出エジプト20:3 『神様はただひとり』 2007/08/26 松田健太郎牧師

出エジプト 20:3
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

先週予告したとおり、今日から十戒のシリーズに入っていきます。
十戒を、ひとつひとつ10回に分けてメッセージをする事は、もしかするとあまりないかもしれませんね。
あまり聞きたいと思わないトピックだったりするので、短くまとめようとする事が多いかもしれません。
そうでなければ、とてつもなく律法主義的なメッセージを聞かされたりするかもしれません。

多くの場合、この箇所から聞かされるメッセージは、「キリスト教だけが正しいのであって、神と呼ばれるほかのものに目を留めたり、耳を貸してはならない。」という感じのメッセージではないでしょうか。
確かにそれが間違っているわけではないのですが、それだけではクリスチャンではない人たちは、「他の宗教を一切認めないなんて、キリスト教徒は何と心が狭く、独善的な宗教なんだろう。」と思ってしまうのです。
実際、僕は長い間そのように思っていました。

私達は、そこで思考を停止してしまってはいけません。
愛の神様が、どうして私たちにこのメッセージを律法として与える必要があったのか?
それを通して、神様が本当に期待した事はなんだったのか?
もう一歩足を踏み込んで、この律法について一緒に考えていきたいと思います。

① 私達の価値を決めるのはひとり
私達はひとりひとりが違う価値観を持っているという話を先週しました。
そして私達は、自分の価値観、自分の物差しによって人を計り、評価しているのではないでしょうか。
「あの人はわがままだ。あの人は洗練されている。あの人は人に媚びるのがうまい。」
私達はたくさんいる人たちの中で、それぞれの個人を認識しなければなりませんから、その人の特徴を他の人たちと比較して考えるのは当然といえば当然なのかもしれませんね。

でもそれは逆の事も言えます。
私達はさまざまな価値観の物差しによって計られるという事です。

私達の学歴、仕事がどれだけできるか、優しい人なのかどうか、シェイプアップされたナイスボディかどうか・・・?
そういった色々な条件によって私達の価値が計られます。
場合によっては良い評価を受ける事があるかもしれませんし、悪い評価を受ける事もあるでしょう。
そして、全ての人からよい評価を受けるという事は、絶対にできません。
それは、それぞれの人の価値観が全く違うので、全ての条件を満たすという事はできないからです。

みなさん、人の評価が私達の価値でしょうか?
私達はよく、ここで間違いを起こしてしまうのです。
人の評価が私達の価値を左右してしまうと考えて、必死によい評価だけを得ようとするのです。
また、少しでも悪い評価を受けてしまうと自分には生きている価値がないかのように感じて落ち込んでしまうのです。
でも、人の評価はその人の物差しで計った私達の一面でしかありませんね。
人の評価が私達の価値を決めるという事はありません。
では、私達の価値を決めるのは何でしょう?

多くの人は、“自分”と答えるかもしれません。
自分に価値があるかどうかは自分が決めるのだ、と。
でも、それがただの思い込みでないと誰が言えるのでしょうか?
それもまた、自分に見えている部分だけを評価した、私達の一面でしかありません。

私達の価値を決める事ができるのは、私達の周りにいる誰かでも、私たち自身でもありません。
私たちを、目的を持って創造し、この様に創り上げた方、神様にだけその権威があります。
神様を置いて他に私達の価値を決める事ができる存在はこの世界にいないのです。
そして私達の価値は、私達が何をしたかとか、どんな才能を持っているかによって計られるのではありません。
創造主である神様が、どんな思いをもって私たちを創造したかによるのです。

神様は言っています。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(イザヤ43:4)

これが私達の価値です。
神様はご自分のひとり子を身代わりにするほど、言い換えればご自身が肉体をもって私たちと同じ土台に立ち、私達の代わりに罪の裁きを受けて死んでくださるほどの価値を私たちに見出してくださっているのです。

私達は他の何者にも、神様の権威を与えてはなりません。
他のどんな存在に対しても、私達の価値を決めさせてはなりません。
それは、私たちを創造した神様は、ただひとりのお方だからです。

② 私達の人生を決めるのはひとり
“自分の人生は自分で切り開く”という事が大切であり、素晴らしい事だというのが現代の社会です。
私達が自分で事業計画を立て、それを達成する事ができるようにがんばっていくという会社の形態に、その価値観が象徴されています。

狩や農業によって生きていた時代にはそれができませんでした。
不確定要素があまりにも多すぎたからです。
獲物と出会えるかどうか、天候がうまくいくかどうか、それは完全に神様の領域であり、自分たちの努力で変えられるものではありませんでした。

実は、今の社会にあっても、全ての事を自分たちで決められるわけではありませんし、努力で補えないものもたくさんあります。
私達の未来を自分が決める事ができないのは、今も変わらないのです。
しかし、それが見えにくくなってしまっています。

