マタイ5:13-16 『地の塩、世界の光』 2008/05/18 松田健太郎牧師

マタイ 5:13~16
5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

私たちが生きる日本という国は、個人主義ではなく、集団の中での調和が重んじられる国です。
それが思いやりとしていい形で現れるときもあれば、以前にもお話したように、“赤信号、みんなで渡れば恐くない”というように、歪んだ形で和が求められることもありますね。
多くの方が、クリスチャンになるかどうかという決断の時、その部分で躊躇してしまうようです。
また、すでにクリスチャンである皆さんも、日本でクリスチャンとして生きることが難しいと感じることが、実際にあるのではないでしょうか。

人が集まるところにいれば、聞きたくなくても誰かの悪口を聞かされることがあります。
飲み会や、初詣など、自分が望んでいなくても“日本人として”とか、“我々の一員として”とかよくわからない理由でそういう場に行かされることもあります。
昔は当たり前だと思っていたり、自分自身も楽しんでいたことが、聖書の価値観に触れていく中で価値観が変わる事もあります。
前のようには、楽しめなくなる。
そうするとその環境にいること自体が苦痛になったりして、離れたくなる事もありますね。

長いものに巻かれたり、流されていた方が楽な事もあります。
だから、キリスト教的な価値観が圧倒的な少数派という日本では、クリスチャンとして生きる事が難しいと感じるのも当然の事なのかもしれません。
そんな時にこういう思いがよぎります。
「クリスチャンとだけ接していればいい環境で生きられたら、どれだけ楽な事だろう・・・。」
「この世の一切の煩わしさから離れて、真の神様を知る者とだけ接する社会の中にいられたらいいのに・・・。」

神様は、私たちに何を求めているでしょうか?
今日は、イエス様が弟子たちにされた山上の説教という有名なお話の中から、神様が私たちに何を求めているのかということを一緒に考えていきましょう。

① あなた方は地の塩です
まずは、旧約聖書時代のイスラエル人がどうだったか、という事を見てみましょう。
先週まで、数回に渡って創世記を一緒に読んできましたね。
そこで表されていたのは、人がどれだけ罪というものに弱く、簡単に影響を受けてしまうかという事でした。

果物が入った箱に、腐ったりんごやみかんがひとつでもあれば、そこから腐敗が広がってすぐに他の果物にも移ってしまいます。
人の罪もそれと同じで、罪はあっという間に広がって収集不能に陥ってしまう。
だからアダムとエバはエデンの園から出されてしまいました。
初めての殺人を起こしたカインは追放されました。
ノアの時代に、世界は一度滅ぼされなければなりませんでした。
そして、バベルの塔を建てようとしていた人々は、世界中に散らされなければならなかったのです。

旧約聖書の中で描かれているのは、神の民として選ばれたイスラエル人の歴史です。
聖書の中で、イスラエル人たちは聖くあるという事を徹底的に求められました。
彼らに課せられた律法というルールも、そのために与えられたものです。
イスラエル人は、聖書の言葉に従わない外国人との接触を可能な限り避け、民族の純潔を守ることを大切にしていたんですね。
それは、彼らが罪の影響から護られるため。
神の民は、罪から離れて聖さを保つために、世界から孤立しなければならなかったのです。

しかしイエス様は、それまでの神の民の常識を覆してしまいました。

マタイ 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

イエス様は弟子達をして、「地の塩である」と言いました。
この時代、塩の活用法と言えば防腐剤として使われる事です。
イエス様に繋がる者達は地の塩であり、世界の堕落と腐敗によって影響を受けるのではなく、むしろ世界の堕落と腐敗を留め、清めるのだと言うことなのです。

ここで言われている堕落や腐敗という事を、道徳的なことだけに限定するなら、必ずしもそのようには機能していないと思われてしまうでしょう。
クリスチャンはすべて罪を犯さなくなるのかと言えば、そんな事は全くありません。
しかし聖書で語られている罪というのは、道徳的な行いの事を指しているのではありません。
罪の本質は、創造主である神様から離れて自分を神とする事であり、それによって私達は正しい存在である事ができなってしまうのです。
私達は、イエス様を通してしか世界を創造した真の神様を知る事ができない、と聖書は語っています。
だからこそ、イエス様を救い主として、主に従う生き方を選ぶなら、私達の中に神様との関係の回復が起こり、それが堕落と腐敗を食い止め、世界を清めていくのです。

すべての事が神様から離れていく中で、堕落を防ぎ、腐敗を食い止める塩としての存在は、人目には異質のものと映るかもしれません。
でも、その様な時にこそ、私達の塩としての存在意義が活かされている時でもあるのです。

私達が自分達をクリスチャンとして自覚しながら、周りに溶け込んだ生活を続け、世界の腐敗に飲み込まれてしまうと言うなら、私達がクリスチャンである価値がどれだけあるのでしょうか。

