マタイ7:15-23 『にせ預言者に気をつけなさい』 2008/06/22 松田健太郎牧師

マタイ 7:15~23
7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

僕には、今思い出しても悔やまれるひとつの苦い失敗があります。
それは、ある駅でお婆さんにどの電車に乗ったらいいのかを尋ねられた時のことです。
このお婆さんは、どういう事情で電車に乗る事になったのかはわかりませんが、東京の電車には明らかに乗りなれていない様子でした。
僕もある所に向かっている途中で、若干急いでいたのですが、電車がまだ来ていなかったので、僕はそのお婆さんを助けてあげる事にしまたした。
そのお婆さんは、目が悪くて路線図がよく見えないというので、僕が目的地の駅の名前を路線表で確認し、「2番線に到着する電車に乗ったらいいですよ。」と教えてあげたんですね。
そんな事を言っているうちに、僕が乗るための電車が来てしまったので、僕は慌てて自分の電車に乗りました。
しかし、しばらく経ってから僕は重大な事に気がついたんです。
路線によって、同じプラットフォームから違う目的地に向かう電車が来る駅がありますが、僕はそのお婆さんに、「○○行きの電車に乗って下さい。」と伝え忘れてしまっていたんです。
次に到着する電車が、運よく正しい行き先の電車だったらいいのですが、もしかしたらそのお婆さんは、違う行き先の電車に乗ってしまったかもしれない。
その事に気がついたのは、しばらく時間が経ってからだったので、そのお婆さんがどうなったかを確認する術は、僕にはありませんでした。
その事を考えると、「あの後、お婆さんは大丈夫だったんだろうか?」という事が気になると同時に、そのお婆さんに対して申し訳ないことをしたなぁと思うんですね。

親切心でする事でも、間違えた情報を伝えてしまうと、とんでもない結果をもたらしてしまいます。
私たちが道を聞く側として考えてみても、その人がいい人であるかということ以上に、その人が正しく道案内できるかどうかが問題です。
下手をすると、全く見当違いな所へ連れて行かれるかもしれませんね。

さて、聖書に出てくる預言者とは、神様の言葉を私たちに伝えてくれる、言わば私たちを神様へと導く案内人です。
私たちには、どの預言者に耳を傾けるかという事が重大な選択になってくるのではないでしょうか。
そういうわけで、今日はイエス様が私たちに教えてくれている事のひとつ、「にせ預言者に気をつけなさい。」という言葉を、一緒に考えてきたいと思います。

① にせ預言者
にせ預言者というのは、いつの時代にでもいるものです。
ルイ・ヴィトンやロレックスという本物があるところににせ物があるように、本物の預言者がいるところには必ずにせの預言者もいます。
もし私たちが、そのようなにせ預言者たちの言葉に耳を傾けてしまうと、滅びへと導かれる事になってしまいますから、私たちはそれを見分けなければなりません。

問題なのは、この人たちの言葉は実はとても耳触りがよく、それがにせ物だという事をなかなか見抜く事ができないという事なのです。
しかしイエス様が言うように、にせ預言者たちは、羊の格好をしていても、その実体は狼のように危険で、私たちを滅びへと導きます。

イエス様の時代、律法学者やパリサイ派のユダヤ人たちは、にせ預言者たちの代表でした。
だからイエス様は、彼らに対してこのような厳しい言葉で非難しています。

マタイ 23:27 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、23:28 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

律法学者やパリサイ人たちは、表面的には厳しい律法を守って正しい事を言っているように見えました。
だから、誰も彼らに逆らうことができなかったのです。
でも彼らが推し進めようとしていた教えは、実は自分たちを正しくし、人々を自分たちに従わせるためのものでした。
すべては神様のためのものではなく、自分たちのためのものだったのです。

現代のにせ預言者も、基本的には同じですがもっと巧みです。
表面的には、彼らの教えはとても魅力的で、受け入れやすく、場合によっては奇跡的な事も起こるかもしれません。
しかし、その教えの多くは神様でなく自分たちを崇めさせるためのものだったり、罪を否定して救いを不必要なものとし、むしろ私たちを神様から引き離すものなのです。

私たちは、その様なにせ預言者に従ってはいけません。
道路で間違えた道を教えられるくらいなら、道に迷ってしまうくらいの事で済みます。
しかし人生の道を間違えて教えられると、場合によっては身を滅ぼす事になりかねません。
聖書の話しだ、神様の話しだ、イエス様の名前が出ていると思って安心していると、実は滅びに至る道を歩まされているという事がありうるのです。
私達は、教えられた情報を正しく吟味して、ひとりひとりが真偽を見極めるようになっておく必要があるのではないでしょうか。

② 見分ける方法
では、どうやってそれを見分けたらいいのでしょうか?
イエス様はにせ預言者を、実によって見分けることができると話しています。

マタイ 7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

良い実かどうかを判断する基準のひとつは、教理的な教えです。
そこにイエス・キリストの名が語られていても、聖書を用いて話をしているようでも、聖書の全体像と矛盾しているのであれば、それが正しいと言うことはできません。

