出エジプト20:7 『神様の素晴らしい御名』 2007/09/09 松田健太郎牧師

出エジプト 20:7
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

今日は第3戒となる“主の御名を、みだりにとなえてはならない。”という戒めです。
十戒の言葉は、私達にはわかりにくくて、ひとつひとつの戒めの真意がなかなかわからないものですが、この戒めもまた大きな誤解をもって捕らえられた戒めです。

ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、ヘブライ語を書くときには子音だけしか表記しません。
だから書かれた文字を読む時には、読む人が母音を補って読んでいかなければならないわけです。

例えば僕の名前をローマ字で書くと、KENTAROとなりますが、ヘブライ語で表記される時にはKNTRと書きます。
だから健太郎も金太郎も同じ表記だし、どの様な母音を補って発音しなければならないかという事は親から声と口伝で伝えてこられたのです。

ところが、ユダヤ人たちは神様の名前をみだりに唱えてはならないという戒めを文字通りに受け取って、いつからか神様の名前を発音しないようになってしまいました。
神様の名前が書いてある所は、その名前の代わりに“私のご主人様”という意味を表す“アドーナーイ”と発音するようにしたのです。
やがて何世代もその様にしている内に、ユダヤ人たちは神様の名前をどの様に発音して良いのかわからなくなってしまうという事態まで発生してしまいました。

後の時代になってある研究者が、神の名前に“アドーナーイ”の母音を入れて強引に読んでみたのが、“イェーホーヴァー”。
日本で言うところのエホバですね。
しかし後の研究で、神様の名前を表すこの言葉は“ヤァハウェ”と発音する事がわかりました。
今でも一昔に作られた賛美の中に“エホバ”という言葉が出てきたりしますが、それは正しい言葉ではないんですね。
エホバの証人の人たちは、間違った名前のまま活動を続けているわけです。

このような戒めを始め聖書の言葉は、ただ文字通りに受け取って表面的にだけ受け取ろうとすると私達は物事の本質を見失ってしまう事になりかねません。
「聖書にこう書いてあるから、何も疑わずそのように行いましょう。」と言うのは簡単ですが、それが時には、大きな間違いを犯してしまう事にもつながっていくのです。
私達はそのような誤解や勘違いを避けるためにも、聖書の言葉の意味をもう少し深く考え、この戒めの中にこめられた神様の思いを受け取っていきたいと思います。

① 名前の持つ力
僕は、“まゆみ”という名前を聞くと、少しドキッとするんです。
あるいはどこかにひらがらで“まゆみ”と書いてあると、パッと目がそこにいってしまう。

“まゆみ”ちゃんというのは、小学生の頃の、僕の初恋の女の子の名前なんですね。
目がぱっちりとしたかわいい娘で、当時シャイだった僕はクラスメートでありながら一言も話す事ができなかった。
一言も話していないから、どういう女の子だったかは知らないんですよ?
中学生くらいからグレて、ヤンキーになったなんて話も後で聞きました。
でも、その本人の事をよく知らないからこそ僕の中では勝手な理想ばかりがふくらんで、今でも甘い思い出としてその名前が僕に特別な感情を思い出させるんです。

逆に、嫌な事を思い出させる名前もあります。
自分の子供の名前を考えるときにすごく思わされたことですが、「この名前は自分の子供につけたくない。」という名前があるものです。
「自分の子供には、あいつのようになって欲しくない。」
名前が人の運命を決めるだなんて事を僕は信じていませんが、その名前が自分の知っている人の事を思い出させてしまい、そのイメージが連想されてしまうんですね。

皆さんの中にも、その名前を聞くと思わず周りを見回してしまうような名前があるかもしれません。
喧嘩中の人の名前を聞けば思わず身が硬くなって緊張が走るでしょうし、失恋した人の名前を聞けば思わず胸が締め付けられたり、涙が出てくるかもしれません。

名前と言うのは、単にある人を表す記号のようなものではありません。
名前とは私達に、良くも悪くも色々な感情を引き起こす力を持ったものなのです。
それが本当にその当人を表していなかったとしても、その名前を聞くだけで心が、体が反応してしまったりするものなのです。

自分の名前はでどうでしょうか?
皆さんは、自分の名前を聞いてどのように感情が動くでしょうか?
僕は、自分の名前が大好きです。
「けんたろさん」と呼ばれるとき、僕は親しみを込めて呼ばれているなぁと感じます。
「健太郎先生」と呼ばれるのはしばらくの間苦手でしたが、こんな若造の僕を、皆さんが牧師としての権威をもって見てくれている事を嬉しく感じます。

自分を愛する事ができていない方は、自分の名前を呼ばれても、嬉しいと感じる事ができないかもしれません。
自分の名前を大きな声で発音してみてください。
その時にどんな気持ちがするかという事によって、皆さんが自分を愛する事ができてるかどうかを自覚する事ができるかもしれません。

名前はその様な力を持ったものです。
それは何も不思議な力と言うわけではありませんが、そんな力を持ったものだからこそ、私達は名前と言うものを軽々しく取り扱ってはならないものではないでしょうか。

② 神様の御名の扱い方が、私達の神観を定める
神様の名前は、皆さんにとってどのような響きをもたらす名前でしょうか。
私達がイエス・キリストという名を口にする時、あるいは耳にする時、私達の感情はどの様に動くのでしょうか。

