出エジプト20:17 『私たちの手の中に在る祝福』 2007/11/04 松田健太郎牧師

出エジプト 20:17
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

自分はどうしてこんな人間なんだろうと、思った事はないでしょうか?
「あなたは高価で尊い。」と、聖書にはその様に書いてある事は知っているけれど、今のままでは十分でないような気がする。

あの人のような才能が自分にもあったら。
あの人のような経済力が自分にもあったら。
あの人のように人当たりがもっとよかったら。
その様に考え始めると、自分には何もかも足りないような気がしてきます。

聖書には「求めれば与えられる。」と書いてあるのだからとどれだけ祈り求めても、自分が求めているものは何も与えられない。
そうすると、自分は神様に愛されていないのではないだろうかという気持ちになってしまう。
その思いの根底には、私達の内側にある比較する価値観が潜んでいるのではないでしょうか?

隣の家の芝生は青いという諺があります。
実際にはまったく変わりがなかったとしても、隣の家の芝生は、自分の家の芝生よりも青々として素晴らしいような気がしてしまうんですね。
自分がすでに手にしているものには興味を持つことができず、自分が持っていないものだと欲しくなってしまうということがないでしょうか?
特に、身近な人がそれを持っていたりすると、すごく羨ましく感じてしまう。
十戒最後の戒めは、隣人のものを欲しがってはならないという戒めですね。
今日も御言葉を通して、神様のあふれる恵と祝福を受け取っていきましょう。

① 比較の価値観が生み出すこと
ここで戒められている「隣人のものを欲しがる」という思いは、他人のものに目を留めて、自分より良いものを持っていると感じたときに起こる感情です。
でも、“隣の家の芝生は青い”という言葉が表しているように、私達が感じている事がいつでも事実に基づいているとは限りません。
全体を見渡してみれば大して変わらなくても、隣の庭のきれいな部分だけが目についてしまい、自分の庭は汚い部分ばかりが目に入ってしまうという事が起こってしまうのです。

“自分の家の芝生の方が青い”と認識していればよいのかと言えば、もちろんそういうわけではありません。
それは結局相手を見下すという、鼻持ちならない高ぶりを引き起こしてしまいます。
どちらにしてもそれは、余計な憎しみや争いを生み出してしまいますね。

昨年は創世記の学びの中でも、その様なケースをたくさん見てきました。
カインのアベルに対する妬みは憎しみに変わり、人類最初の殺人を起こすにいたりました。
アブラハムの妻サラとハガルの確執は、現代に至ってもイスラエルとアラブ民族の争いとして残っています。
ヤコブとエサウの間にも長子の権利を巡った争いが起こりましたし、ヤコブの妻たちの間でも争いがおこりました。
そしてその憎しみは、ヤコブの子供たちへも引き継がれていきました。
これは全て、私達の中にある比較する価値観が引き起こしている問題なのです。

私達が進化論的世界観によって全てを測ろうとするなら、比較をする事は必要不可欠なことなのかもしれません。
より劣るものは排除されていくのですから、比較して、自分が優れていなければ生き残る事はできません。
もし自分が劣っていることに気がつかされるなら、そこにはもう絶望感しか残らないのではないでしょうか。

② 私達はオンリーワン
私達の社会には確かに、比較と競争によって発展するものがあります。
走る速さを競い合ったり、会社の業績を競う競争の原理が、私達を進歩させてきました。
私達の能力や技術を競うことは、方法さえ間違わなければ自分自身を伸ばす励みとなる事でしょう。
また自分の能力や技術を磨いて周りから遅れを取らないという事も、生きていくうえで大切なことです。
ですから比較や競争というものを一切否定するつもりはまったくありません。
要は、何でもかんでも比較して競争していればよくなるものではないのだという事なのです。

ヨハネの福音書の一番最後のところで、復活したイエス様とペテロが再会する折に、この様なエピソードがあります。
イエス様はペテロに、「私の羊を飼いなさい」と牧師としての道を示された後でこの様に言いました。

ヨハネ 21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

イエス様は、ペテロが牧師として生きる道が厳しく激しい道のりで、最後には殉教の死を遂げる事になると告げたのです。
その時ペテロの目には、イエス様の隣にいるもう一人の弟子、ヨハネの事が気になってこの様に訊ねたのです。

21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

イエス様は、ヨハネが私の再臨の時まで生きると言ったのではありません。
でももし私がそれを望むとしても、それがあなたに何の関係があるのかと言われたのです。
「あなたにはあなたの人生があります。私を信じて、あなた自身の人生を生きなさい。」
それが、イエス様の答えだったのです。

私達は、全能の神様によって、ひとりひとりがそれぞれの目的の元に創造されました。
私達の能力の優劣や、私達の基準の上で役に立っているかどうかということは、実はそれ程大きな問題ではありません。
神様の前には、私達の価値に優劣なんてないのです。
私達、ひとりひとりがスペシャルです。