現代の異端の多くは、私達の中にある罪を否定したり、重要な事ではないように語ります。
また、イエス・キリストを神ではなく、ひとりの人として解釈するのも異端の大きな特徴のひとつです。
そして異端的な教えは、聖書の言葉の一部分だけを強調して、それが全てであるかのように教えます。
有名な話では、エホバの証人の方たちは「血を食べてはならない。」という律法を引っ張ってきて輸血をしてはならないと主張していますね。
それは聖書の全体像をちゃんと理解すれば、そのような事を言っているのではないという事がわかることなのです。

良い実かどうかを判断するもうひとつの基準は、彼らの生活の中で現れてくるものです。
ここで言う“良い実”とは、ガラテヤ書で書かれている御霊の実に繋がりますね。

ガラテヤ 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

枝が、根を張った幹に繋がっているなら、そこにはやがて花が咲いて実がなります。
私たちがキリストに繋がっているなら、御霊の実として、このような性質が私達の内側にできてきます。
牧師や教師の語る言葉が、愛や喜び、平安、寛容というよな性質を生み出すような事でないなら、私たちはその指導者や教師の教える事を、少し考え直してみる必要があるかのしれません。
また、その教えに従っていても、私達の内にこの様な性質が生まれて来ないのであれば、やはりどこかがおかしいのではないかと考えてみる必要があるかもしれませんね。

いずれにしても、私たちは牧師や教師の言葉を、考える事なく何でも鵜呑みにするのは危険です。
もちろん牧師には、聖書の言葉を注解する力と権威が与えられていますから、ある程度は信頼するべきでしょう。
でも一方で、「牧師の言うことは絶対だ」と教えられる教会もあるのですが、それはちょっと行き過ぎではないかなと僕は思うのです。
絶対なのは神様であり、聖書であって、牧師ではないからです。
また同時に私たち自身も、見極める目を持っていなければ、にせ預言者によってたやすく惑わされ、教会がカルト化してしまうのを止めることができません。
「少しずつでいいから、自分で聖書を読んでください。」とうるさいくらいに言われるのは、何よりもこの目を養うためなのです。

使徒の働きの中では、ベレヤという町の人々が、パウロの言葉を鵜呑みにしないで、自分達で聖書を読んで確かめた事によって、彼らの信仰が確かなものになったと書かれています。
私たちは聞いたことを自分で確認したとき、それを確かなものとして受け取ることができるのです。
皆さんが、偽預言者の言う事に簡単には騙されない、しっかりした関係をイエス様と築く事ができますように、心からお祈りします。
それは私たちが自分自身をにせ預言者から守るためだけではなく、牧師がにせ預言者になってしまうことから守るためでもあるのです。

③ イエス・キリストを告白する
さて、イエス様はさらにこのように続けています。

マタイ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

にせ預言者は、たとえばこの御言葉を引っ張ってきて、「見なさい。信仰だけでは救いはない。行いも必要だと書いてある。」というような事を言ってきますから気をつけてください。
考えてみれば当たり前のことなのですが、イエス・キリストの名を使ってさえいれば、すべてが正しいのではないという事がここで注意されている事です。

私たちに求められているのは、“イエス・キリスト”という名前を使うことや、“聖書の言葉”を引用することではありません。
イエス・キリストを救い主として信じ、聖書の言葉に従うという事です。
その中でも、私達が天の御国に行く方法として聖書が教えている事は極めてシンプルです。
ひとつには自分に罪がある事を認めること。
そして神の御子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、その罪が赦されたのだということを信じる事。
そして、イエス・キリストを主として生きるということです。

にせ預言者は、それ以外の事を救いの条件として持ち出してきます。
あるいは、罪を否定してイエス様の十字架がなくても救いはあるのだと教えます。
しかし、聖書はそのように教えてはいないのです。

この世界にはいろいろなものの見方があり、いろいろな価値観がある事は知っています。
全く違う世界観や宗教観を持っている方がいる事もうなづけます。
日本はまだまだスピリチュアルブームと言われていますから、テレビを観ていれば色んな事がまことしやかに語られ、不思議な業や奇跡が行われのも目にするでしょう。

でも、私たちが主イエス・キリストに繋がって、従う道を選んだのなら、私たちは他のものに惑わされるべきではありません。
だいいち、スゴイ事が起こるからといって、それが神様からの物とは限りませんね。

いろいろな事に惑わされて、自分の信仰がぶれてきているのではないかと感じたら、自分の立ち居地をもう一度確認してみてください。
私たちが向かっているのは、神様の元へ至る道でしょうか、それとも自分が神となるための道でしょうか?
私たちがくぐったのは、狭い門でしょうか、それとも広い門だったでしょうか?
私たちが手にしようとしているのは、救いでしょうか、それとも滅びでしょうか?

そして私たちの焦点が、自分自身ではなく、周りの人たちではなく、神様に対して当てられたとき、私たちは何所に向かって歩めばいいのかという事が、自ずと判ってくるのではないでしょうか。

みなさんが、惑わされることなく、真っ直ぐに主への道を歩めますように。

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