出エジプト17:8-16 『祈りこそ勝利への道』 2007/08/05 松田健太郎牧師

出エジプト 17:8~16
17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。
17:14 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
17:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
17:16 「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

神学校時代の同級生が、今愛知県で教会を開こうと奮闘しています。
神様からのビジョンを受けて、フルタイムの仕事をしながら開拓伝道をしているのですが、仕事の方でもなかなかうまくいかず、悪戦苦闘しています。
教会の方も、ひとりで礼拝をする日が何週間も続いていると聞いています。

アフガニスタンで、韓国人の宣教グループが捉えられて2週間が経過しました。
牧師を含む2人が殺害され、今も緊迫した交渉が続いています。
彼らは、この様な状況が起こる事も覚悟して行ったでしょうが、この様な状況から一刻も早く、彼らが解放されることを祈らないではいられません。

礼拝メッセージの中でも何度もお話していることではありますけれど、私達がクリスチャンになるという事は、私達の人生が平坦になって、何の苦労もなく生きる事ができる道なのではありません。

イエス様の弟子たち、使徒たちの多くが、殉教によって死を迎えました。
また、そこにいたる道のりも、多くの苦難を伴っていました。

私達の人生もそうですね。
私達の人生にも、たくさんの戦いがあります。
そのような苦難の中で、私たちに何ができるのか、私達がどのように戦ったらいいのか、モーセ達の歩みを通して共に学んでいきましょう。

① 信仰に挑む悪魔の戦い
さて、食糧不足、水不足の問題の中、主の恵にあずかって切り抜けたイスラエルを、次の試練が襲います。
異民族による襲撃を、イスラエルは受けたのです。

それは、彼らがもっとも恐れていた事であり、神様が心配していた事でもありました。
神様はこのような戦闘を避けるために、近道ではなく、わざわざ遠回りになる荒野の道を進ませたくらいでした。(出エジプト13:17)
しかしそれでも、異民族との戦闘を完全に回避しきる事はできませんでした。

イスラエルを襲ったのは、アマレク人という人々です。
それは、創世記に出てきたエサウの子孫たちでした。
ヤコブの兄であり、野生児だったエサウの子孫たちは、今やエサウと同じような獰猛性を持ったまま、イスラエルの敵として立ちはだかったのです。アマレクは、イスラエルの集団の一番後ろで疲れて弱っている者たちを襲いました。(申命記25:17,18)

しかも、これまで奴隷だったイスラエルの人々は、まったくの丸腰状態で、武器を持った獰猛なアマレク人たちと戦わなければならなかったのです。
イスラエル人たちを突然襲った試練は、この様に絶望的な危機でした。

私達が罪の奴隷から解放されて、自由になって新しい生涯を始めたときから、神様は私たちを可能な限り安全な道へと誘ってくれています。
それでも、私達の人生に危機がなくなるわけではありません。

ひとつには、私達が神様の御心と違う道を選ぶかも知れないこと、そして、神様の守りの中にあってもサタンの攻撃から完全に逃れているというわけではないという事です。

I ペテロ 5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

そして、サタンが襲ってくるとき、私達は恐れて打ちひしがれるのではなく、立ち向かわなければならないのです。

Iペテロ 5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

今、皆さんも苦難の中にあるかもしれません。
しかし、それは皆さんが神様から見放されたからではなく、完全に引き離されているからでもなく、私達が乗越えるべき試練だという事です。
どんな試練の中でも、私達が耐えられるように脱出の道を備えてくださる主を信頼し、私達の戦いを戦い抜いていきましょう。

② 祈りが勝敗を決める

17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

アマレクとの戦いに指導者として立ったのは、若きイスラエルのリーダー、ヨシュアでした。
この後彼は勇気、決断力、そして何よりも信仰を次々と発揮し、モーセの後継者として成長していきます。

一方でモーセは、神の杖を持って丘の頂に立ちました。
そして丘の頂から戦場を見下ろすと、手を上げました。
すると、不思議な事が起こったのです。

17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。

これは、モーセが手を上げていたので戦争に勝つ事ができたというような、おまじないのような事を言っているのではありません。

手を上げるのは、伝統的な祈りのスタイルです。
私達がよく知っている、うつむいて、手を組んで祈るのは西洋の文化の中で生まれた祈りのスタイルですね。
イスラエルの人々は、手を上げて祈ったんです。
つまりこの戦いの勝敗は、実はモーセのとりなしの祈りにかかっていたのだということなのです。

