出エジプト20:1-17 『律法・自由・福音』 2007/11/18 松田健太郎牧師

出エジプト 20:1~17
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

一週間開いてしまいましたが、私達は3ヶ月近くの間、十戒について学んできました。
みなさん、自分自身に照らし合わせ見ていかがでしたか?
みなさんは、この律法のひとつひとつを守ることができていたでしょうか?
そして、今クリスチャンとして生きる生活の中で、すべての律法を守ることができているでしょうか?

僕がひとつ、皆さんの前で告白しなければならないのは、牧師である僕自身が、十戒を全うする事はできていないという事です。
そしてこれからも僕は、何度もこの足を踏み外してしまう事でしょう。

「そんな、自分でもできないような事を私達に言わないでください。」と言われれば、僕には返す言葉もありません。(笑)
でも、律法というのは僕が皆さんに言いたかったことなのではなくて、唯一私達に言う資格を持っている方、神様が私達に与えたものなんですね。

この十戒の学びをする前にお話しした事でもありますが、私達は誰一人として、この律法を完全に守ることができません。
自然のままの私達、罪の影響を受けた私達にとっては、これに逆らうのが当たり前の事だからです。

じゃあ、私達にできもしないことを、神様はどうして私達に命じたりしたのでしょうか?
神様がイジワルだからでしょうか?
それとも、そのこと自体に何か大きな意味があるのでしょうか?

律法と言うのは本当にわかりにくくて、誤解を受けてしまいやすいものですから、私達はもうしばらく律法について共に学んでいきたいと思います。

① 律法主義
まず第一に、僕がこの十戒の学びの中で思わされたのは、世界中全ての人々が自然な形で十戒を守ることができたら、それはどんなに素晴らしい世界になるだろうという事でした。

すべての人々が、ひとつの神様だけを崇める世界。
すべての人々が、自分勝手なイメージではなく、真の神様を知る世界。
すべての人々が、愛と喜びをもって主の名前を呼ぶ世界。
すべての人々が、休むべきときに休み、努力と根性によってではなくて、主の力によって歩む事ができる世界。
すべての人々が、自分の生きてきた環境に喜び、傷つけあうことなく、誠実な愛の絆で結ばれた世界。
すべての人々が、全てのものが神様から与えられていると自覚する世界。
すべての人々が、自分をごまかさず、偽らず、そして他人と比較する必要のない世界。
天国と言うのは、この様な世界の事を言うのではないでしょうか?

私達は、神様が最初に創造されたままに生きることができたとしたら、私達はこの様な生き方をしたはずです。
言ってみればこれは、私達が本来あるべき姿を表しているのだという事ができるかもしれません。

しかし、私達はここで慌ててはいけません。
「私達が律法の通りに生きれば、世界は素晴らしい世界になる。」
短絡的にその様に考えて、私達が律法を実行することにばかり一生懸命になってしまうと、思わぬ悲劇を招いてしまう事になります。

OHPで出している図を見てみてください。
これは、ある中学校の校則をマンガにしたものですね。
ここに書いてあるのは、すべて本当にあった校則です。
ひとつひとつ見ていくとおもしろいと言うか、すごいですね・・・。
服装から、手の上げ方、おじぎの角度まで決められ、指示されています。

校則は、学生たちにひどい学生生活を送らせるために作られたのではありません。
学生が道を踏み外して非行に走らないため、学生はこの様にあるべきだという姿を実現したものなのでしょう。
でもこの様な校則を押し付けられて、この学校の生徒たちは清く正しい学生生活を送る事ができたのでしょうか?
僕が学生の頃、この図ほどではありませんでしたが、どの学校も校則が厳しくなって厳しく取り締まられていたのを思い出します。
でも、これによってみんなが非行に走らず素晴らしい学生生活を送れたかというと、そうでもなかったですね。(笑)

校則が厳しくなるほど、反発する力も強くなります。
また、例え表向きは校則を守っていても、見えないところでとんでもない悪事を働きます。
あるいは、先生うけも悪くない子供たちが、恐ろしい犯罪を犯す事をニュースで聞きます。
表面的な素行を正すだけでは、根本的な解決にはならないという事だと思います。

私達は律法を校則のようにしてしまってはいないでしょうか。
全ての人が律法を守れば世界は素晴らしくなる、と考えるあまり。
あるいは、クリスチャンになった結果の変化に焦点が行ってしまい過ぎるために、私達はその成果を急ぎすぎてはいないでしょうか。

しかし律法を守りなさいと言われれば言われるほど、私達の中からは逆らいたい想いが強くなっていきます。
また、叱られたり批判を受けないために、表面的な体裁だけを整えようとし始めます。
そして体裁だけを整えれば整えるほど、私達は心から悔い改める事ができなくなり、罪はどんどん力を増していく事になるのです。

