マタイ6:25-34 『空の鳥を見なさい』 2008/05/25 松田健太郎牧師

マタイ 6:25~34
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

私たちがクリスチャンになると、神様との関係を深く築く事ができて、祝福に入る事ができます。
でもそれは、私達の人生の問題がすべて解決して、すばらしいことばかりが起こるようになるというわけではありません。
ですから、「私はクリスチャンになって、こんなにお金持ちになりました。」とか、「私はクリスチャンになる事によって、こんなにいい大学に合格する事ができました。」という事があるわけではありません。
まぁありえない事ではないにしても、どこかおかしいのではないかなと思ってしまいます。

私たちがクリスチャンであるかどうかに関わらず、先行きが見えない状況におかれると、私たちは不安になったり、心配になったりするものです。
適度なストレスが私達の生活にあるという事も、実は私たちの心を豊かにするのですから、ある程度不安になったり、心配する事も時には必要なのかもしれません。

しかし、不安や心配も度が過ぎると、それは思い煩いへと変わっていきます。
思い煩いは大きなストレスを生み、精神的な負担だけでなく、自律神経に影響を及ぼして高血圧や胃潰瘍を始め、体調にもさまざまな問題を引き起こします。
また、それを発散しようとしてタバコや飲酒、あるいは食べものやギャンブルによってストレスを発散しようとして、別の依存になってしまう事もあります。
そうすると、悪循環を起こしてそこから抜け出せなくなり、ますます苦しい状況を作ってしまうという事も少なくはありません。
では、私たちはどのようにして不安や心配とつきあい、思い煩いから開放される事ができるのでしょうか。

① 思い煩いをやめよう
イエス様は、このような話をたとえ話の中で語っています。

6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

ひとつ間違えてはならないのは、イエス様がここで言おうとしているのは、私たちが種まきも刈り入れもしなくてもいいと言っているのではないという事です。
私たちが地上にいる間、私たち人間は自分の生活を支えるために耕し、労働をしなければなりません。
それは人類の罪が招いた結果ですね。
だから私たちが神様にすべてをゆだねるという事は、仕事も何もかもやめて、何もしなくていいのだということでは全くありません。
私たちには私たちの責任があり、無責任で適当な生き方をすればいいと言っているのではないのです。

私たちが生きていくうえでは、最低限の時間や財産管理、またいろいろな計画や配慮が必要です。
しかし、私たちの人生には、自分の思い通りにならない事や、先行きのわからない事がたくさんあります。
その様な部分に関して、私たちは心配したり、思い煩ったりする必要はないのです。
それは、神様が鳥を生かして養ってくださるように、神様は私たちの必要を知っていて、必要なものを備えてくださっているからです。
私たちがどれだけ心配しても、私達の力ではどうする事もできない事がたくさんあります。
その様な事のために思い煩ってストレスを溜める必要はないのです。

また、このように言っています。

6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

私たちは、時として人にどう見られるかという事を気にしすぎているのではないでしょうか。
聖書の中で語られている“思い煩う”という言葉には、“心を分ける”という意味があるそうです。
あの人にもこの人にもよく思われたい、すべての人から認められ、愛されていようとすると、だれからの批判も受け入れる事ができなくなり、そこに思い煩いが生まれます。

イエス様は、おしゃれをする事が罪だと言おうとしているのではありません。
ただ、必要以上に思い煩わなくても、ユリがそのままでユリとしての美しさをもっているように、そのままの私たちに与えられている美しさがあります。
私たちは、私たちをそれぞれの個性をもって想像してくださった神様に信頼して、ありのままの自分であればいいのではないでしょうか。
それこそが私たちに求められている信仰というものなのです。

② なぜ思い煩うのか
「思い煩わなくてもいい。」そう思っていても、それでも思い煩ってしまうのが私たちです。
私達の中にある思い煩いはいったいどこから来るのでしょう。

まず第1に、ユリのたとえ話で言ったように、私たちの中にはすべての人からよく思われたいという思いがあって、それが満たされないことによって思い煩いがおこります。
第2に、私たちが自分の力の限界を認めることができないために、いつも完璧であろうとして、思い煩いが起こります。
第3に、私たちがいつでも神様に支えられてきた事を忘れ、これまでの人生を自分の力で生きてきたと思い込んでいるなら、先のことを考えるだけで思い煩う事になります。
そして最後に、私たちが自分の力しか頼れないために、思い煩わなければならなりません。