その様な状況下で、何か大きな失敗をしてしまった時に何が起こるでしょうか?
実際に、予期せぬ事態によって大きな会社が倒産してしまう事もあります。
そんな時に私達が見るのは、“誰々のせいだ”と言って責任を擦り付けたり、誰かが責任を負って辞職、場合によっては命をもって償うのです。
それは、私達が神様になろうとして、神様が負っていた責任まで負う事になってしまった結果に他なりません。

冷静になって考えてみればわかる事です。
本来、私達が他の人の人生の責任なんて負えるはずがない。
自分の人生がどうなるかさえ、本当は決める事なんてできないのですから。

私達の運命を決める権威を持っているのは、神様だけです。
でも、私達は自分の人生を自分で決めたいんですね。
自分でコントロールできないと、不安で仕方がないのです。
しかし、それを思い通りにしようとすればするほど、私たち自身にかかってくる責任の重くなってしまう。
そして、決して良い結果をもたらすこともないのです。

私達が自分の未来が見えない、自分がこれからたどる人生が具体的にわからないのは不安なことなのでしょう。
でも、私達は神様が用意してくださっている全ての結果を恐れる必要はないのです。

マタイ 7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

イザヤ 55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

神様が私たちにもたらそうとしているものは、私達の想像を超えた最善です。
途中どのような辛い事、苦しい事があったとしても、全てを益としてくださる神様が、そこからも素晴らしい結果をもたらしてくださいます。
私達は、その主に信頼し、従わなければなりません。
私達が神様の御心や計画を無視して自分の道を進もうとするなら、神様は私たちを行かせるままになさるでしょう。
結果として、神様が与えようとしているものを受けられない事もあります。

私達はただひとりの神様以外のものを神とするのではなく、自分自身が神になろうとするのでもなく、神様だけを神様とし続けなければならないのです。

③ 神様への道を開くのはひとり
私たちにとって、神様がひとりでなければならない理由が少しずつでも理解していただけたでしょうか?
それはキリスト教の教えが排他的で独善的なんだということではありません。
1+1の答えが2でもあり、3でもあり、5でも8でもあるなら、私たちにとって数式は何の意味もなさないというのと同じ事なのです。

では最後に、神様に至る道も一つだけなのだという事をお話しして今日のメッセージを終わりたいと思います。

神様に至る道はひとつではなく、他にも色々な方法があるのだと多くの人たちは信じたいようです。
全ての宗教が言っているのは、つまりは同じことなんだと言うんですね。
あるいは、全ての宗教の良いところを取って一緒にしたら、もっと素晴らしいものになるに違いないと思うわけです。
まぁ、その人たちの主張もすごくよくわかりますし、気持ちも理解できます。
でも考えてみて下さい。

僕はすき焼きが好きです。トンコツラーメンが好きです。お寿司もザルそばもぺパロニピザも好きだし、納豆やイチゴも好きです。
しかし、いくら自分の好きなものであってもそれをひとつのなべの中に入れてかき混ぜられたらそんなものがおいしいはずがない。
絶対に食べたくはありません。
宗教を一緒にするというのは、つまりそういう事をしようとしているのです。

聖書にはこの様に書かれています。

ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

イエス様以外に神様へと至る道があるなら、救いを受ける方法があるならば、イエス様はどうして十字架にかからなければならなかったのでしょうか。
他に方法があるなら、そんな痛い思いをして、苦しんで、血の汗と涙を流してまで十字架にかかる必要なんてないではありませんか。
神棚と仏壇に手を合わせて、いつでも神様をリスペクトしていたらみんなが天国に入れると言うなら、イエス様が命をかける必要なんて何もないんです。

イエス様が生きて、もっと多くの人たちを癒し、蘇らせ、弟子たちに多くのことを教えたらよかった。
しかし、イエス様は十字架にかからなければならなかった。
私たちの罪を買い取り、神様が愛してやまない私たちを救う道はそれしかなかったからです。

クリスチャンでない人が、「キリスト教以外にも道がある」というのは構いません。
その人は知らないのですから、当たり前の事です。
しかし、皆さんがイエス様を心に受け入れ、救いを受け取ったクリスチャンであるならば、「他にも救われる方法がある」とは絶対に言って欲しくありません。
それは、イエス様の死を無駄にし、侮辱し、つばを吐きかけるようなことだからです。

もちろん、他の信仰を持っている人を差別したり、傷つけたり、殺したりする事は言語道断です。
そんな教えは聖書の中にありません。
私たちは当然のように、他の宗教を信じる人たちの事も愛し、尊敬するべきです。
他の宗教の教えの中には、生きていくうえヒントとなるような素晴らしい教えもある事でしょう。

しかしそうであっても、神様はひとり、神様へといたる道はひとつです。
私達が神としていた他の全てのものを手放して、真の神様だけに委ねてください。
私たちが真の神様だけを見上げるとき、そこに神の国があります。
神の国と神の義を、まず第一に求めてください。
そうすれば、他の全てのものはそれと共に与えられるからです。(マタイ6:33)

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