マタイ 5:13b もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

私達が塩気を失ってしまっていても、味気のない信仰生活を送っていたとしても、私達の内に魂の救いは確かにあり、私達には永遠の命が与えられてはいます。
しかし、せっかく塩としての生まれ変わったのに、塩気を失ってしまうなんてもったいないではありませんか。
私達には、イエス様と共に歩み、喜びの中に生きることができる特権が与えられています。
しかしイエス様を仰ぎ見る事をせず、相変わらずこの世の事に流されて味気のない生き方を選ぶのは、あまりにももったいないことなのです。

私達は地の塩です。
食物に塩味を付けることも、塩の役割のひとつです。
私達が塩気を保ち、塩としての役割を果たす時にこそ、味気のない私達の人生にうまみが加わるのではないでしょうか。

② あなたがたは世の光です
さて、私たちクリスチャンに与えられたもうひとつの役割は、世の光としての役割です。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

「あなたがたは地の塩です。」と言われた時もそうでしたが、イエス様は弟子たちに、「世界の光となりなさい。」とか、「あなたたちは光となるでしょう。」と言ったのではありません。
“あなた達が光”であり、“あなた達こそ光です”という断定的な言い方だったのです。

それは私たち自身が行いによって闇の中の光となったり、光り輝くような素晴らしい存在になるという事ではありません。
イエス様と共に生きる者が、いつでもイエス様の輝きを反射し、また内に宿る聖霊の輝きによって周りを照らす光りとなるという事を表しているのです。
そしてそれは、山の上にある町が隠れる事ができないように、特に主張して光らせようとしなくても自然に輝き出す光を指し示しているのです。

私達が洗礼を受けてクリスチャンになったら、私達の身の上に良い事ばかりが起こるようになる、のではありません。
私達の人生には変わらずに厳しさがあり、それどころか辛い事が増える事だってある。
しかしそれでも、主と共に生きる生き方の中には喜びがあります。
私達の経験している事は今までと同じ、会社や学校、家庭の中での働きであるはずなのに、私達が主に従う生き方を選ぶ時、私たちを取り巻く環境は今までになかった意味を持ち始めるのです。
そのような神様の力を実感して生きている人たちは、他の人たちと比べても輝いて見えるのではないでしょうか。
みなさん、主と共に生きる生き方、クリスチャンとしての生きかたというのは、本来このように輝きを放つものなのです。
そしてそれは、これといった自己主張をするまでもなく、誰の目にも明らかなほど明確な光として、闇であるこの世を照らすのです。

イエス様はもうひとつたとえを用いて、私たち信仰に生きる者が光であると言う事を示しています。

5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

わざわざ明かりをつけておいて、すぐに消してしまう人がどこにいるでしょうか。
燭台に火を灯したなら、部屋を明るくするために灯したのです。
それをすぐに消してしまう事はしません。
同じように、信仰によって私達の心に希望が満ち、私達がイエス様の輝きによって光る事には意味があります。
せっかく輝いたその光を、消してしまう事ほど無意味な事はないのではないでしょうか。

私達は、目立つ事が恥ずかしいとか、あるいは宗教的なルールに縛られすぎる事によって、せっかくイエス様からいただいた輝きを、吹き消してしまう事のない様にしたいものです。

③ 光を輝かせて
さて、私達が地の塩・世界の光となっていく上でもうひとつ気をつけなければならない事があります。
私達が世界の光として輝くという事は、自分自身を現して、人に認めてもらうためではないという事です。

5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

私達は神様が自分にしてくださった事を証しする際、「“私は”こんなに素晴らしい人間になりました。」とか、「神様は“私に”こんな素晴らしい奇跡を起こしてくださいました。」とか、自分の事が強調されてしまいがちです。
また、「“私は”こんなにたくさんの人々を信仰に導きました。」とか、「“私は”こんなに祝福されています。」というように、結局は自分が神様にどれだけ愛されているかという自慢にしかならない事もあります。

僕自身にも、そういう傾向があったことをここに悔い改めたいと思います。
でも、この様な話をどれだけしても、そこに現されているのは結局自分のことでしかないんですね。

イエス様がした、この様な話を思い出します。

ルカ 17:7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。
17:8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。
17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」

私達がイエス様の光を反射して輝く時、知らない人たちは私達がすごい人間なのではないかと思うかもしれません。
時として、尊敬の対象とされる事もあるでしょう。
でも、それを自分の手柄としてしまう時、私たちの中にはプライドという大きな罪が途端に膨らんでいきます。
そして、「自分はもしかしたら本当にすごいのではないか」と勘違いしてしまうんです。

でも、その輝きは主の輝きを反射しているに過ぎないのですから、自分の自由にはなりません。
それはやがて、いつも輝いていなければというプレッシャーや、自分の行いによって輝かなければという自己中心へと変わってゆき、そんな事ができるわけがないですからつぶれてしまうのです。

私達が自分の手柄を誇示しなくても、神様はいつでも私たちを見てくださっています。
主が成してくださる事は、いつでも主の栄光としてお返ししましょう。
それが私達のためでもあり、神様が喜んでくださる事でもあるのです。

詩篇 115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

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