イザヤ52:6-8 『良い知らせを伝える者』 2008/02/24 松田健太郎牧師

イザヤ 52:6~8
52:6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる。』と告げる者がわたしであることを知るようになる。」
52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。
52:8 聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。

クリスチャンが一般的にもっているイメージというものがあります。
教会に一度も足をふみいれた事がない人が描くクリスチャン像として最も多いのは、正しい人、いつでも良い行いをする人というイメージかもしれません。
それはそれで素晴らしいイメージだと思いますが、厳密にはともかくとして、普通に考えた良い行いというのは、別にクリスチャンでなくてもできる事ですね。
そういう意味では、クリスチャンでなくても良い人はたくさんいます。
しかし、私たちクリスチャンにしかできない事というものもあるものです。

水泳選手がもっとも輝くことができるのは、プールの中です。
相撲取りがもっとも美しいのは、土俵の上です。
芸術家がもっとも生き生きとしているのは、キャンパスに筆を滑らせたり、ピアノに向かっているときではないでしょうか。

私たちクリスチャンにしかできないことが、ふたつあります。
ひとつは、先週のメッセージでお話した礼拝です。
そしてもうひとつは、今日のテーマとなる宣教です。
私たちは、正しい礼拝なしに、正しい宣教をする事はできません。
一方で、宣教のない礼拝は自己満足的で空虚です。
しかし私たちが主を心から礼拝し、福音を延べ伝えるとき、私たちはキリストのからだ・教会としてこれ以上ないほどに活き活きと輝くことができるのです。

そういうわけで、今日は教会として必要不可欠となる要素のひとつ、宣教・伝道について一緒に考えていきたいと思います。

① 福音を述べ伝える理由
さて、先ほどお話したクリスチャンのイメージとして、正しい人というものがありましたが、正しいことをしていればいいじゃないか、良い行いをする方が伝道よりも素晴らしいと思う方がいるかもしれません。
しかし、そこには問題があります。
私たちがする良い行いを他の人たちがどれだけマネをしても、そこに救いはないからです。

私たちがどれだけ良い行いをしているつもりでも、それは神様の基準にはまったく届きません。
私たちの中には罪があり、その影響を受けているので、私たちは穴だらけなのです。
部分的に見れば、あるいは表面的には善い事をしているように見えても、別の側面から見れば汚れているのが今の私たちです。
だから、私たちはその穴を補ってくれる存在が必要です。
2000年前にイエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪を贖ってくださったというのは、不完全な私たちの穴を、イエス様が塞ぎ、補ってくださったという事なのです。

私たちはその祝福を、無条件で受け取る事ができる。
私たちが罪の贖われた事を信じ、イエス様こそ私の主であると認めるなら、私たちは誰もが救われるのです。

ところが、そこにも問題はあります。
その問題を、パウロがこの様に書き記しています。

ローマ 10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

私たちが救いを受ける条件は簡単です。
ただ、その救いを受け取ればいい。
でも、その事実を知らされなければ、誰もそれを受け取る事ができない。
救われる必要があるのだという事にすら、気づくことができないのです。

だから私たちが生きるこの社会は、罪の存在そのものを認めようとしません。
罪があるままの自分が、いかに幸せになり、いかに素晴らしい人になるかという事を求めています。
その価値観の中心にあるのはやはり罪ですから、神様から離れ、自分自身が神になるための方法を全力をもって模索しています。
その様な中にあって罪とその贖いを宣べ伝える事は簡単な事ではありません。
でも、この様な世界の中だからこそ、私たちが福音を人々に伝えなければならないのです。

パウロは続けて言います。

ローマ 10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

私たち教会は、誰もが福音を伝えるために遣わされています。
そして福音を宣べ伝える時、私たちは生き生きとして輝きを放つのだと、聖書は教えてくれているのです。

② 伝道はいつからできるようになるか
そうは言うものの、伝道というのはとても大変な働きであるように感じてしまうかもしれません。
何だか、知らない人の家にいって“ピンポーン”とやったり、駅前でちらしを配っては無視されたり、目の前で捨てられたり、誰かをつかまえては説得して、無理やり信仰を押し付けるという印象がどうもあるような気がします。

