創世記11:27-12:9 『神の召しを聞く』 2008/07/06 松田健太郎牧師

創世記 11:27~12:9
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

山上の説教が先週までで終わって、今日からまた創世記に戻ってきましたね。
比較的最近いらした方もいらっしゃいますが、実はこの教会ではこの箇所を、1年半くらい前に一度学んだ事があります。
前回は聖書に登場する人物や背景、物語そのものに焦点を当てお話しました。
だからその時のメッセージを聞いている方には、創世記の話しはある程度全体像をつかめているだろうと思います。
教会のホームページから以前のメッセージを読むこともできますので、興味のある方は2006年度のスケジュールから読んでみてください。

そんなわけで、2年前には聖書の話をそのままお話していったような形となりましたが、今回はそれよりももっと身近なこと、私たちの周りに起こっている事に照らし合わせて考えていこうと思っています。

今日から8週間に渡って、アブラハムという人物を通して学んでいきます。
私たちがアブラハムの生涯から学ぶことができるのは、彼の信仰のあり方です。
そんなわけで、彼の人生の中から、神様への信仰について共に学んで行きたいと思います。

① 神様に従う
さて、信仰の父として知られるアブラハムですが、今日の話しはまだそのような信仰を明らかにする前の話。
彼がまだ、アブラムという名前で呼ばれていた頃の話しです。
お父さんの名前はテラで、ナホルとハランという兄弟がいました。
そして、アブラムにはなかなか子供ができませんでしたが、サラという奥さんがいました。
彼らは最初、カルデラのウルという町に住んでいましたが、やがてカランと呼ばれる地に移り住んだと書かれています。

ある日、神様はアブラムに語り掛けました。
「あなたは生まれ故郷を出て、わたしが示す地にいきなさい。」
そして、アブラムは残った家族と、カランで加えられた新たな人々を引き連れて、神様が示す地へと旅立ったのです。

このように、聖書の流れだけを追っているとずいぶん簡単な感じがしますが、当時の人たちにとって、町から町へと移り住むという事は、大変な事だっただろうと思うのです。
ここを出たら、二度と戻ってくることはないかもしれない。
場合によっては、目的地にたどり着くこともなく盗賊に襲われて終わってしまうかもしれない。
それでもアブラムは、自分の故郷を離れて旅立ちました。

安全や安定だけを考えたら、とどまる事が一番の正解だったと思います。
危険なところに行く必要はないし、商売も故郷では取引先がすでにあったでしょうから、それなりに生きて行く事ができたはずです。
しかし、危険を冒してでも、アブラムは旅立ちました。
アブラムはただ神様を信じて、その導きに従ったのです。

クリスチャンとして生きるという事は、狭き門をくぐる事だというお話を何週間か前にしました。
罪のある私たちは、自然のままでは誰も、神様に従う生き方をしません。
ですから、私たちがクリスチャンとして生きるという事は、多くの人たちが選ぶ今までの生き方ではなく、それとは違う道を歩み始めるという事なんです。

漁師だったシモン・ペテロがイエス様と出会った時、イエス様は「私についてきなさい。あなたを人を捕る漁師にしてあげよう。」と言われました。
そしてペテロは自分の網を置き、イエス様についていく道を選んだのです。
同じように、私たちは人生のどこかのポイントで主と出会い、イエス様についていく道を選ばなければなりません。

私たちのうちのほとんどは、今の仕事を捨てなさいと言われているわけではないですよね。
しかし、自分が自分の主人だった今までの生き方を捨てて主に従うという事は、同じくらい大きな方向転換だと思うのです。

ここしばらく毎回お話していますが、クリスチャンとしての信仰に必要なものを3つご紹介しました。
まず一つ目に、自分の中に罪がある事を認めるということ。
二つ目に、イエス・キリストが十字架で流された血と、私たちのために捧げて下さった命とによって、私たちの罪は赦されたという事を信じて受け止める事。
そして三つ目に、イエス・キリストを私たちの主とするという事でした。

主に従って生きる生き方の、最初のステップがここにあります。
まだその道を歩み始めていない方がいらっしゃるなら、今日こそその選択をする時なのかもしれません。
どうか今、その道を歩み始めてください。
皆さんがこの福音を受け入れて、イエス様を主とする生き方を始めるなら、神様はみなさんの人生に大きな祝福を与えてくださいます。

② 知らないで出て行く
さて、礼拝の冒頭で読んでいただいた聖書箇所でもあるのですが、ヘブル人への手紙の著者は、アブラムのこの出来事に関してこのように書いています。
ヘブル11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

こうして見ると驚くのは、神様が最初「故郷を後にして旅立ちなさい。」とアブラムに命じたとき、彼は最終的な目的地を教えられていなかったという事なんです。
アブラムは目的地を知らないまま神様に従い、故郷を出ました。
この行動力には驚かされますね。
普通なら、「なぜ。」とか「どこへ行くか。」という事を知るのでなければ、なかなか動き出せなかったりします。
しかしアブラムは、心の内にはそのような疑問や不安をもっていたかもしれませんが、少なくともそれを表に表す事もなく、“主がアブラムにお告げになった通りにでかけた。”そのように書かれています。