少し別の話もしておきましょう・・・。
僕が昔働いていたある会社では、営業成績を競わせていました。
トップの業績を取った者が評価され、表彰や昇給を受けるわけですね。
それがある時から、色んな分野に分ける評価システムに変わりました。
そして、自分の中でこれだけは負けないという分野をひとつ作りなさいと言われました。
会社の中でのナンバーワンになれというのではなく、オンリーワンを目指せという教育に変わったのです。

これは、会社のあり方としてはおもしろい試みであり、モチベーションを上げるためにも素晴らしい方法だなぁと思います。
でも、この方法をそのまま自分自身に当てはめてはいけません。
実はこの辺りがとても間違えやすい所なのです。

間違えてはいけません。
私達は神様の創造された者として“オンリーワンを目指す”のではありません。
初めから、オンリーワンの存在として創られたのです。
「自分にはこういう事ができる」とか、「こんな才能がある」、「こんな賜物が与えられている。」なんて探さなくても良いんですよ。
自分の特別な部分を探し始めると、私達はそこでまた比較を始めてしまうからです。

聖書の中に、教師の賜物とか、預言の賜物というような言葉として賜物が述べられている事は知っています。
しばらく結婚できないで独身でいると、「あなたには独身の賜物がありますね。」なんて言われるんです。(笑)
でも、あまり自分の賜物、能力に焦点を当て過ぎてしまうと、よりすぐれた才能をもった人とであった途端に落ち込んでしまうのです。
神様から与えられた賜物って、そういうものではないでしょう?

できる事や特別な才能によって私達は特別になるのではなく、そのままの私達が神様にとって特別なのであり、ひとりしかいない大切な人なのです。
松田健太郎が、松田健太郎として創造され、松田健太郎として生きているという事。
それ以上に大きな価値はなく、それ以上に重要な才能はありません。

私達がそれを心から認識する事ができた時、私達が隣人のものを羨ましく思って、妬みを持つような理由は何もないのです。
隣の家の芝生が青かろうが、赤かろうが、それは私達には関係がない。
それは隣の家の芝生なのであって、私の家の芝生ではないのですから。

③ 私だけの祝福
最後に、僕自身の体験をお話しして今日のメッセージを終わりたいと思います。
小、中、高校と僕の成績はひどいものでした。
勉強も下から数えた方が早かったですし、スポーツもまるでダメだったんですね。
不器用なので、字も、絵も汚いし、友達も少ない。
学校では、何をやらせてもうまくできないという子供時代を僕は過ごしました。
子供のころから色々な夢を持ってきましたが、どの夢も実現する事はありませんでした。
就職しても、ひとつの仕事場で2年くらいしかもちませんでした。
比較の価値観のもとで見る僕の姿は、まったく良いところなしの負け組みです。

そんなわけで、昔は劣等感もたくさんありました。
僕が人より優れていると思えるような所は限りなく少なく、周りの人たちはできる人が多かったですから、非常に厳しい条件での比較だったと思います。

今でも、比較しようと思えば劣等感を抱くような資質はいくらでもあるんですよ。
同世代の友達と年収を比べたら大変な事になりますし、職場の知名度を比べても勝つ事はできません。
牧師としても、僕なんかより素晴らしい説教をする牧師はいくらでもいますし、ここより大きくて設備も整った教会堂を持つ教会はたくさんあります。
もっとうまくカウンセリングをして、すばらしく霊的な礼拝を持つことができる先生は日本にだってたくさんいますね。

しかしイエス様は、この様に言うのです。
「他の人々がどんな仕事をしていようと、どれだけの収入を得て、どんな生活をしていいようとあなたに何の関係があるだろうか。
他の牧師がどのような賜物を持ち、どの様な教会で、どの様な働きをしようと、あなたに何の関係があるだろうか。
あなたには、あなたにしか歩く事のできない道を備えている。
だから横を見るのではなく、私を見なさい。
人と比べないで、私についてきなさい。」

僕は今、この西葛西国際キリスト教会で、僕にしかできない牧師のありかたとして牧会しています。
西葛西国際キリスト教会は、日本の多くの教会の企画からは外れている部分もあるかもしれませんが、この教会にしかない形で成長し続けています。
それは私達が隣をうかがいながら作り出した牧会スタイル、教会の姿ではなく、ありのままの私達の成長だからです。

私達には、隣人のものを欲しがるような必要は何もありません。
私達の手にはすでに、私達にしか与えられていない最上の祝福が与えられているではありませんか。
私達の手にあるものは、自分の思いの中では小さなものかもしれません。
あるいは、人の目にもつまらないと見られるようなものかもしれません。
しかし、そこにこそ神様の最大の祝福があります。
それは私達が作り出したものではなく、神様によって与えられた宝物だからです。

Iコリント 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

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