出エジプト20:16 『霊とまことによって』 2007/10/28 松田健太郎牧師

出エジプト 20:16
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

古代のイスラエルにとって、裁判はとても身近で、大切なものでした。
ルツ記なんかを読んでいると、当時の裁判は町の門のかたわらで行われていた事がわかりますね。
町中の人々が参加し、裁きの場に立ち合ったわけです。

裁判の場で、重要な役割を果たしていたのが証人です。
証人が偽りの証言をすれば、それはそのまま自分の隣人を陥れる事も意味していました。
裁判が頻繁に行われていたイスラエルの中にあっては、偽証をするという事は絶対にあってはならない最低限の事だったという事ができるでしょう。

イエス様が十字架にかけられたのは、パリサイ派やサドカイ派のユダヤ人や律法学者による偽証があったからでした。
この出来事は、偽証の罪の重さの頂点とも言える出来事ではないでしょうか。

アメリカでの裁判は、最近少しずつ変わってきてはいるようですが、証人の場に立つ人はみんな聖書の上に手を置いて、真実を語る事を誓うのだそうです。
神様の前で、嘘をつく事はできない。
例え明確な信仰を持っていなかったとしても、聖書に手を置いて誓いの言葉を述べれば、少しは嘘をつくことを躊躇するかもしれませんね。

さてこの第九の戒めは、必ずしも裁判の場だけに適用される戒めではありません。
私的な人間関係における、「嘘」や「偽り」を禁じ、人を傷つけることを戒める戒めなのです。

みなさんは、嘘や偽りを口にした事はないでしょうか?
僕のように牧師になるような人間は、たいがい生まれてこの方嘘などというものはついた事なんてないのですが・・・。
はい、それ自体が大嘘ですね。(笑)
今日は、この第九の戒めについて、共に学んで、神様の恵みを受け取っていきたいと思います。

① 真実を語る vs 人に嘘をつく
嘘がどうしていけないのかと言えば、それが真実を曲げる事だからですね。
神様は真実で正しいお方ですから、嘘や偽りを決して好まれません。
嘘つきはどろぼうの始まりと言いますが、嘘が悪い事であるというのは、聖書を持ち出さなくても道徳的に考えるだけで悪い事だという事がわかるはずです。

人を傷つけるような嘘が悪いなんていう事は誰にでもわかる事なのでここでお話しはしませんが、善意から出る嘘(white lie)というものもあるのではないかと言う人もいるだろうと思いますので、そのお話しをしましょう。

ある家族学の本にはこのように書かれているそうです。
「円満な結婚生活は、愛だけでなく、嘘の産物でもある。夫婦というものは、たとえ十分に補いあうような関係であっても、しょせんは別々の人間であり、つねにふたりの気持ちが一致することなどありえない。おたがいに一から十まで正直であろうとすれば、必要もないのに相手を傷つけてしまうことさえあるかもしれない。そのために夫婦間の微妙なバランスが崩れてしまう事もある。建設的で思いやりのある嘘は、よい結婚を作るのである。」
また、「みんなが嘘をつく家庭は仲がよい。」という言葉もあります。

嘘も方便という言葉がありますが、円満に生活するためにはある程度嘘が必要だというわけです。
まぁ、言いたい事がわからなくはありません。
でも、例えそれが相手を誉める言葉であっても、嘘は嘘です。
「あなたは素晴らしい人ですね。」と言われた言葉が嘘だったとわかったら、私達はどの様に感じるでしょうか?
その言葉を言った人の本心は反対なのですから、相手に対して良い気持ちでいられるはずがありません。
それどころか、その人の言葉にはいつも裏があるんじゃないかと感じて、信用する事ができなくなってしまうでしょう。

実は教会という場所も、そのような嘘の場所になってしまい勝ちなのです。
私達はノンクリスチャンの人たちに良い印象を持ってもらおうとし過ぎて、あるいは正しいクリスチャンであろうとする事に夢中になり過ぎて、嘘をついてしまっている事がないでしょうか。

人に対して笑顔で接したり、ポジティブな言葉をかける事はもちろん大切な事ですが、それが嘘なのであれば、張り付いたような笑顔、あからさまなお世辞ですね。
僕はよく「クリスチャンの仮面をかぶらない」という言い方をしますが、表面的には正しいように見えることでも、それが表面だけではむしろ逆効果になってしまうのです。

エペソ人への手紙にはこの様に書かれています。
4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。
私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。

② 人を立て上げる vs 人を貶める
さて、嘘をついてはならないという話をすると、必ず極端な事を考える人がいるものです。
人に対して失礼な態度を取っておいて、「聖書には嘘をついてはならないと書いてあります。私は自分に嘘をつくことができません。」と言うんですね。