私達の人生は戦いに満ちています。
しかし私達は、戦うときに重要なのは、実際に戦うヨシュアの働きだと思うのではないでしょうか。
もちろん私たちが戦うという事も必要です。
実際に戦うのでなければ戦いになりませんから。
祈っていれば何もしなくてもアマレク人たちが勝手に倒れていったかといえば、もちろんそんなことはありません。
私達がしなければならない戦いも当然あります。

しかし、ヨシュアがどれだけ知恵と勇気にあふれ、勇敢に戦ったとしても、武器のないイスラエルが獰猛なアマレク達に勝つ事は到底できなかったでしょう。
エジプトからの勝利を価値とったのが、イスラエルではなく神様だったように、この時アマレクを打ち破ったのはやはり神様だったのです。
困難があった時、その困難に立ち向かうのは私たちです。
しかし、そこに勝利をもたらして下さるのは、私たちではなく神様なのです。

だからこそ、私たちにとって祈る事はもっとも大切な事です。
私達は、祈りを最後の手段だと思ってはいないでしょうか?
『やるべき事はすべてやった。あとは祈るしかない。』
そうではなく、なすべき全ての事の最初に、祈りがあるべきです。
私達が戦う戦いは、霊的な戦いなのですから。

使徒パウロは、ローマ帝国中を巡って福音を伝えた行動派でもありますが、何よりも祈りの必要性を説いた人でもありました。

ピリピ 4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

エペソ 6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

宗教改革を起こした人のひとりマルティン・ルターは、多忙を極める改革活動の中、一日に4時間以上祈る時間を持っていたといいます。
「忙しくて祈る時間などないのではないか。」と訊ねる人々に、ルターは「忙しくて大変だからこそ、私は祈らないではいられないのだ。」と応えました。

祈りが、私たちに力を与えます。
祈りを通して、私達は神様がそこにおられるという確信を得る事ができます。
祈りによって、私達の心は神様に近づいていくのです。

③ 祈りによって支えあう
しかし、祈りは時として大変な忍耐を必要とすることでもあります。
結果がすぐに見られるとは限らない。
だからこそ、私達は祈りつかれるという事も起こってくる者です。

長引くアマレクとの戦いの中で、モーセもまた疲れを覚え、祈る手を上げていられなくなってきました。
しかし手を下ろして祈るのを止めるなら、イスラエルはアマレクに滅ぼされてしまう。
そんな時、アロンとフルがモーセの手を支えたのです。

17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。

これは象徴的に表現されているのであって、文字通り手を上げているというそのこと自体が大切なのではありませんよ。
ひとりでは祈りつかれてしまうけれども、私達はお互いの祈りを支えあう事が出来るという事です。
私達は、共に祈ることによってお互いの祈りを支えあう事ができます。
それは何と心強い事でしょうか。

生ける伝説と言われる伝道者ビリー・グラハムの伝道集会は、一度に何千人もの人たちが救われる事で知られていますが、その奉仕者の大半が祈りの奉仕者で、集会の間中とりなしの祈りをし続けているそうです。

また、韓国でもっとも大きな教会のひとつであるオンヌリ教会では、たくさんある礼拝の時間、多くの人たちがその礼拝のために祈っているのだそうです。
先日、オンヌリ教会の主宰で開かれたラブ・ソナタの間も、その時間に集会のために祈っている人たちがたくさんいたと聞きました。

確かにビリー・グラハムのメッセージはわかりやすく、素晴らしいかもしれません。
ハ・ヨンジョ牧師の説教を通して、人々の心が揺り動かされることもあるでしょう。
しかし、彼らだけではあれ程の働きをなす事は不可能です。
その背後で祈られているとりなしの祈りによって、彼らの働きは偉大な働きへと変えられているのです。

この教会で何をしていいのかわからないと思っておられる方もいると思います。
自分には歌も歌えないし、楽器も弾けない。
人前に出たり、個人伝道をする勇気もない。
自分の賜物が何かもわからないので、積極的な働きができない。
みなさんにできる事があります。

私達の教会がもっとも必要としているもの、それは“祈り”です。
この教会のために祈ってください。
この教会の周囲の人たちのために祈って下さい。
教会の皆さんのために、互いに祈りあってください。
そして、牧師のために祈ってください。

「私には祈ることしかできない。」のではありません。
祈ること以上に素晴らしい働きはないという事を、祈り始めた時、皆さんは知る事ができるようになるはずです。

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