マタイ16:13-19 『キリストの体として生きる』 2008/02/10 松田健太郎牧師

マタイ16:13~19
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

神学校の時にお世話になったある先生から、こんなお話を聞きました。
先生がまだ神学生だった頃、インターンとしてある教会に派遣されたのだそうです。
初めてその教会に向かう途中、場所がわからなくなり、近くにあった八百屋さんに聞いて見ました。
「すみませんが、このあたりに教会がありませんか。」
「この町には教会はないよ。アメリカさんが住んでいる家はあるけど、あれは教会じゃないねえ。」
実は、このアメリカさんが住んでいる家こそ、先生が探していた教会だったのです。

さて数年後、その町にきれいで、モダンな造りの教会堂が姿を現しました。
その町の人々は口をそろえて「この町に教会ができた。」「たいした教会だ。立派なもんだ。」と言いました。
しかし、その教会堂というのは、ホテルに付属する結婚式会場だったのです。
多くの方々にとっての教会の認識と言うのは、この様なものなのかもしれませんね。

教会堂とか礼拝堂という呼び方をしますが、“教会”というのは建物の事を意味していません。
では、教会とは一体何なのでしょうか?
教会とは、具体的に何を指しているのでしょうか?
今日は、教会とは何かという事を共に学んでいきたいと思います。

① 個人・集まり・公同の教会
まず第一に、私たちひとりひとりが教会であると言う事ができるでしょう。

Iコリント 3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
3:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

旧約聖書の時代には、神殿はイスラエルにありました。
そして新約時代には、神殿は教会として、キリストを信じ、キリストに従うすべての者の中に打ち建てられています。
聖霊が臨み、聖霊がきよめ、聖霊が住んでおられるところ、それが神殿です。
神殿とは、神の栄光が満ち溢れる、礼拝と祈りの宮です。
その様な意味において、私たちクリスチャンひとりひとりが、聖霊が内在する神殿、教会であると言う事ができるのです。

第二に、クリスチャンが集まるところが教会です。
イエス様はこの様に言いました。

マタイ 18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

教団によっては、「ある人数を満たさない群れは伝道所であって教会ではない」と言うような言い方をするそうですが、それはその教団の中で決められた呼び方の問題であって、聖書的に言う教会とは関係がありません。
クリスチャンがふたりでも三人でも集まって祈る時、そこに聖霊は臨在します。
その様な意味においては、そこがカラオケボックスであっても、どこかの公園であっても、クリスチャンが集まる場所が教会となるのです。

第三に、普遍的な公同の教会があります。
私達の意識はついつい自分が関わっている教会の範囲で止まってしまったりするのですが、私達は西葛西国際キリスト教会という教会にだけ属しているのではありません。
それと同時に私達は、歴史も地理も民族をも越えた全てのクリスチャンを総括する普遍的な教会の一員なのです。
そこでは黒人も白人もアジア人の差もなく、老若男女も教団教派の隔てもなく、私たち全てのクリスチャンはキリストにあってひとつの教会を形成しています。
天国で私達はひとつとなり、神学や伝統に関わりなく、共に賛美し、主を礼拝するのです。

この様に私達は、色々なくくりによって教会を分ける事ができますが、本質的には実は同じものを指しているのです。
ぶどうのひと粒ひと粒が幹に繋がってひと房のぶどうを構成しているように、全ての教会が個人個人にいたるまでキリストという幹につながり、キリストから命をいただいているのです。

② この岩の上に
さて、先ほど読んでいただいた聖書箇所からもう一度一緒に見ていきましょう。

マタイ 16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

イエス様は弟子たちに聞きました。「あなたがたは私を誰だと言いますか。」
それに対してペテロが答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいます私の父です。」
ペテロは聖霊によって、イエス様を救い主として告白し、“生ける神の御子キリスト”であると言う事ができました。
その信仰告白の上に、「わたしは教会を建てる。」と、イエス様は言ったのです。

カトリック教会では伝統的に、ペテロという人の上に教会の土台が建てられ、教皇がその使命を代々継ぐのだとこの箇所を理解しています。
でもペテロという言葉が表すものは“石”です。教会の土台となる“岩”ではありません。

