創世記11:1-9 『主にあってひとつになる』 2008/05/11 松田健太郎牧師

創世記 11:1~9
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

人類はこれまでに、色々な発明や発見をして、文明を進歩させてきました。
科学技術によって、車や飛行機、スペースシャトルなど数々の乗り物が発明されて、人類はより遠くに行く事ができるようになりましたね。
電話やインターネットの発明は、その場所に行かなくてもコミュニケーションをとることができる人たちの量を増やしました。
そして医学の進歩によって多くの人たち、がそれまでは決して助からなかった病から、癒されるようになりました。
この様な文明によって、私達が住む社会はより快適になったということができるはずです。

でも一方で、これだけ科学が発達しても、相変わらず争いや戦争は止む事がなく、異常な犯罪は増し、心が病んでしまう人も少なくはありません。
私たちは、文明を持たなかった頃には悩む必要がなかった様な、様々な問題に悩まされています。
そういった科学技術や文明の進歩は、それ自体は別に悪いものではなく、本来は良いものをもたらすはずなのに、世界の混乱はむしろ増しているように感じていしまうのはなぜなのでしょうか。

主の恵みによって大洪水を生き残り、祝福を豊かに受け取って増え広がったノアの子孫達は、シヌアルの平地という所に移動し、天に届くほど高い塔を建てようとしました。
全き人ノアから新たに始まった人類の再スタートでしたが、それは神様が予測していたように、すぐに堕落の道を歩み始めてしまったのです。

① 人間の結束

11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

誰の言葉とも知らないこの何気ない言葉の中には、私たちの中にもある三つの罪が言い表されています。
第一に、“頂が天に届く塔を建て”るという事です。
これは、自分達の力によって神様の元に届こうとするということです。
私達の罪の本質は、自分が神様のようになろうとする事にあるという話をしたのを覚えているでしょうか。
人々がれんがやアスファルトという技術を手に入れて、今までにない大きな建物が建てられるようになった時、自分達の力で神様に届く事ができるのではないかという思いが出てきた。
明確な、神様への反逆という初めからの罪が、人々の中には現れていたのです。

第二に、“名をあげよう。”という思いです。
全てのものは神様によって創造され、私たちは管理を任されているのに過ぎません。
私たちは、何一つ自分の力で自由にできるものはなく、実は神様の許しなしには生きていることもままならない。
だから私たちは、神様にすべての事を感謝して、栄光を神様にささげるべきなのではないでしょうか。
しかし人々は、神様ではなく自分自身が“名をあげよう”として奢り高ぶっています。
そこには虚栄とプライド、そして何より、人が神様に取って代わろうとする罪の働きがあるのです。

第三に、“われわれが全地に散らされるといけないから。”という動機です。
これはひとつには“生めよ、増えよ、地に満ちよ”と言われた神様の祝福への拒絶と抵抗です。
そしてさらに、この人々が自分達が神様に対して反逆を犯し、罪を行っている事を自覚していたことを意味しています。
神様の存在を知らなかったり、罪という認識がなかったからしてしまった間違いではなく、知った上で神様に対抗しようとしていたのです。
人々は、全地に散らされてしまうという事を恐れてひとつに集まり、結束しました。
そしてこの塔を完成する事によって、神様の裁きから逃れる事ができると思っていたのです。

悪に傾きすぎた世界をまっさらにして再スタートしても、ほんのわずかな間に、人間は逆戻りして堕落してしまいました。
それだけではなく、力をあわせ、心をひとつにして神様に逆らったのです。

この様な罪の性質は、実は現代の私達の中にも見る事ができるのではないでしょうか。
バイオテクノロジーを初めとした科学によって、神様と同じ力を得る。
そしてその意思はニューエイジ的なスピリチュアリズムにも受け継がれています。
ニューエイジ的スピリチュアリズムの教えのひとつは、私たちが進化して神になるという事ですね。
ここで進化論とも結びついているのが面白いといえば面白い話しです。
しかし、私達がどれだけ進化したとしても、世界を創造した全能の神様になる事は絶対にできません。

また、神様に感謝するべきところで神様を忘れ、自分の手柄だと思い込んでしまう事は、私たちの中にもよくあることではないでしょうか。

そして、良い行いをすることによって、つまりは自分の行いによって神様の裁きを逃れる事ができるという考えは、多くの人が通る考え方なのではないでしょうか。
残念な事ですが、この様な教えはキリスト教会の中でさえ聞く事があるのです。

私達は、自分の力で神様になったり、神様に近い存在になったり、あるいは行いによって神様の裁きを逃れる事ができるという幻想は捨て去るべきです。
それは私たちに幻滅と絶望感しかもたらさないのですから。
私たち人間の力は、全能の神様の前には遠く及びません。
それは進化や輪廻転生を繰り返してどうにかなる、というようなものではないのです。

