ヨハネ15:1-5 『いつでも主とともに歩む』 2008/03/16 松田健太郎牧師

ヨハネ 15:1~5
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

みなさんに紙と鉛筆を配って、絵を描いてもらうとします。
みなさんに僕の似顔絵を描いてもらって、前に貼り出したとしたらどうでしょうか。
多くの方の絵は、誰がモデルになっているかがわかる程度の絵を描いてくださるでしょう。
でもある方にとっては、貼り出されるのが恥ずかしいような絵になるかもしれません。
ある方の絵は、僕が怒り出すほどひどいかもしれませんね。
そして、同じ人間がモデルになっていても、書く人によっては芸術的な価値が出るほどに素晴らしい描き方をする事ができるものです。

私たちクリスチャンは、私たちが望もうが望むまいが、人生を通していつでもキリストを表しています。
言ってみれば、私たちの人生の上にキリストを描き出しているわけです。
クリスチャンはイエス様を直接見て、それを通して神様を知ることができますが、多くのノンクリスチャンにとって見えるのは、私たちクリスチャンが描いたキリストを通して神様を見るのです。
私たちは、ある人たちが描くキリストがいかに素晴らしいかを見ますが、ある人たちが目も当てられないキリストの姿を書き出すのも、見たことがあるのではないでしょうか。
みなさんが描くキリストはどんな姿をしていますか?
みなさんの人生を通して、神様はどんなお方として表されているでしょうか?

そうは言っても、私たちを通して表される神様の姿がどんなに素晴らしかったとしても、それが神様の本質から離れていたのでは何の意味もありませんね。
何より、そのままの神様以上に素晴らしいものは、この世界には存在しないはずです。
私たちに求められているのは、キリストの姿をいかに忠実に表すことができるかです。
それこそ、私たちが霊的に成長して、キリストの似姿になっていく事に他なりません。

聖書に、キリストに似る性質として御霊の実として記されているものがあります。

「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。(ガラテヤ5:22~23)」

そういった性質が、私たちの中にあるでしょうか?
このような御霊の実を、私たちは行いによって全うしようとしてしまうのですが、私たちがそれをどれだけ似せてみようとしても、私たちにできるものではありません。
それは、私たちの中には存在しない性質だからです。
では、私たちが少しでもキリストに似るためにはどうしたらいいのでしょうか?

① コミュニケーション~祈り
人と人との関係を深くするのはコミュニケーションです。
コミュニケーションなしに、関係が深まるということはありませんね。
私たちクリスチャンはキリストの花嫁と言われますけど、夫婦の間でもコミュニケーションがなくなればどんどん関係は冷めて、愛情は薄くなってしまうのではないでしょうか。

神様の愛は決してなくならないし、私たちがどんな状態になっても神様の側から離婚するということはありません。
でも、コミュニケーションなしに、関係が深まるということもないという事ですね。
そして私たちが神様とのよい関係を結んでいかなければ、私たちがキリストに似た者となることはとてもできないのです。

神様とのコミュニケーションに必要不可欠なもののひとつ、それは祈りです。
ある人は、私たちがどれだけ神様に信頼しているかは、どれだけ祈っているかに比例すると言っています。
教会の歴史に名を残す霊的指導者は、みんな一日に何時間も祈った人たちばかりです。
彼らの仕事量、その忙しさから考えたら、祈っている暇なんかないんじゃないかと思えるほどですが、彼らが口を揃えて言うのは、「忙しいからこそ、祈らないではいられないのだ。」という事です。

ある人はこの様に言います。
「神様は全知全能なのだから、祈らなくて私の思いは知ってくださっているはずだ。」
それは確かにその通りでしょう。
でも、必要なのは神様との対話なのであって、お願いをする事にあるのではありません。
祈りの中で神様と向き合い、心を神様に集中することが大切なのです。

だから、何時間も祈るときくと、何時間もしゃべりっぱなしというイメージがあるかもしれませんが、決してそういう事なのではありません。
夫婦の会話でも、夫が帰ってくるなり妻が一日の出来事を話すだけ話して、「ああスッキリした、お休み。」という会話で夫婦の絆が深くなるとは考えにくいですよね。
私たちが、神様の声に耳を済ませることも祈りの内です。
むしろその時間の方が大切で意味深いものなのかもしれませんね。

ルカ 5:15 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。 5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

イエス様がこれほどまでに祈ったのですから、私たちはそれ以上に祈りを必要としているはずです。
私たちはどれだけの時間を祈りに費やしているでしょうか?
いきなり何時間もの祈りというのはハードルが高過ぎるでしょうが、まずは毎日かかさず祈るということを始めてみたらいかがでしょうか。

