出エジプト32:1-8,19,30-32 『私の名を消し去って下さい』 2007/12/09 松田健太郎牧師

出エジプト記 32:1~8、19、30~32
32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
32:2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。
32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」
32:6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
32:7 主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。
32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」

32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。

32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
32:31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

聖書の価値観を私達が学んでいく中で、私たちにとってなかなか認めにくいもののひとつとして、“罪”というものがあります。
自分自身が罪人であるということもなかなか認め辛い事です。
あるいは「義人はいない、ひとりもいない。」なんて言われても、みんなが罪人なのであれば、誰も悪くないと言う事になるんじゃないかなどと言いたくなってくるわけです。

例えば、アドルフ・ヒトラーのような奴が罪人であると言うのはわかりやすいですが、マザー・テレサのような人は、限りなく罪人から離れている、神様に近いような人なのではないでしょうか?
あるいは、私達は生きていく中で色々な事を学んで罪人になっていくのであって、生まれたばかりの子供にも罪があるというのはムリがあるのではないでしょうか?
いいえ、神様の正義の前では、私達は誰もが罪人であるという事こそ、聖書が私たちに教えている事なのです。

少し想像してみてください。
赤ん坊にしつけをする事を一切止めて、生きるのに必要なものだけを与え続けたら、どの様な人に成長していくでしょうか?
あるいは、子供が欲しがるものだけを、欲しがる限り与え続けていったらどんな大人になるでしょうか?
案外そういう人が身近にいるかもしれませんね。
「ウチの主人がそうだわ。」とか・・・。(笑)

いずれにしても、そんな育て方をしてしまえば、恐ろしくわがままで、とんでもなく自己中心的な人間が生まれるのだという事が容易く想像できるのではないでしょうか?
人に罪がないのなら、放っておいても私達はまっとうな人として育っていくでしょう。
しかしそうならないのは、私達に生まれもって罪があるという何よりの証拠なのではないでしょうか。

① イスラエルの罪
さて、指導者から離れたイスラエルの人々も、まさに放って置かれた赤ん坊のような状態だったかもしれません。
モーセが十戒を受け取るためにシナイ山に登ってしばらく経つと、イスラエルの人々は不安になってきたのです。
「モーセの身に何があったのではないか?」
指導者として彼らをここまで導いてきたモーセを失うという事は、彼らにとって大変な状況だったでしょう。
へたをすれば路頭に迷ってしまう。
何よりも、彼らを導いてきた神様の声を聞く事ができるのは、モーセだけだったのですから。

聖書には40日40夜、モーセはシナイ山にいたと書かれています。
これが文字通りなのかどうかはわかりませんが、とにかく一ヶ月もの月日が経ってみると、イスラエルの人々は、もうモーセは帰らないだろうと判断してしまいました。
そこでモーセの兄のアロンの所に行き、我々のための新しい神を作れと要求したのです。
つまりそこに偶像崇拝が起こったということです。

偶像として彼らが作り上げたのは、金の子牛でした。
金の子牛は、エジプトでも崇拝されていた神の形であり、他の地域でも見ることができたポピュラーな偶像です。
つまり彼らは、真の神様を知っていながら他の神々を羨み、これまでの指導者を失ってしまえば次の神様に従えばいいという、そんな思いしかなかったという事ですね。

十戒を破ったかどうかという事なら、この時点では彼らは十戒の内容を知らなかったのだから仕方がないと言えるかもしれませんが、これはそれだけの事ではありません。
不誠実なイスラエルの前に、神様の義が怒りとして燃え上がりました。
燃え上がる神様の怒りを前にしておののきつつも、モーセは誠意を尽くし、イスラエルのために執り成すしかありませんでした。

「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。
また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」(出エジプト32:11~13)

『すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。』と14節には書かれています。
真実な方である神様は、愛と恵みと憐れみの神様でもあります。
私達の言葉によって気持ちがコロコロ変わるというのではなく、私達の心からの悔い改めと執り成しを、神様は誠意を持って受け取ってくださるのです。

