創世記13:1-18 『アブラハムとロト』 2008/07/13 松田健太郎牧師

創世記 13:1~18
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

みなさん、最近けんかしたのはいつでしょうか?
僕がするけんかはほとんど夫婦げんかしかありませんが、夫婦喧嘩の数は、決して少なくはないだろうと思います。
でも、僕の家庭でけんかする時には、ひとつの暗黙のルールがあるんですね。
それは、けんかを次の日に持ち越さないと言う事です。
けんかというのは、大体自己主張のぶつかりあいだったりしますから、どんなけんかも考えてみると原因はそれほど深刻な事ではありません。
まぁ、時には感情がもやもやしたまましばらく続く事もありますが、ほとんどのけんかに関しては、ある程度の時間が経てばけんかの理由さえ忘れてしまいます。
みなさんはどうしてますでしょうか?

イエス様は、山上の説教の中でこの様に言っています。

マタイ 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
人の争いは大きな規模になると、民族間の紛争や国同士の戦争になっていきます。
私たちはその様な中で、ひとりひとりが争いを避け、平和作り出すことを考えていく必要があるのかもしれませんね。
今日は、アブラムと甥のロトとの関係から、平和を保つ事を学んでいきたいと思います。

① 距離をとる
さて、神様からの選ばれ、祝福を約束されたアブラムたちですが、彼らは、家畜、銀、金とに非常に富むようになっていったと書かれています。
羊飼いを生業としてた彼らは、羊の群れもたくさん増えていきました。
アブラムもひとりの人でしたから大きな失敗をすることもありましたが、神様と共に歩む道はたくさんの祝福にあふれた生き方でもあったのです。

しかし、豊かであるからこそ経験しなければならない悩みもありました。
大家族と大きな荷物、そして何より羊の大きな群れを従えて生活するには、それなりの土地が必要だったのです。
彼らの牧畜は放牧でしたから、十分な草がないと、羊たちがすぐに飢えてしまいます。
彼らはどんどん豊かになっていく中で、十分な大きさの土地を見つける事が難しくなってきていました。
そんな中で、アブラムの家の羊飼いたちと、甥であるロトの家の羊飼いたちとの間で争いが起こり始めてしまったのです。

貧しい生活をしながら協力して生きている間は仲良くしていた家族が、お金持ちになるにしたがって争うようになっていったという話は、何となくわかるような気がしますね。
仲のよかった兄弟たちが、遺産を巡って憎み合うようになっていったという話を、僕自身わりと身近で聞いた事があります。
私たちは豊かさを求めて努力し、つらい事にも耐えて仕事をするのですが、豊かさがそのまま私たちの幸せにつながるとは限りません。
もちろん豊かである事が悪い事なのではありませんが、私たちは豊かさの中で学ばなければならない事もあるという事でしょうね。

そんな中で、アブラムはロトにひとつの提案をします。

13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。

ロトのお父さんハラン(カラン)は、アブラムのお兄さんでもありましたが、すでに死んでしまっていました。
忘れ形見とも言えるロトを守る事は、アブラムにとって責任でもあり、亡き兄への愛を示す証でもありました。
だからこそ、アブラムはロトと争いたくはありませんでした。
しかも周りにはカナン人やペリジ人という他民族の人々も住んでいましたから、親族同士で争うような弱みを見せたり、証とならない事を示す事は避けたい事でもあったのです。
そこでアブラムは、ここで分かれてそれぞれの道を進むべきだと提案しました。

13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

私たちが人との争いを避ける上で、最善の方法のひとつは互いの距離を置くという事です。
人にはそれぞれの適切な距離感というものがあります。
互いの距離が近すぎると、何か窮屈に感じたり、互いの余計な部分にまで目が行ってしまう事もあります。
また、限られた中で自分の居場所を確保しようとするのですから、どうしてもそこに争いが起こってしまいますね。
そんな時には少し距離を開けた方が、人間関係がうまくいくという事もあるのです。

個人差はあるのでしょうが、日本人にとって、お互いの存在を阻害しない適切な距離は3mくらいだそうです。
定年退職したお父さんが家にずっといると、主婦をしていたお母さんはいつもお父さんと一緒にいなければならないのでわずらわしくなる事もあるといいますね。
そんな時、意識していつも3mくらい離れていると、あまりお互いの事を意識しすぎる事もなく、かといって赤の他人ではなく、仲良く暮らしていけるなんていう話を聞いた事があります。
「一緒にいても苦痛なだけだから離婚しよう」とかいう決断ではなく、互いにある程度の距離感をもてば、一緒に仲良く生活していく事もできるのだと思うんですね。

アブラムの提案はまさに、けんか別れしようと言うのではなく、互いに適切な距離をもって生活しようと言う申し出でした。
そうすれば、互いに争いを起こすことなく、互いの存在を尊重して生活していく事ができるからです。

② 争いを避けるために
さて、アブラムはロトの叔父であり、年長者でした。
ですから、誰がどこに行くかという決定権は、アブラムの方にあったはずです。
しかしアブラムがロトに提案したのは、ロトがどこに行くかを選び、自分はそれとは反対の方向に行くという事でした。

