出エジプト20:13 『命の価値を低くしないで』 2007/10/07 松田健太郎牧師

出エジプト 20:13
20:13 殺してはならない。

今日の聖書箇所は、今まで2年半の間メッセージをしてきた中でも、一番短い箇所だと思います。まぁ、来週も再来週も短い聖書箇所になりますが・・・。

さて皆さんの中で、自分はこの律法を破っているという方はいらっしゃいますか?
ちなみにここで語られているのは人間を殺してはならないということであって、すべての生き物を殺してはならないという戒めではありません。

生きるために他の生物を殺すという行為も、地上に罪が入ってくるまでは必要ありませんでしたから、どんな生物でも殺す事は罪になるのだという事もできなくはないですが、少なくともここで言われているのは他の生物のことではありません。
だから私達は、ヒンズー教徒のように生きることが求められているわけでも、菜食主義者になりなさいと言われているわけでもありませんね。

自分自身の意思によって、動物性のものを一切口にしないという決断をする事を批判するつもりはまったくありませんが、だから自分の罪は他の人よりも軽いと考えるならば大きな間違いだと言わなければならないでしょう。

パリサイ派に属するユダヤ人たちは、自分自身を義人であると認識していました。
実際に彼らは、一生懸命に律法を守り、実行しようとしていた人たちです。
しかし彼らのことを、イエス様は“偽善者”と呼んだのです。
それは彼らが律法の真意を知らずに、表面的な部分で守ろうとし、自分たちは他の人々よりも正しいと公言していたからですね。
そして他の人々を指差し、「お前たちは汚れている 」と言って見下していたのです。

私達は、十戒の中のひとつですら、満足に守る事ができない。
それが私達の前にある真実であり、現実です。
私達がそれを認めるのでなければ、私達にとって十字架は必要ではないでしょう。
十字架によって罪が赦されなくても、私達が罪を犯さなければ良いという事になります。
しかし聖書は言っています。
「義人はいない。ひとりもいない。」と。
「人を殺した事なんてない」と考えている私達もまた、この律法を守る事ができない罪人のひとりなのです。

① どうして殺してはならないのか
私達は、どうして人を殺してはならないのでしょうか。
当たり前の事のようでいて、実はその理由をあまり考えた事がないのが実際のかもしれません。
私達は漠然と“尊い命”という言葉を使ったりするのですが、命がどうして尊いという事ができるのかはっきりしていなかったりします。
完結に言うなら、私達が尊い存在であるという事ができるのは、私達が神様の似姿をもち、それぞれ目的を持って創られているからです。

私達が偶然の進化によってこの世界に誕生し、遺伝子の確立の問題によって偶然今の自分になっただけなのであれば、私達の命は偶然の命です。
“せっかく生まれてきたのだから”という事くらいはできるかもしれませんが、結局は生まれてこなかったとしても、それ程大きな違いはありません。

両親に望まれて生まれてきたかどうかという事もひとつの問題として取り上げられたりしますが、それは子供であれば誰でもよかったのであって、自分である必要はないのではないかという事になってきてしまいます。
しかし私達は、偶然生まれてきたわけでも、ただ単に誰かの“子供が欲しい”という思いだけから生まれてきたのでもありません。

イザヤ書にこの様な言葉があります。

イザヤ 49:1 島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。
主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。

私達ひとりひとりが、生まれる前から神様によってそれぞれの目的のために召され、母親の胎内にいる時から、神様に名前を呼ばれているのです。
私達は誰もが、神様よって意味を持って、目的を持って生まれてきた存在です。
私達の命は何であっても、神様にとって尊い存在なのです。
だから私達は、他人の命でも、自分の命でも、私達の勝手な思いによって奪ってはならないと言われているのです。

※    ※    ※

今日のメッセージの内容とは直接関係のないお話かもしれませんが、気になるかも知れないので少しだけ補足しておきたいと思います。
私達は時として、神様によって与えられた目的が果たせないまま失われていく命を目にします。
また、聖書の中では、神様の命令によって奪われていく命もある事を私達は知っています。

ひと言補足しておきたいのは、その様にして失われていく命であっても、神様にとって尊いものであるという事に代わりはないという事です。
その命が、目的を果たせないまま病や災害によって失われていく事を神様は悲しまれるでしょう。
また、神様が意思を持って人々の命を奪うのは、よほどの事なのだという事も覚えて置いていただきたいのです。
神様は少し気に食わないからとか、気まぐれから人の命を奪うような事は絶対にしません。
ソドムやゴモラを滅ぼされたときも、イスラエルにカナンの人々を滅ぼすように命じたときも、神様にとっても辛い決断だった事でしょう。