② コミュニケーション~聖書
私たちが神様の声に耳を済ませるのは、祈りの中だけではありません。
私たちは聖書の言葉を通して、神様の声を聞くことができるのです。

聖書を国語的に読むだけなら、多少難しい言葉はありますが誰にでもできます。
しかし、聖書の言葉を神様からのメッセージとして受け止めるのは、聖霊の助けなしにはできません。
それは裏を返せば、聖書から神様の言葉を受け取ることは牧師だけの働きではなく、クリスチャンなら本来誰にでもできるという事です。

週に一回、牧師が取り次ぐメッセージを聞くこともいいのですが、それだけでは週に一回しかお父さんの声を聞かない子供のようなものです。
お父さんの仕事が忙しくて、子供とほとんど接する機会のないお父さんが、日本にはたくさんいますよね。
それはそれで仕方のない状況があるのも確かですが、そういう環境で家族の絆をうまく保ち続けるのは難しいことです。
いつの間にか、お父さんが“たまに帰ってきて何かをくれるおじさん”になってしまうのは悲しいことではありませんか?
私たちは天のお父さんに対して、その様な思いをさせたくはありません。
聖書を読みながら、聖霊の声に耳を澄ませ、神様が私たちに直接与えてくださるメッセージを味わいましょう。
イエス様はこの様に保障してくれています。

ヨハネ 15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

私たちに必要なすべての答えが、この聖書の中に書かれていると僕は信じています。
どうか心の内に御言葉を蓄えてください。
私たちの中に主のことばが留まるなら、すべての事がそこに与えられるはずなのです。
そのためには、私たちは毎日少しずつでも聖書を開き、読んでください。
もちろん、読まなければクリスチャンとして失格とか、救いがないとか言っているのではありません。
でも、私たちは主の声に耳を澄ませること無しに、私たちが進むべき道を導いていただくことは絶対にできないだろうと思うのです。

コロサイ 3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

③ 聞き従うこと
主と語り、耳を澄ませ、次にしなければならないのは、その導きに従うということです。
私たちがどれだけ主の声を聞いても、その言葉を私たちが無視するなら何の意味もありません。
ところが私たちは、主に従うことなしに、自分に都合のいいことだけ神様のための働きをしようとしてしまう事があります。

「あの罪から離れるのはいやです。でも、これだけ献金を捧げますから祝福してください。」
「あの人を赦すことはできません。しかし教会での奉仕はいくらでもします。」
「伝道はいやです。その代わりに人に親切にしますから許してください。」
しかし、神様が喜ばれるのは私たちが自分の思いだけで捧げる捧げものではありません。

Iサムエル 15:22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

私たちが捧げるものがどんなに素晴らしいものであっても、私たちの基本的な態度が神様への不従順であるなら、そこに神様との信頼関係はありません。
それは下心をもって女性に近づき、高価な指輪やネックレスを贈って関心を買おうとするようなものです。
どんなに素晴らしい捧げものをもっても、神様を買収することはできません。
神様は、私たちの本当の愛だけを喜び、受け取られる方なのです。

愛がなくても、自分のやりたいことだったらいくらでもできます。
でも、それは自分のためにする事であって、神様のためではありません。
神様を愛し、全てを益として下さると信じて従う事は、本当に大変な事でしょう。
イエス様も、自分についてくる事が簡単な事ではないと、前もって教えてくれています。

マタイ 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

主に従うという事は、時として自分の自我に死ぬという事を意味しています。
それは大変勇気がいる事ですし、つらい決断ですが、それでも私たちは神様に信頼し、信じる事ができるのです。
私たちがそれほどまでに神様を愛する事ができるのは、神様がすでに私たちを愛してくれているからに他なりません。

冒頭で、私たちはどんなキリストを描くのかという話をしました。
一方で、神様の方も私たちひとりひとりを描き出して下さいます。

むかし英国の国立美術館に、ひとつの小さな絵がありました。
それは目の見えない乞食が描かれた絵でしたが、普及の名作と呼ばれたその絵によって多くの人々が魅了され、何度も美術館に足を運んだといいます。
その絵に描かれた乞食は誰にも知られることのない、取るに足らない人物でした。
そこに描かれた乞食が素晴らしかったのではなく、それを描いた巨匠の業によって、その絵が人々の心を捉えたのです。

私たちひとりひとりも、取るに足らない存在かもしれません。
しかし、私たちが神様の無限の配慮に応答して全てを明け渡すなら、私たちは神様が描いたままの私たちの人生を歩む事ができます。
その時こそ人々は、私たちが描きだす神様の姿などというものではなく、私たちを描いた創造者としての芸術的な業の数々を目にし、その栄光を褒め称える事になるのです。

最後に、今日の聖書箇所から4節、5節だけを読んでメッセージを終わりたいと思います。

ヨハネ 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

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