アブラムがどこに行くのかも知らないで、それでも神様の言葉に従う事ができたのは、彼が神様を畏れ、信頼していた事の証しです。
主が命じられるなら、それに従う。
主が行きなさいというなら、その結果は大丈夫だという神様への信頼。
そこに信仰があります。

私たちは、「私の生きる目的とはなんだろう。」と考えこんでしまったりしないでしょうか。
自分は何のために生き、神様は何のために私を創造したのだろうか、自分の人生のゴールが一体どこにあるのかという事が気になって立ち止まってしまう事はないでしょうか。
でも、例え私たちがそれを知らなくたって、私たちの目的地は、神様がすでに知っているのです。
私達は神様に信頼して、その結果をすべて委ねて、信仰をもって動き始めればいいのです。

信仰をもって歩みを進めた時、アブラムにはカナンという目的地が示されて、アブラムは行くべき方向を見出しました。
そしてアブラムはカナンに向かったのです。
でもそこが最終的なゴールだったわけでもありません。
神様は次にはベテルの東へ、さらにネゲブへとアブラムを導きました。
もちろんそこも、最終的な目的地ではありませんでした。

私たちが神様とともに進むなら、神様はこのようにして、私たちに目標を与えます。
それは“人生の目的”という様な大きなものではなく、今の自分に相応の小さな課題です。
それは時には忍耐する事であったり、人を愛する事であったり、人を赦す事だったり、それが私たちの生きる目的とは言えませんが、そのために必要不可欠な通り道です。
私たちは、そのようにして与えられた目標を、ひとつひとつクリアしていけばいいのです。
神様はこのようにして私たちを導き、私たちを成長させ、私たちとの関係を深めてくださいます。

生きる目的とか、大きな目標を考え始めると、私たちはついつい自分が何をするかという事に焦点を当ててしまいがちです。
でも、そんな事よりももっと大切な事があります。
それは、私たちが、私たちの全てを知っている神様と共に歩むという事です。
私たちは神様との愛の関係をもち、それを深めるために生まれ、生きている。
それそのものが生きる目的という事ができるかもしれません。

それこそ、アブラムがこの時から歩み始めた信仰の道です。
私たちもその様な人生を生きる事ができます。
その様な人生を生きるように、招かれています。
私たちが何をしたかという相対的な価値観ではなく、私たちの存在そのものを愛してくださる神様と共に歩んでいきませんか。

③ 私たちが受ける祝福
ところで、神様に従う事に躊躇してしまう方も少なくはありません。
神様に従う道を歩んだら、とんでもない茨の道を進まされるんじゃないだろうか。
もしかしたら神様は、アフリカに宣教師として送り出そうとするかもしれない。
そんな不安があるからこそ、どこへ連れて行かれるのかを知らないで神様に従うなんて事は、なかなかできないと思ってしまうのかもしれませんね。

でも聖書に書かれている事を見ていると、人々が神様に従う事によって不幸になるより、従わない事によって大変な目に合うことのほうがずっと多いように思います。

ヨナはニネベに宣教師として行く事を拒んだ結果、船は嵐に巻き込まれ、ヨナは海に投げ出されて大魚に飲み込まれる事になってしまいました。
イスラエルは何度も神様に逆らった結果、幾度もほかの国の支配下となって、しまいには他の国に連れ去られてしまったりしました。
いや、神様に逆らうとひどい目に合うという事が言いたいわけではありません。
しかし大胆に神様に従った人々には、たくさんの祝福も与えられた事を知っていただきたいのです。

神様の言葉に従ったアブラムには、このような約束がされました。

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
さらにカナンでは、このように約束されました。
12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

妻のサラは不妊で子供ができず、アブラムはすでに75才となっていました。
そんな悩みの中にあった夫婦に子供が授かるというだけでどれ程大きな喜びだったでしょう。
しかも彼らの子孫は大いなる国民となり、全ての民族がアブラムによって祝福されると約束されたのです。
アブラムの子孫からイエス・キリストが生まれ、その約束は成就しました。
その祝福を、現代生きる私たちも経験しているわけですね。

私たちが主に従うとき、そこには必ず祝福が与えられます。
もちろん、祝福のために神様に従うわけではありませんが、従う事によって不幸になる事を心配する必要はないのです。

私たちが歩む信仰の道は、確かに険しく、安全な道のりだとは言えません。
時には飢え、時には乾き、ギリギリの生活を強いられる事もあるでしょう。
アブラムの生涯が冒険の人生だったように、私たちの人生も信仰の冒険の連続です。
しかし私たちは、ひとつひとつの選択を主にしたがってしていくなら、私たちは喜びをもって目的地にたどり着く事ができるはずです。

次の一歩を、信じて歩み始めたとき、いったい何が見えてくるでしょうか。
その歩みが、祝福にあふれた一歩となりますように。

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