他の聖書箇所から考えても、教会の礎の岩とは、イエス様を指しているはずです。
この箇所においてあえて考えるのであれば、“イエス様こそ生ける神の御子キリスト、神であり、私の救い主である。”という信仰をもって礎の岩としたのではないでしょうか。
そしてペテロは、教会を築く第一の土台石として“石”という名を与えられたのです。

だから、ペテロ自身もこの様に言っているのです。

Iペテロ 2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

私たち、同じ信仰告白に基づいて信仰をもったクリスチャンの集まり、それが教会です。
教会とは、私たちという石のひとつひとつを積み上げて建てあげた神の家なのです。

ところで皆さんは、城壁の壁を見たことがあるでしょうか。
お城の土台となる城壁は、石を積み上げられて作られています。
現代の建造物のように鉄筋で作られているわけでもないのに、あれ程大きな建造物を作ることができたのはなぜだと思いますか。

同じ大きさに石を削って積みあげた壁は、見栄えはいいけれど案外もろいのだそうです。
しかし、それぞれ違う大きさ、重さ、硬さがあって一つとして同じもののない石ががっちりと組み合わされて積み上げられたとき、その壁はものすごく強固なものとなって建てあげられるのです。

私たちひとりひとりが石であり、それが積み上げられてひとつの神の家、教会となるのだと言いました。そこで考えたいのです。
私たちは時として、自分自身をキリスト教徒という型にはめ込み、平均的なクリスチャンになろうとし過ぎてはいないでしょうか。

私たちは、元からひとりひとりが全く違う存在として作られているのですから、みんなが違うのは当たり前のことです。
みんな同じ様にかたどられて積み上げられた建物は、見栄えはよくてももろい。
しかし、みんな違う大きさ、重さ、見た目だからこそ、それぞれがその違いを活かして組み合わされたとき、私たちは世界最強の建物として建て上げられることになるのです。
それぞれが違う個性をもっている私たちが、イエス様への信仰によってひとつにまとまる時、そこにこそ堅固な教会が生まれるのではないでしょうか。

エペソ 2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

③ キリストの体として生きること
私達が生きるこの世界は、私たち自らの罪によって汚れ、歪んでしまった世界です。
その中にあって、全ての被造物が罪によって混乱し、無秩序と虚無が支配しているかのようです。
つまり、私たち人類が神様に反逆し、服従しなかった事によって、この世界そのものが存在の根拠であり、目的であるキリストの支配を失った状態にあります。
その様な闇の中にあって、イエス様ご自身が光となられたように、神様は私たち教会にも同じ役割を与えようとしておられます。

エペソ 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

教会とは、キリストの体であり、全ての被造物を本来あるべきものへと回復させるキリストの力が満ち溢れている場所であるというのがその意味です。
私たち個別の存在としての教会、群れとしての教会、そして普遍的な教会が、イエス様の体となってその役目を果たす事になります。
私たちもまた、その働きの一端を担っているのです。

その働きの最たるものが、宣教の働きと言えるでしょう。
私たちは全世界に出て行き、福音を伝える事によって、この世界に希望を与えます。
そしてそればかりでなく、私達ひとりひとりがキリストに似たものとなって、この世界の腐敗を防ぎ味付けをする塩となり、この世界の中の闇を振り払う光となる。
それによって、世界をあるべき形に回復させていく事こそ、私たちに与えられた教会の使命です。

私達の目線は、ともするとついつい自分の生活の範囲や、身の周りの事だけになったり、西葛西国際キリスト教会という小さな群れの中の事だけに向けられてしまいがちです。
しかし、私たちは普遍的な教会としての使命を担う、ひとつの教会であり、いちクリスチャンでもあります。
私達は、そのような壮大な使命の元に選ばれ、神様の下へと招かれているのだということを忘れないでいただきたいのです。

私たち教会には、地上の全ての民族に祝福をもたらす「天国の鍵」が委ねられています。
ひとりでも多くの人々が天の御国への門をくぐる鍵は、私達の手に握られているのです。
私たち教会には、“死の門“も打ち勝つことができないキリストの力、絶対的な勝利の福音を伝えるための力が与えられています。

今、私達はキリストのからだとして、普遍的公堂の教会の働きとして立ち上がる時です。
それは私たち自身の力ではでき得ないことですが、内に住んでくださる聖霊によって全てのクリスチャンに可能な事なのです。

もう一度エペソ人への手紙を読んで終わりたいと思います。

エペソ 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

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