうの木に繋がっている枝は決して一本ではなく、無数の枝が連なって一本の木となっているものです。
また別のたとえとして、教会はキリストを頭とするひとつの体だと言われています。
頭に心臓がついていれば十分なのではありません。
それぞれの個性や役割が違う、色々な器官がひとつとなって合わさって、初めて体として機能する事ができるように、私たちも単体として教会の役割をはたすのではなく、ひとつに集まって初めてなす事ができる働きがあるのです。

これほど個性にあふれている私達が、どうやったら仲間割れを起こさず一致を保っていく事ができるでしょうか?
パウロはこの様な言葉を持って、私たちに一致するように勧めています。

エペソ 4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

私達が、主によってひとつに結び付けられたひとつの神の家族となっていく事ができますように。

② 家族の親しい交わり
家族というのは本来、特別に深い絆をもった人間関係ですね。
現代の家族関係は昔に比べて絆が失われてしまっていますが、それでも他人とはまったく違う人間関係が家族の中には存在しているのではないでしょうか。

家族とは、友人にも見せない自分自身の弱い部分も見せる事ができる関係です。
そしてお互いに支えあい、助け合いながら生きていきます。
教会に属するという事は、本来そのような関係の中に自分が属するという事を意味しているのです。

聖書の中でも、家族はひとつの重要な絆として描かれています。
旧約聖書に描かれているのは、神様から選ばれた人々の集合体ではなく、イスラエルというひとつの民族でしたね。
アブラハム、イサク、ヤコブと親から子へと受け継がれてきた信仰が、イスラエルと言うひとつの民族として成長していったわけです。
星の数ほどに大きくなっても、イスラエルは血縁と言うひとつの深い関係で結ばれていたのです。

そして聖書は、信仰によってひとつとなった私たちを、霊的なイスラエルと呼んでいます。
それは、私たち教会がもつ関係が、ひとつの民族としての深い絆で結ばれるべきだという事を意味しているのではないでしょうか。

使徒の働きの中で、聖霊に満たされたクリスチャンたちが、どれだけ深い関係をもって交わりを持っていたかを見る事ができます。

使徒の働き 4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

これはもちろん、この時代の人々が聖霊に満たされてあふれる愛の関係を築いたときに自然と起こった事なのであって、私達が財産を分け合って生活するという事自体が主にある家族の交わりだと言うのではありません。
重要なのは、人々が“心と思いを一つにして”いたという事です。

お互いに助け合い、支えあい、今どのような状況に置かれているのかという事を互いに気遣い合うことができるような愛によって結び付けられた関係。
その様な愛で結び付けられた関係が、神の家族に求められている事なのです。

③ 家族は選べない
皆さんの中で、自分のお父さんとお母さんを選んで産まれてきた方はいらっしゃいますか?
それでは、お兄さんやお姉さん、妹や弟を選んだという方はどれくらいいるでしょうか?

私達は普通、自分の家族を選ぶ事はできません。
もちろん夫や妻は別にしても、他の家族のメンバーを自分で選んだと言う方はかなり稀なことだと思います。

ただの友人関係なのであれば、気に食わない人とは付き合わなければいいだけのことです。
でも家族はそうではありません。
私たちが神にある家族であるという事は、互いを選ぶ事ができないという事も意味しているのです。

教会には、同じような人だけが集まるべきではなく、むしろ色々な個性と賜物を持った人たちが集まって、ひとつの教会を成り立たせていくべきです。
そうなると、すべてのメンバーと気が合うというわけには行かないという事もあるものです。
その様な中でパウロは、家族の交わりとして不可欠ないくつかの要素を上げています。

コロサイ 3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

これまでクリスチャンとして何年も過ごしてきた皆さんは、当然のことながらこれまでお話してきたような素晴らしい主にある家族として信仰生活を送れている・・・でしょうか・・・?

こうやって見てみると、神の家族として求められている事は、私達が血の繋がった家族にさえ持つ事ができていない、あるいは一つ屋根の下に暮らす夫や妻にさえ持つ事ができていないような関係だという事がわかってきますね。

私たちに求められている家族としての交わりを持つ事は、決して簡単なことではありません。
心の内はともかくとして、表面的にだけニコニコして仲良くやっていく方が、ずっと簡単なことでしょう。
しかし、それが神様の求める家族の交わりでない事は明確です。

ましてや、我慢して、努力して、真の家族的な交わりを目指してがんばって家族の関係を作り上げようとするなら、それは気の許せるような関係ではありえず、家族と言うにはほど遠い関係となってしまいます。

罪の影響を受けている私達には、聖書が求めている愛にあふれた家族としての交わりを持つ事はそのままではあまりにも難しい。
だからこそ、クリスチャンに求められている家族関係なのです。

クリスチャンの生き方は、自分が人生を支配する生き方ではなく、神様にすべてをお委ねする生き方です。
私達が自分を神様に捧げる事、コミットメントが私たちを内側から変え、神の家族としての真の交わりを可能としていくのです。

私達は今、新たな家族をこの教会に迎えようとしています。
これから湧くんは、もう「小西さんの家の息子さん 」ではなく、私達の弟となるのです。

この機会、私達は改めて私たち自身のクリスチャンとしてのあり方、教会の中でのお互いの関係を新たにして、新しい兄弟を迎えようではありませんか。

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