旧約聖書ヨナ記の中に、神様のその様な思いを読み取る事ができます。
近々英語礼拝の方で取り上げられると思いますので、興味のある方は参加してみるのもいいかもしれませんね。② 殺してはならないと言う律法の真意
さて、どうして殺してはならないのかという理由がわかったところで、私達はもう一方深く踏み込んで、この律法の真意を探っていかなければなりません。

イエス様が、この戒めに関して解説されている所がありますので、イエス様の言葉に耳を澄ませてみましょう。

マタイ 5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

実際に殺すのでなければ罪ではないと理解していたユダヤ人たちにとっては、これは驚くべき言葉でした。
皆さんはどうでしょうか?
皆さんの中で、誰かの悪口を言ったり、罵ったりしたことのある方はいらっしゃいますか?
「あの人、ばかじゃないの?」と思わず言ってしまった事はありませんか?
もしそうだとしたら、皆さん、残念でした。
皆さんは、僕と一緒に燃えるゲヘナに投げ込まれるようです。(笑)

私達は、行いとして人を殺すということだけなく、思いにおいて殺す事、そして言葉において人を殺す事があります。
思っただけでも罪、悪口を言っただけでもダメなんて厳しすぎると思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、実際に行動に移したり、相手を罵る言葉を口にする事をどれだけ我慢していたとしても、それは確かな毒として自分自身を傷つけ、その毒はじわじわと周りにも、相手にも伝わっていくのではないでしょうか?
神様は、罪がそのようにして私達を蝕んでいく事を悲しみます。
私達が人を殺すというその行為だけが問題なのではなく、私達の心の内側にある罪そのものが問題なのだという事なのです。

私達が人を殺すという罪の本質は、神様が創造したものの価値を認めないことです。
その存在理由、存在価値を否定し、あるいは低く見積もるとき、私達は相手を実際に傷つけたり殺したりしていなくても、心の中で相手を殺しているのです。

それは自分に対してもいう事ができます。
「私なんてだめだ。」という劣等感は、慰められる必要こそ感じても、それが罪だとはなかなか思わないものです。
しかし、その様な劣等感もまた、神様に創造された自分自身を否定する罪であり、人を殺す事と同じ根っこから来ている罪だと言えるのではないでしょうか。

私達は普段、自分が罪人であるという意識をなかなか持ちません。
罪人という認識はあっても、自分は人を殺した人に比べたらそれ程大きな罪は持っていないだろうと考えているのではないでしょうか。
しかし、私達の中にも人を殺した人と同じ罪が息づいています。
その罪が嫉妬や憎悪、怒り、復讐心と結びついて十分な力を持てば、誰もが実際に人を殺してしまう危険性を持っているのです。

なんだかがっかりするくらい絶望的な話ですね。
でも、ここにグッド・ニュースがあります。
神様が私達に求めておられるのは、私達が罪のない義人である事なのではなく、罪があることを認める事ができる、砕かれた心を持つ罪人だという事です。

義人はいないという事は、すでに聖書に語られている事です。
私達が義人であろうとする事は、聖書を無視して自分の罪を否定する事でしかありません。
私達は、自分もまた罪びとであるという事を心から認めなければなりません。
私達の誰もが、地獄の炎で焼かれなければならないほどの罪を持っている、そんな私達を救うために、神様は自らを犠牲にして、私達をすくってくださったという事です。
私達の罪が赦され、贖われ、清められるために、イエス様の尊い血が流されたこと、そしてその十字架の血によって私達の罪がすでに赦されたという事を受け入れて欲しいのです。

「私は赦されて生きている。赦されなければ生きていけない。」と自覚している人が集まると、人を責める事のない暖かい交わりが生まれます。
教会がそうなっていく事を、神様は願われているのではないでしょうか。

③ 罪を乗越えていくために
さて、私達が罪びとであることを認め、十字架による罪の赦しと贖いを受けたのは確かであっても、その罪は放りっ放しで構わないというわけではありません。
確かに、その罪によって神様から裁かれる事はもうありませんが、罪そのものはまだ私達を傷つけ、苦しめる事ができるからです。

それでは、私達はどうすれば罪の奴隷から解放されるのでしょうか?
どうしたら、人を殺す罪から離れる事ができるのでしょうか。
前にも同じ事をお話ししましたから、すぐに気づく方もおられるでしょう。
その秘訣は、罪を犯さないように努力する事なのではなく、人を愛するという事にあるのです。

私達が心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、力を尽くして主を愛し、自分自身を愛し、隣人を自分自身と同じように愛するとき、私達は少しずつ罪から離れていきます。
罪に焦点をあわせるのではなく、愛に焦点を当てることに秘訣があるのです。

コロサイ人への手紙3章12~14節の言葉をもって、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。

コロサイ 3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

皆さんが、なによりもまず主の愛に満たされますように。

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