律法は、学校の校則とは違います。
『人はうわべを見るが、主は心を見る。』と聖書に書かれていますね。
表面的な行いとして律法が守られることを、神様は望んではいないのです。
すべての律法がどれだけ表面的に守られたとしても、世界は本当に素晴らしい世界になどなりません。
イエス様は表面的な部分だけで律法を守り、他の人にもその様な生き方を強要する律法学者やパリサイ派のユダヤ人たちを偽善者と呼び、激しく怒りました。

マタイ 23:27 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、23:28 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

キリスト教会ではこの様な人々を称して、“律法主義者”という呼び方をしています。
表面的に律法を守ろうと強要する律法主義は、教会の中にも簡単に蔓延してしまいますね。
しかし成果を焦ってはいけません。
神様が求めているのは私達が内側から完全に変えられて主に立ち返るということであって、表面を取り繕う事ではないのだからです。

② 自由主義
さて私達の中では、律法主義とは正反対の方向で誤解が起こってしまうこともあります。
それは、聖書の中にある赦しの部分にフォーカスが当てられすぎてしまい、赦されているのだから何をやっても良いんだという考え方です。
これに当てはまる適切な用語が見つからないのですが、便宜上“自由主義”と名づけておきましょうか。
「イエス様の十字架によって罪はすべて赦されたのだから、私達はもう律法にしばられていない。何をしても自由なのだ。」というわけです。
しかし、イエス様はこの様にも言っている事を忘れてはなりません。

マタイ 5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

イエス様の十字架で罪が赦されたという事は、私達が何をしても良いという事とは違います。
私達には確かに自由が与えられたのですが、その自由は律法からの自由なのではなく、罪からの自由です。
僕自身もそれを取り違えてしまったために、クリスチャンになる前よりも、なってからの方が素行が悪くなってしまったというお話しもいつだったかした事がありますね。
どうか皆さんは、間違った自由主義に陥る事がありませんように。

③ 福音主義
これまでに見てきたように、私達にとっても、律法はとても大切なものです。
律法を否定したり、排除する事は許されない。
しかし、表面的に守っているようにふるまうのではなお悪い。
それでいて、私達には誰も完全に実行する事ができないのが律法でもあります。
「じゃあ、どうしたらいいんですか!?」「一体私達にどうしろというのですか?」と思われるならそれも当然の事でしょう。

私達がどうするべきかという問いに対する答えはひとつ。
私達が罪に背を向け、神様によって内側から変えられていくという事だけです。
私達が正しくあり続けること、自分自身を聖く保ち続ける事が求められているのではありません。
私達が神様の御座に近づき、その愛に触れれば触れるほど、私達の心は罪から離れ、律法が表している形に近づいていくのです。

私達が持っている聖書には、十の戒めは「~してはならない。」という厳しい禁止の言葉として書かれています。
しかしこの言葉は、これとは別の訳し方をする事ができるそうです。
それを日本語に当てはめるなら「~しないはずだ。」とか、「~しないだろう。」と訳す事ができる言葉が使われています。
ですから十戒の戒めは、このようにも読み取る事ができるのです。
「あなたは、私の他に神々をもたないはずだ。」
「あなたは、自分のために偶像など作らないだろう。」
「あなたは、あなたの神である主の御名をみだりにとなえたりしないはずだ。」

私達は罪の影響を受けているので、律法を完全に行う事ができません。
しかし私達が罪から背を向けて主に留まるなら、留まり続けるなら、主の恵が、主の愛が私達の内に注がれて私達の心を満たし、やがて私達を内側から変えていくのです。

イエス様はぶどうの木のたとえの中でこの様に言いました。

ヨハネ 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

また、今年いち番最初にしたメッセージで、この様に話をしたのを覚えているでしょうか。

詩篇 1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

私達が主に留まる事、これが私達に求められている事です。
これが私達の教会のテーマであり、クリスチャンとして求められている最大の事なのです。
私達は、日々主の御言葉に触れ、祈りを通して神様の御座に近づいているでしょうか?
神様との静かなひと時をもつ事ができているでしょうか?

私達が神様を第一としているつもりでいても、私達の中に神様を軽んじたり、他の人々を羨むような思いが出てくるなら、つまり律法から離れる方向に進み始めるなら、私達は道を踏み外しているのかもしれません。
私達はその度に悔い改め、進路変更をする必要があります。
それは、神様から目が反れてしまっている私達の心を、神様に向けなおすという事ですね。

私達の歩みは遅く、なかなか変化に実感が伴わないので焦る思いも出てくるでしょうが、焦らないでください。
私達が完全であることではなく、私達が正しい方向に向かっていることこそが、大切な事なのですから。

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