あるいは、街頭に立ってスピーカーでメッセージを伝える事。
「神の裁きの呪いが下る前に、イエス・キリストの前にへりくだり、主に従わなければ、すべての人が地獄に行くのです。」と言うのを聞いていると僕も、せめてもう少し違う言い方ができないんだろうかと思ってしまうんです。
だからと言って、僕ならましな事が言えるかとマイクを渡されても、困ってしまいますね。
すべてのクリスチャンがそれをしなければならないと言われているのであれば、僕も伝道はしたくないなぁと思ってしまうのが、正直な気持ちです。

皆さんの中には「そうは言うけれど、自分には伝道なんてできるとはとても思えない。もう少し学んでから、自分の信仰がしっかりしてから伝道をします。」という方もいらっしゃるかもしれません。
でも、聖書の中の人々は、伝道するまでにしっかり学んで準備をしたわけではありませんでした。

後にイエス様の弟子となったピリポは、ナタナエルをイエス様の元に連れて行きました。
汚れた霊に取り付かれて墓場で何年も過ごしてきた男は、イエス様によって悪霊が追い出されるとすぐに、宣教のために送り出されました。
サマリアの井戸端でイエス様と出会った女性は、イエス様がキリストだと感じるとすぐに、町の人々にイエス様を紹介しました。

イエス様の弟子や使徒たちのほとんどが、時にどこかで学んだわけでもない普通の人々だったはずです。
そして、信じるや否やすぐに人々を導き始めました。
先日も、透くんが洗礼を受けるよりも先に友達を救いに導いてしまったという証をしてくれましたね。
いつクリスチャンになったのかという事や、どれだけ知識を身につけたかということは、宣教の働きとは関係がありません。
私たちの人生を変えてくれたイエス様を他の人たちに紹介する事は、クリスチャンなら誰にでもできる伝道です。
知識なんて何もなくても、実体験で受けたものは事実に他なりませんし、私たちの経験を否定する事ができる人なんていないからです。

アンデレはある日、兄のシモンをイエス様のもとに連れて行きました。
アンデレはイエス様がメシアである事を知ったのです。
イエス様はシモンに目を留め、ひとつの名を与えました。
その名をペテロ、このシモンペテロは教会を築く石の最初のひとつとして活躍し、多くの人々を救いに導きました。
アンデレは、聖書の中にもそれほど多くは出てこない、地味な登場人物でしたが、アンデレが兄をイエス様の元に連れてこなければ、教会はどのようになっていたでしょうか。

アンデレは、シモン・ペテロをただ、イエス様の元につれてきただけです。
私たちはペテロの様に歴史に名を残す使徒となる事はできないかもしれませんが、アンデレの役ならできます。
そして、私たちがイエス様の元につれてきた人物が、ペテロの様になって行くかもしれないのです。

③ 行って宣べ伝える
最後に、福音を伝える私たちに力を与える、3人からの言葉を紹介したいと思います。
まずは使徒の代表ペテロから。

Iペテロ 3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

無理矢理押し付けても、どれだけ力強く説得しても、相手はそれによって受け入れてくれるわけではありません。
そこで大切なのは、相手を否定したり議論することではなくて、優しく、穏やかに、冷静になって話すことですね。
そして、私たちが必要なときにいつでも主の愛を伝える事ができるように、可能な限りの用意をしておくことです。

次に異邦人への使徒パウロが、テモテに送った言葉です。

IIテモテ 4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

御言葉を伝えても反応が悪かったときには、私たちはがっくりとしてしまいます。
それでお互いの関係が悪くなってしまったときには、その想いはなお更です。
しかし聖書は、時が良くても悪くても御言葉を語り続けなさいと言います。
それは、例え今の反応が悪くても、そこに主が直接働いてくださり、すべてを益としてくださると約束してくださっているのではないでしょうか。

最後に、イエス様ご自身の言葉です。

マタイ 28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

イエス様が復活したとき、使徒を初めとする多くの人々がイエス様にお会いしましたが、実はある者たちは疑っていました。
しかし、イエス様はその人たちを攻める事もなく、そこに集まった全ての人たちに言いました。「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そしてバプテスマを授け、全ての事を守るように教えなさい。」
私たちの中にも、いま信仰に躓きを持っている人がいるかもしれません。
しかし、その様な私たちをも主は選び、遣わせ、福音を伝えさせて下さるのです。
私たちがそれと意識していないときにも、主は私たちを使っています。
そして、知らないうちにも輝かされている事に気がつくのです。

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