出エジプト34:29-35 『あなたの顔は輝いていますか?』 2007/12/30 松田健太郎牧師

出エジプト記 34:29~35
34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。
34:30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。
34:31 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。
34:32 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。
34:33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。
34:34 モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。
34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

皆さんは、朝の電車に乗る機会がありますか?
学校や仕事がある方は毎日のように乗って、うんざりしているかもしれません。
特に東西線のラッシュアワーは本当に大変ですね。
住む場所を探す時、あえて東西線の沿線を避ける人も少なくないようです。

僕も会社勤めしていた頃には本当に苦しめられていました。
今は、朝のラッシュアワーの時に電車に乗る機会はあまりなくなりました。
でも、夜は終電前に電車を使う機会も少なくないので、それはそれでラッシュアワーなみに大変ですが・・・。

さて、ラッシュアワーの時にはお互いの顔を見ることもできませんが、少し時間をずらして電車に乗ると、朝の電車の中の様子をよく伺う事ができます。
たまに本を読む気分にならないときには、そうやって人間観察をする事もあるんですね。
あまりジッと見ると怒られますから、何気なく人の顔をチラチラ見たりしています。
まぁ、失礼な事ではあるのですが、そうやって電車に乗っている人たちの顔を見ていると、本当に暗い顔の方が多いんですね。
特に、月曜日の朝はみんなそれなりに暗い顔をしているのではないでしょうか。

地方から出てきた友達に言わせると、電車に乗っている東京の人たちの顔は別に月曜日でなくてもいつでも暗い、と言うか表情が乏しく、無機質な感じがするのだそうです。
もしかしたら地方の人がもっている東京の人たちにたいするイメージもあるかもしれませんが、何となくわからなくもありません。
私たちは普段どんな顔をしているんでしょうね。

ところで、皆さんはおいしいものを食べたときにはどんな顔になりますか?
おいしいものを食べたのでなくても、何かすごく良い事があったら、私たちの表情はパッと輝くのではないでしょうか。

① あなたの顔は輝いていますか?
先ほど読んでいただいた聖書箇所を読むと、

34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。

と書かれています。
神様と話したモーセの顔は、パッと輝いたのです。
私たちは、おいしいものを食べたり、ちょっとかわいい女の子を目にしただけでも(笑)こんなに表情が明るくなるのですから、モーセの顔はどれほど明るくなった事でしょう。

私達の表情はどうでしょうか?
神様との時間を過ごして、その表情はパッと明るくなっているでしょうか?
礼拝を終えて家に帰る時のみなさんの表情は、おいしいものを食べた時くらいには明るい顔になっているでしょうか。
月曜日の朝のような顔でないといいのですが・・・。

まぁそんなことを言ってみましたが、実際のところここに書かれているのは、モーセの表情が喜びに満ちて明るくなったというのとは違いますね。
この後の箇所を見ると、民はその光をおそれて近づけなかったと書いてあるからです。

確かに、あまりにも誰かがニコニコして目を輝かせていたら、「ちょっと恐いなぁ」という感じがするかもしれません。
でも、いくらモーセがすっごくニコニコしていても、ちょっと気持ちが悪いということがあったり、引いちゃうなんて事はあっても恐れを感じるというのとは違いますね。

このとき、モーセの顔は文字通り輝きを帯びていたのです。
モーセの顔を覆っていたのは、主の栄光の輝きです。
以前、契約の箱の話をしたことを覚えているでしょうか?
十戒が収められた契約の箱の上には2つのセラフィム(天使)の像がおかれ、その間に神様はいると約束しました。
そして、その約束を証明するように、契約の箱が収められていた神殿の中心にある部屋の中は、いつでも不思議な輝きにあふれていました。
あの契約の箱が輝きで覆われていたように、神様の栄光を真正面から受けたモーセの顔もまた、同じ輝きで光っていたのです。
それは、神様がモーセと、顔と顔を合わせて語り合ったという言葉を証明するような出来事だったでしょう。
モーセの顔の輝きを見るとき、人々は神様がモーセと共にいるのだという事を知る事ができたのです。