その時アブラムとロトの東に広がっていたのは、ヨルダンの低地に広がる豊かな土地。
一方西には、山が続く、赤茶けて痩せた土地が続いていました。
ロトはそれを見て、低地に移り住むことを選びました。
これは、当然といえば当然の選択ですね。
ロトもたくさんのしもべや家畜を養わなければなりませんでしたから、選ぶことができるなら豊かな土地を選ぼうと思うのは当然のことです。

争いが起ころうとしていたとき、もしアブラムが常識的に、「私はこっちの道を行くから、お前たちは反対の方向に行きなさい。」と命じていたとしたら、しもべ達の間での反目は決してなくならなかったでしょう。
ロトのしもべたちはアブラムたちを妬み、うらみ続けて、やがてはロトとの間に争いが起こるようになったかもしれません。
そういう意味では、アブラムがとった選択、ロトに行く道を選ばせるというのは争いを避けるという事に関して見事な選択でした。

ここで描かれているのは、アブラムとロトの内どちらの選択の方が正しくて賢かったのかという話ではなく、純粋にアブラムのロトに対する愛情であり、思いやりだと思います。
アブラムは敢えて自分が身を引き、ロトに豊かな地を選ばせたのだろうと思うのです。
Iコリントに書かれている、有名な愛の話を思い出します。

Iコリント 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
私たちがこのような愛をもって人々と接する事ができるなら、そこに争いが起こる事はないだろうと思うのです。

間違えてはならないのは、ただただ争いを避けようとするばかりに相手の顔色をうかがって、言いなりになる事が正しいのではないという事です。
「自分さえがまんしていれば、みんな争いがなく幸せになれるんだ。」という考え方はどこかで無理が生じ、返って関係をおかしくてしまいます。
八方美人や事なかれ主義は、あまりいい言葉としては使われませんよね。

何が違うのかといえば、それは動機が大きく違うのです。
争いを避け、平和を作るという事は、純粋に相手に対する愛情からくるものです。
だからそれが相手の自立を損ねたり、相手のためにならない事であれば、間違いを正したり時には議論する事も必要です。
しかし、八方美人や事なかれ主義は、争う事に対する恐れや、嫌われたくないという自己保身から来たものです。
だからそこには依存的な関係が生まれてしまったり、怒りやストレスが後になって突然爆発してしまったりするのです。

愛には犠牲が伴います。
しかし、その様な愛にこそ、人を変え、平和を作り出す大きな力が宿っているのです。

③ どの道を行くのか
さて、このような経緯を辿って、彼らはそれぞれの地へと別れていきました。
この後の話を知っている皆さんにはわかる事ですが、この選択が彼らの人生を大きく変えることになって行きます。
ロトが選んだソドムの街はやがて滅ぼされ、カナンに移り住んだアブラムは、さらに豊かさを増し加えられていくのです。
でもこの時点では、ロトが豊かな土地を選んだのは間違いだったとか、アブラムが貧しい方を選んだのでそれが正解だったという事はできないと思うんです。

私たちは自分の進路や行動を考えるとき、祈ったりしながらも悩むときがあります。
それは、私たちがひとつの選択をする事によって、私たちの人生が大きく変わると考えるからですね。
それはある程度間違いではないと思いますが、でもそれを考えすぎると、アブラムがしたようにロトに進路を選ばせるなんて、恐ろしくて絶対にできない事だと思いませんか?
自分の選択が自分の人生をすべて決めてしまうのではなく、主が共にいて下さるなら大丈夫だという神様への信頼が、私たちには必要なのです。

私たちは、自分の人生を振り返った時、「あの時にこっちの道を選んでいれば。」と後悔して、眠れなくなってしまうような事はないでしょうか。
あるいは先の事を考えて、「どっちの道を選ぶのが正しいのだろう。」と思い煩ってはいませんか。
でも私たちには、以前の事を変える事はできないし、先の事を予め知る事もできません。
どれだけ悩んでも変わらないものは決して変わらないし、答えの出せないものは、決して答えを出す事ができないのです。

私たちとって、どちらの道を選ぶかということよりも大切な事があります。
それは先週もお話した事ですが、その道を誰と行くかという事です。
どんな素晴らしい道を選んでも、その道に神様がいなければ意味がありません。
そして主が共にいて下さるのなら、例え死の影の谷を渡る時だって、私たちは恐れる必要はないのです。
更に言うならば、もし私たちが主の御心にそぐわない道を選んでしまったのだとしても、私たちはそこで悔い改めて引き返す事ができるのです。

インマヌエルという言葉があります。
それは、“主が共におられる”という意味の言葉ですね。
私たちの神様は、インマヌエルの神様です。
クリスチャンの人生は、主とともに歩む人生なのです。
だから私たちは、“自分が”“自分が”と自己主張ばかりする必要はありません。
神様はもう、私たちが誰かを愛する以上に、私たちを愛してくださっているのですから。

父なる神様が、私たちを愛し、私たちとの平和を作り出すために支払った犠牲を考えてみてください。

コロサイ 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

これ程までに私たちを愛して下さっている神様が、私たちを思ってくださらないなどと言う事があるでしょうか。
どうか、皆さんが歩む道を主と共に歩んでください。
羊飼いなる私たちの主は、私たちを必ず安全な牧場へと連れて行って下さるはずです。

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