② 罪人への怒り
しかし、モーセが十戒を手にシナイ山から降りてきたとき、神様の怒りがどうしてそれ程大きかったのかと言う事を、モーセは身をもって知ることになります。
そこで行われている、偶像崇拝という神様への侮辱と冒涜の行為、そして乱痴気騒ぎの酷さに、柔和な人として知られるモーセの怒りが爆発しました。
手にしていた十戒の石版を地面に叩きつけて砕き、神様との契約はこれでお終いだと言う事をあらわにしたのです。

話として聞くことと、現実を目の当たりにする事の間には大きな差があります。
神様が怒っているのを聞いて、モーセはイスラエルを執り成しました。
しかし実際のイスラエルの堕落ぶりを見ると、神様の怒りがすべて理解できてしまったのです。
「これでは、滅ぼされてしまっても何も文句が言えない。」
それほどまでに、イスラエルはひどい状態だったのです。

偶像の子牛を焼かせて、砕き、それを水の上に撒き散らしてその水をイスラエルの人々に飲ませたり、首謀者の3000人を殺させるなどしましたが、それだけで済まされるような事だとも思えませんでした。
イスラエルの罪の根は限りなく深いと感じ、モーセはひとつの決断をしました。
それはもう一度シナイ山に登り、もう一度神様の前に悔い改める事でした。

32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」

その時モーセの心にあったのは、自分自身を犠牲としてこの罪を贖ってでも、イスラエルの人々を守ろうという決意でした。
まさに、命をかけてこの民を愛そうという決意を、モーセはしていたのです。

③ とりなしと贖い
モーセはもう一度神様の御前にでて、心からの執り成しをました。
今度は、その罪の大きさを十分に理解したうえでのとりなしです。

「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:31~32)

皆さんは祈っている中で、感極まって言葉を失い、なんと祈って言いかわからなくなってしまうような経験があるでしょうか?
問題があまりにも大きく、厳しい状況に立たされているとき、これから祈ろうとする事に大きな覚悟が要求されるような時、私達は神様の前で言葉を失ってしまいます。
命をかけた祈り、命をかけたとりなし。
モーセが搾り出した心からの祈りは、「イスラエルの民が赦されるためなら、代わりに私の魂を滅ぼしてください。私の名前を命の書から消し去ってください。」というものでした。

彼の生涯を見れば、この様な祈りが口先だけのものではなかった事がわかるでしょう。
しかし、この様な命をかけた祈りにも関わらず、その祈りはそのままの形で聞かれる事はありませんでした。
罪を犯したものがその罪に従って裁かれるというのが、その時の神様の返事だったのです。
そしてモーセの魂はそこで取り去られる事なく、彼は結局約束の地を見る事はできませんでしたが、彼の魂は天の御国へと引き上げられたのです。

その一方で私達は、私達のためにとりなしの祈りをし、その命を捨て、地獄の苦しみを私たちのために負ってくださった方をただひとりだけ知っています。
それが主イエス・キリストです。
イエス様は、十字架の上でこの様に叫ばれました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

自らが十字架にかけられ、両腕と足を釘で打ち付けられた痛みと、呼吸困難の苦しみの中で、自分をこの様な苦しみに合わせた人々のために、そしてそれを引き起こした私たちひとりひとりのために、イエス様はとりなして祈ったのです。

それは、イザヤ書に預言されている通りです。

イザヤ 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

自分の命を引き換えに人々の魂を救うことができるのは、イエス様おひとりです。
モーセには、イスラエルの人々の罪を贖う事はできませんでした。
しかし神様は、その誠実な祈りを聞き、イエス・キリストという救い主を送り、言わば自らを犠牲として私たちのための贖いになって下さったのです。

この救い主を送ってくださった事をお祝いするのが、クリスマスの一番の目的です。
私達はこの喜びに感謝しつつ、このクリスマスの時を楽しみましょう。
来週はこの教会のクリスマス礼拝となりますが、皆さんが素晴らしい時間を過ごす事ができますようにお祈りします。

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