② 輝きを覆い隠す
さて、先ほども少しお話しましたが、モーセの顔の輝きを見たイスラエルの人々は、恐れを抱き、モーセに近づく事ができなかったと聖書には書かれています。
どうでしょう。
皆さんはここに、少し違和感を感じませんか?
神様から来た霊的な輝きを、人々はどうして恐れなければならなかったのでしょうか。

神様に与えられた輝きなら、もっと温かい光のようなものであったり、何だかありがたい聖なる輝きというようなものであって、恐れるというのはおかしいような気がしませんか?
しかし、人々は確かに、モーセの輝きを見て恐れを感じ、近づく事ができませんでした。
それは、モーセによって表されたのが、神様の律法的な一面だったからです。

モーセは人類に律法をもたらした事で知られる人物です。
だからこそこの時代、モーセを通して表される神様の本質は、厳しい律法のイメージを反映して近づきがたいほどに恐れを感じさせるものだったのです。

十戒は契約の箱に入れられ、贖いのふたによって覆いがされなければならなかったように、モーセの顔の輝きに現れた神様の栄光の輝きには、覆いがされなければなりませんでした。
だからモーセは、神様の御前ではいっぱいにその輝きを受け、そのあと人前に出るときには、必ず顔に覆いをかけたのです。
しかし、神様の輝きがそのような恐ろしさを表す時代は、新約聖書の時代に終わりを遂げました。

コリント人への手紙第2で、使徒パウロが、モーセの顔の輝きの事に触れてこの様に解説しています。

IIコリント 3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。
3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。
3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。
3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。

イエス様が十字架にかかった時、律法によって神様の一面だけが表されていた時代は終わりました。
律法は、赦しと贖いによって完了したのです。
そして新約の時代、今も続いているこの時代には、新たな輝きが示されています。
その輝きは、律法を表す古い輝きとは違い、永遠の希望にあふれた輝きです。
その輝きは、主の愛と恵みにあふれ、私たちに赦しを与え、希望を与え、闇に打ち勝ち、どん底から引き上げてくださる光です。
それはイエス様の十字架によって完成された福音の輝きであり、私達の内にいてくださる聖霊の輝きなのです。

それはもう、覆いで隠される必要がない、完成された主の栄光、福音の栄光です。
私達の魂は、そのような主の栄光の光に照らされています。
皆さんの内に、そのような輝きがある事を実感されているでしょうか?

③ 顔の覆いを外す
しかし残念な事に、すべての人がその輝きを受けているわけではありません。
いや、それはすべての人に与えられているのに、すべての人が受け取っているのではないのです。

IIコリント 3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

モーセは人々に恐れを感じさせる聖なる輝きを隠すために覆いをしましたが、ユダヤ人たちは人々の前では覆いをはずし、神様の御前で覆いをかぶっているのだと言うんですね。
だからどれだけ聖書を読んでいてもそこにある真理が隠されてしまっていて、主の栄光を受け取る事ができないのです。

その覆いは、キリストによって取り除かれるものです。
私たちの心を覆っているものは、イエス様によって取り除かれているでしょうか?
もしまだ覆いによって隠されていると感じるなら、私達は心をイエス様に向けなければならないのだとパウロは語っています。

3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

私達の心がイエス様に向かう時、私達の心の覆いは取り除かれて、御霊によって主の光を心に受け取る事ができるのです。
そしてその覆いがとりのけられるなら、私達は鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくのです。

「あなたがたは世の光です。」と言ったイエス様の言葉を覚えているでしょうか?
私達は自分自身が光となってこの世界を照らすのではありません。
心の内で輝いてくださる神様の光を、覆いで覆われることなく、余すことなくいっぱいに受けてその光の反映によってこの世を照らす光となるのです。

私達は、モーセのように人前でも覆いをする必要はありません。
私たちを輝かせてくださる主の輝きによってこの世を照らす時、私達は主の光でこの世の闇を払う事ができるはずです。

みなさんの顔は、いま主の栄光の反射によって輝いているでしょうか?
皆さんが、御霊に働きによって、日々キリストの似姿へと変えられていきますように、心から願います。

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