ある人たちにとっては、神様と言う言葉はひどくむなしい響きを持った言葉のようです。
この教会にも何度かホームレスの人たちがお金を求めて来るのですが、「神様があなたを助けてくださるようにお祈りしましょう。」と言うと、「そんなものはいらないからお金をくれ。」と言うんですね。

「神様があなたを愛してくださっていますよ。」
「イエス様が共にいてくださるから寂しくないですよ。」
「主があなたを支え、救い出してくださいますように。」
と言っても、心には何も響かない。
“神様”なんていう抽象的なものじゃなくて、あなたに助けてもらいたいんだというわけです。

まぁ、気持ちはわかりますよね。
私達は物質至上主義(マテリアリズム)の中で生きているわけですから、その人たちにとっては目に見えないしよくわからない“神様”とか“イエス様”が神なのではなく、お金とか人が神なのです。

僕も昔はそう思っていたし、今でもその人たちの気持ちがすごく身近に感じられるときもあります。
でも、この世界の全てを創造したのが神様ですよね。
それを心から信じる私達にとっては、神様が私達と共にいてくださるという事ほど心強いものはありません。

あるいは、同じ“神様”という言葉を使っていても、愛にあふれ、この世界を創造した唯一の神である神様を連想するのと、私達を捨てたり拾ったりするようなたくさんいる神々の中のひとりを連想するのではまったく印象が違ってきます。

箴言には「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」(箴言18:10)と書かれています。
私達は主の名に望みを持つ事ができる。
私達が疲れたとき、悲しいとき、むなしい時、辛いとき、主の名を呼び求めるなら私達は力を受け、神様の愛と助けを確信し、どんな困難でも乗越える力を受けるのです。
しかし、私達が主の御名をみだりに用い、むなしい物と結び付けてしまうなら、私達が主の御名を呼び求めてもむなしさが残るだけです。

自分がするべき事もしないで今おかれている状況だけを呪い、何でもかんでも神様のせいにして、神様の名前を貶めるような事をしてしまってはいないでしょうか?
「どうせ神様なんて何にもしてくれない。」
「イエス様に愛されているだけじゃどうしようもない。」
そんな思いをもって、神様の名前と結び付けてしまってはいないでしょうか?

主の御名をみだりに唱えてはなりません。
私達は軽々しく神様の名前を取り扱うのではなく、大切に心を込めて呼ぶべきなのです。

③ 心を込めて賛美する
そうは言っても、難しい部分があるのも確かですね。
私達がこの世界で信仰を持って生きるうえで問題なのは、この世界の多くの人たちは“主の御名をみだりに唱える”人々だという事です。

ノンクリスチャンの人たちと話していれば、多くの人たちは“神”とか“イエス・キリスト”という言葉にあまり良い印象を持っていないことに気がつきます。
悪い印象でなかったとしても、真の神様として見てはいません。
そりゃそうですね。
そう思っているのだとしたらその人はクリスチャンでしょうから。
問題なのは、私達がその人たちの言葉に影響を受けてしまうという事なのです。

「あなたは愛されているんだよ。」
「誰に愛されてるんですか?」
「イエス様にです。」
「何だ、またイエス様か。イエスなんてわたしにはどうでもいいんです。わたしは人から愛されたいのに。先生は愛してはくれないんですか?」

そういう話の流れになると、僕が伝えたいと思っている神様の愛が何と無力なのだろうと感じてしまう事もあります。
そうすると、祈りも誰に祈っているのかわからなくなってしまうし、神様が僕を助けてくれるという確信もゆらぎます。
そしてこの人に対しては僕が愛を示してあげなければと思い始めたりしますね。
それは、その人が僕を神にしようとする誘惑の言葉なのです。
そこに責任を感じすぎて、僕が神様の愛を示さなければと思ってしまうと、だんだんその重荷に耐え切れなくなってしまいます。
やがて僕も疲れ果て、相手は呆れ果て、神様の栄光はどんどん地に落ちていってしまうのです。

私達はどんなときでも、神様の力を信じていなければなりません。
神様を信じない人たちの言葉が私達に影響するのではなく、私達は決して揺らがず、人々に影響を与えるのでなければなりません。
私達が祈るとき、神様を知らない人たちは私達が祈るその先に神様がいる事を知るのです。
私達がその人たちに愛を示すとき、人々は限界のある私達の愛で満足するのではなく、神様によって愛されている事を実感して満たされるのです。

そのためには、私達が徹底して真の神様の御名を信じ、寄り頼んでいる必要があります。
私達が普段から感じている神様を、私達の周りの人々も感じるものなのです。

私達が祈るとき、誰に向かって祈っているでしょうか?
真の神様に向かって祈る事ができてるでしょうか?
賛美を心から喜んで歌っているでしょうか?
賛美がただの歌になってしまってはいないでしょうか?
メロディや字面を追うだけになってしまってはいないでしょうか?

賛美は礼拝を盛り上げるためのツールではありません。
賛美とは、主の御名を褒め称える歌です。
歌がうまいか下手かなどということはどうでも良い事で、そこで心から主を賛美する事ができているかどうかだけが問題なのです。

聖書にはこのように書かれています。

40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

主の御名は、みなさんにとってその様な力を与えるものとなっているでしょうか?
また、人々にその様な希望を与える力となっているでしょうか?

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして私達の神である主を愛しましょう。
私達の主は、私達が全てをかけるに相応しいお方だからです。

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