11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

人々は心をひとつにして、天に届くために塔を築きましたが、それは、神様の方からは降りてきて見なければならないほど、低くて小っぽけなものに過ぎませんでした。
私たちの側から神様に届かなければならないとしたら、それはどれだけ絶望的で遠い道のりでしょうか。
しかし、自分たちの方から神様に近づき届こうとするのではなく、神様の側から私たちに近づいてくださり、私たちを引き上げてくださるのです。
あるいは私たちが自分たちの行いを通して見返りを受けるのではなく、神様が恵みとして、一方的に与えてくださるものなのです。
私たちはその事を希望として、生きていきたいものです。

② ことばの混乱
さて、心をひとつにして神様に対抗しようとした人類は、このまま行けば大洪水の時と同じ、滅亡の一途を辿っていました。
せっかく再スタートしたのに、このままでは結局自滅していまう。
しかし神様は、それを望んではいませんでした。
そこで、神様は人々の言葉を混乱させたのです。

11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

互いの言葉が混乱してしまったので、彼らはお互いに意思の疎通を図ることが難しくなりました。
その結果、彼らが心をひとつにしてもくろんでいた神様への反逆が留められました。
彼らはその町を築くのを止めたのです。
そして、彼らは地の全面に散らされていったと、聖書には書かれています。

皮肉と言えば、皮肉なことではないでしょうか。
人々は、「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」という神様の祝福を受け取ろうとせず、自分勝手な道を選び、しかし天罰とも言えるような取り扱いを受け、結果として彼らは最初からの祝福を受けることとなったのです。

私たちは時として、自分自身で勝手に思い描いた幸せを望むあまり、神様が与えようとしている祝福を受け取り損ねる事があります。
それは、私たちが目先の事ばかり見てしまい、目先の思いが満たされる事だけが幸せだと思い込んでしまっているからかもしれません。
しかし、時間を超越している神様の計画は、私たちの思いを遥かに越えて、完全に私たちの必要を満たし、幸いを与えることができます。
でも私たちがそれを信じて、神様が与えて下さろうとするものを選ばなければ、その祝福を受け取る事ができないのです。

私たちが、初めから自分の思いを第一とするのではなく、神様の導きを信じてそれを最優先していけば、それほど辛い思いをする事もなく、もっと大きな祝福を受ける事ができるのかもしれませんね。

③ ことばの回復
人類の歴史が始まってから、地上に争いが絶えたことはありません。
平和を望む人々も絶えたことはないはずですが、世界中が一致してそれを求めることもありませんでした。
現代、地球温暖化や経済の問題など、世界中がひとつとなって向き合わなければ解決する事ができない事は増え、私たちは世界の一致というものをもっと深刻に受け取らなければならなくなってきています。
しかしひとつ間違えれば、バベルの塔の事件と同じ過ちを繰り返してしまう事にもなりかねません。
私たちは一体、どうすればいいのでしょうか?

今日はペンテコステ(五旬節)という、ユダヤの収穫のお祭りの日です。
私たちは収穫を祝うためではなく、およそ2000年前のペンテコステに、弟子たちの上に聖霊が下ったという事を覚え、教会の始まりの時としてこの日を祝っています。
その時に起こった出来事を、少し聖書の中に見てみましょう。

使徒の働き 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

三位一体の神様のひとつである聖霊が、信仰を持つ人たちの内に宿られた時、その印として、人々は自分が話してきた言葉とは違う言語で話し始め、周りにいた外国語を話す人たちに福音が伝わりました。
これは、バベルの塔で起こったことばの混乱の呪いが、聖霊によって解かれたという事を意味しているのです。
ことばの回復は、もう始まっているのです。

私たちひとりひとりは価値観も違い、そこに一致を保つ事は確かに難しいかもしれない。
だからこそ私たちは、流れる水のように移り変わる私たち人間の事を基準とするのではなく、決して変わる事のない神様を土台としなければならないのです。
パウロは手紙の中でこの様に薦めています。

エペソ 4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

教会の結婚式でよく言われることですが、夫婦の関係は神様を頂点とした三角関係だと言います。
ふたりが神様を仰いで近づくなら、自然にお互いの距離も近づいていく。
それと同じ事が、世界的な規模でも言えるのではないでしょうか。
私たちがそれぞれに主を見上げ、主に近づくなら、私たちは互いの距離を狭める事ができるはずです。

私たちは、主にあってひとつとなることができる。
互いに赦しあい、愛し合うことももちろん大切なことですが、すべてを可能にするのは、私たちではなく神様です。
その事を信じて、私たちがやがてひとつとなることができるように、ともに祈りましょう。

エペソ 2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

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