これらのことは、実はすべて神様の領域なのです。
私たちには、私たちがなさなければならない責任があります。
しかし、神様にしかできないことを私たちが自分でコントロールしようとするなら、私たちは神様ではありませんからどうしても完全にはできません。
思い煩いというものは、実は私たちの中にある、自分が神様にとって代わろうとする罪と深いかかわりがあるのです。

イエス様は、自分の力で安心を手に入れようとした金持ちのたとえ話をしています。

ルカ 12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

私たちが何に信頼し、何を支えとし、何を土台として生きるかという選択を間違えるなら、私たちは限られた人生を間違った目的のために使うことになるのではないでしょうか。
どれだけ蓄えがあって、収入が安定していたとしても、私たちは今日、交通事故で死んでしまうかもしれないのです。
聖書の箴言の中に、このような言葉がありますね。

箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。

自分の力や、うつろうこの世界の物事を自分の土台としようとするなら、私たちはいつでも不安定で、先々のことを思い煩わなければならないでしょう。
だから私たちは、決して動くことのない、世界の始まりから常に変わらずにいた、世界の創造主、父なる神様を土台とすればいいのです。

③ 神の国とその義とをまず求めなさい
かつて人々が、地球の周りを太陽や他の天体が回っていると考えていた時代がありました。
しかしある時、コペルニクスという天文学者が、太陽の周りを地球が回っているのだと発表したんです。
認知されるまでに時間が必要でしたが、それは人々の価値観を根底から変えてしまうことになりました。
今まで自分たちが中心だと思っていたのに、中心は自分ではなかったのです。

私たちの人生観にも、コペルニクス的転回が必要です。
イエス様はこのように結論付けています。

6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

私たちが生きるために、何が必要なのかという事は、神様が知っています。
そして私たちを愛している神様は、神様が鳥を養うように、いやそれ以上の思いをもって私たちを養ってくださいます。
私たちは、まず“自分が生きるためのこと”を第一とするのではなく、神の国とその義とを第一に求めなさい。
そうすれば、神様が私たちの必要を備えてくださるのだと、イエス様は言っているのです。

“神の国と神の義”とは、一体なんでしょうか。
“神の国”というのは、間違っても人間の努力によって達成される理想の王国ではありません。
キリスト教の歴史は、それを取り違えて何度も間違いを繰り返してきましたね。
“神の国”とは、そこに神様の支配がある場所ということです。
つまり、私たちが積極的に神様の御心に従い、自発的に服従するとき、そこに“神の国”があるのです。

一方で“神の義”とは、神様が神の国の国民である私たちクリスチャンに要求している正しさの事です。
具体的に言えば、私たちが“心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛すること”と、“神様に創造された自分自身を愛すること。”そして、“私たちの隣人を、私たち自身のように愛すること”です。

私たちは、神様の支配がこの地上にあり、主の御心を第一のこととして求めましょう。
そしてそうすれば、私たちが必要とするすべてのものは与えられるのだと、誰でもない神様ご自身が保障してくださっているのです。

神様が、たくさんの神様がいる中のひとりでしかないのであれば、ひとりの神様の力を信頼することなんてできないでしょう。
神様が、私たちを気まぐれに創造し、私たちの人生をもて遊んでいるような神様だったとしたら、私たちは神様を信用するのではなく、自分の力でこそ生きるべきでしょう。
神様が、どこにいるのかもわからない、私たちとはあまり無関係な存在であったとしたら、私たちはそれほど神様を信用することなんてできないでしょう。

しかし、私たちが神様と呼んで信頼できるのは、この世界を創造した、全知全能の唯一の神様です。
神様は、私たちを救うためにこの地上に来て、ご自分の命を投げ出すことも惜しまないほどに私たちを愛してくださる神様です。
そして神様は、私たちを創ったまま放っておくのではなく、今この時も私たちとともに歩んでくださるほどに、身近なところにいてくださる神様です。

だから私たちは、神様が私たちを守り、神様が与えてくださる最善にいつでも信頼して、一日一日を喜んで生きていきていくことができます。
毎日が、喜びと感謝にあふれた

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