これは、小学生のころよく聞いた「バカにバカと言って何が悪い。」という議論です。
AくんがBくんに対して「バカ。」と言って、Bくんが「バカって言うな。」と言うと、「だってバカなんだからしょうがないじゃん。」と言うわけです。

嘘をついてはならないと言うのは、真実を語りなさいという事であって、自分の思った事をずけずけ言いなさいという事とは全く別の事ですね。
箴言という書にこの様に書かれています。

箴言 14:25 真実の証人は魂を救い/欺きの発言をする者は裏切る。(新共同訳)

“バカ”というのはAくんがBくんに対して感じている事であって、真実ではありません。
「兄弟に対してばか者と言う者は人を殺している。」と別のところでもお話ししました。
人の価値を勝手に下げるのは、盗みの罪だというお話もしました。
人を立て上げるのが真実の言葉であって、人を貶めるのは私達の罪によって歪められた偽りの言葉なのです。

肝心なのは、それが表面的な言葉としてではなく、心から言えるのでなければならないという事ですね。
真心から相手を気遣い、敬い、心からの愛を持って接するという事です。
人に注意を与え、戒めなければならないときでも、どの様に伝えるのがもっとも相応しいかを吟味し、的確に、愛をもって接しなければなりません。

難しいですねぇ、偽証をしないという事は。
罪人である私達にとって、嘘をつかないという戒めひとつを完全に守る事すら、とても難しい事なのです。

ヤコブの手紙にこの様な言葉があります。

ヤコブ 3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

神様への賛美と人を呪う言葉が同じ口からでてくるような、矛盾した存在が私達です。
また、パウロはローマ人への手紙の中でこの様に告白しています。

ローマ 7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

神様が私達に求めている、戒めを守った正しい生き方というのは、文字通りに読み取ってそれだけをしていれば良いというようなものではありません。
また、表面的に行いだけ守っていればいいというような簡単な事ではありません。
なぜならそれは、肉によって行えるような事なのではなく、霊によってのみ行う事が可能となるからです。

私達はまず神様の愛を受け、自分の中にある罪を認め、イエス様によってありのままの自分を変えていっていただく必要があるのです。
ところが、実は多くの場合、この部分に一番大きな問題があるのです。

③ 霊とまことによって
昨年一年間かけて、共に創世記を学んできましたが、その学びの最初のころの話を思い出してください。
アダムとエバは、食べてはならないと言われていた善悪の知識の木から実を取って食べました。
その後、自分たちが裸である事に気がついて、ふたりが身を隠したのを覚えているでしょうか。

私達には、ありのままの自分を露にする事に対する、潜在的な羞恥心と恐怖があります。
私達がどこかで感じている、罪によって汚れた私達という存在が、あまりに醜く感じられてしまうからでしょうか。
そんな罪深い自分自身が愛されるはずがない。
自分がそんな汚い存在であるという事を認めたくないという心理が働いているのかもしれません。
だから私達は、自分自身の裸を色んなもので覆ってごまかそうとするわけです。

そこに、私達が無意識のうちについている嘘があります。
それは色んな形で現れてきます。
自分自身を良く見せようとしたり、責任転嫁をしたり、とにかく自分自身が悪いとは、絶対に認めようとしません。

自分の罪を認めたくないという状況で、それでも自分の罪が示されたとき、私達はどのように行動すると思いますか?
私達はそんな時、表面的な行いを正そうとします。
しかしそれは表面的な部分だけの事で、自分のこととして真剣に考えてはいません。
自分自身は影に隠れたままなのです。

しかし、先ほども言いましたが、表面的な部分だけどれだけ正しても、本心が伴わなければそれは嘘です。
表面的な部分だけどれだけがんばったとしても、例えば人を愛する事などできるはずがありません。
結局の所、私達には嘘に嘘を重ねて塗り固める事しかできないのです。

聖書にはこの様に書かれています。

Ⅰヨハネ 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

私達が自分の罪を認めて神様の前に露にするなら、神様は真実で正しい方ですからその罪を赦し、私達をきよめることがおできになります。
しかし私達が嘘の仮面で自分自身を覆い続ける限り、私達が本質的に変わる事はありません。
私達はまず、自分自身を偽る事をやめ、神様に本当の自分をさらけ出さなければならないのです。

自分自身を暗闇に潜めるのではなく、光の中を歩きましょう。
最後にエペソ人への手紙から読んで今日のメッセージを締めくくりたいと思います。

エペソ 5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
5:9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

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