創世記18:16-33 『ロトのために祈る』 2008/07/27 松田健太郎牧師

創世記 18:16~33
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
18:26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
18:33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

もし、みなさんの大切な人や、愛する人の上に危険が迫っている事がわかったら、みなさんはどうするでしょうか?
その人の住んでいる町が滅ぼされてしまう事がわかっていたら、私たちはどうするでしょうか。
今日は、アブラハムがそんな場面に直面したときの話から学びましょう。

① 厳しさと愛
少し先週までのお話の復習をしたいと思います。
アブラハムは、彼の子孫が数え切れないくらいに増えて、全世界は彼の子孫によって祝福されるという神様の約束を心待ちにしていました。
最初にされた約束から25年が経った時、そんなアブラハムのもとを三人の御使いが訪れました。
彼らは、アブラハムの元に来て、「来年子供が生まれる。」と告げ知らせたのです。
しかしアブラハムと妻のサラは、最初それを信じることができませんでした。
その時彼らはおじいさんとおばあさんになっていて、子供を生む事など絶対に不可能だと思えたからです。
「しかし主は、その約束を必ず果たしてくださる。」という確信と共に、先週のお話が終わったのでしたね。

さてアブラハムと、約束の成就を知らせに来た御使い達には別れの時が近づいていました。
アブラハムは彼らを見送るために、しばらくの間一緒に歩いたのでした。
そしてアブラハムは、この三人と共に丘の上に通りかかったのです。
それはいつか甥のロトと別れた時に立っていた丘だったのかもしれません。
そこからは、ロトが移り住んでいったソドムの地を見下ろす事ができました。
そこで神様は、アブラハムに重大な計画を打ち明けたのです。

創世記 18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

それを聞いたとき、アブラハムは神様の計画を理解しました。
神様は、ソドムとゴモラに裁きを下そうとしていたのです。

私たちは、聖書の神様は愛の神であると聞きます。
その愛の大きさと恵みの素晴らしさに関して、私たちは疑う余地がありません。
しかしその一方で、私たちは神様が義なる神であることも忘れてはなりません。
神様は、正しいことを喜び、悪を憎まれる方だという事です。
私たちはどうしても、その一方に偏りすぎてしまう傾向があるのではないでしょうか。

ある人たちは裁きのことばかり気にして、恐怖心に近い形の信仰を持っています。
別の人たちは、赦しと恵みだけを話題にして、私たちの中に罪があるという現実から目を背けます。
しかし、神様は悪を憎む正しいお方であり、しかし憐れみと愛に満ち溢れているというその両方を押さえるのでなければ、私たちの神様を本当に理解する事はできません。

私たちは“裁き”という事だけを聞くと、何だか恐ろしくなってきてしまったり、神様は心が狭いとか堅苦しいと思うかもしれません。
でも、悪や不正がはびこり、正しい事をしている人たちが虐げられるような世界には、本当に愛があると言えるでしょうか。
神様はその様な不公平な状況を、決して好まれないのです。

それと同時に、私たちもまた罪人であり、罪は裁かれなければならないという事を知っているのでなければ、罪が赦されるという事の素晴らしさも理解する事ができないのではないでしょうか。

最近、子供を叱らない、叱れない親が増えてきているという話をよくききます。
褒めて育てるという事は、とても素晴らしい事ではありますが、悪い事をしても叱らないでいると、子供は善悪の認識ができなくなっていきます。
また、褒められる事が当たり前のことになって、褒められても喜びを感じられないし、ちょっと叱られただけでも傷ついてしまうようになっていきます。
もちろん叱ってばかりいても逆の事が起こってしまうだけですから、バランスが大切なわけですね。

私たちの神様は、確かに愛に満ち溢れた天のお父様ですが、私たちを甘やかせて叱れない父親ではないのです。
そしてもちろん、理不尽に怒り狂って私たちを懲らしめるというような父親でもありません。
その絶妙なバランスの中でこそ、私達は天のお父様の愛を、より深く知っていくことができるのです。

② 裁きの知らせを打ち明ける神様
さて神様は、ソドムとゴモラに下そうとしている裁きを、あらかじめアブラハムに告げ知らせました。
神様には、それをアブラハムに伝えなければならない義務などあるはずがありません。
どうして神様は、アブラハムにそれを伝えたのでしょうか。

聖書にはこの様に書かれています。

アモス 3:7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
アブラハムは神様のよきしもべでした。
神様は目的を持って、そのしもべを動かすために、計画を予めお知らせになるのです。
しかし彼がよきしもべだったというだけでもありません。

ヤコブ 2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
アブラハムは実に、主のよきしもべ、主の預言者、主の友として信頼され、主の御心をあらかじめ示されたのでした。

また、今日の聖書箇所の中では、アブラハムに裁きを予め知らされたことに関しての特別な理由も書かれています。

18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべては彼によって祝福される。」
それが神様の計画であり、約束でした。
アブラハムが主の祝福によって強大な国民となるのは、ただ彼自身の祝福としてそうなるのではありません。
それによって地すべての国々が祝福されるようになる、という結果の部分が大切なのです。

主が、アブラハムに御心を知らせた理由のひとつは、彼を通して地のすべての民が、「主は義と愛の神である」という事を知るようになるためでした。
その中で、彼は子孫たちに悪から離れ、主の御心に従って歩む「神の民」となっていくように教えていかなければならなかったのです。
その様な使命と責任が与えられていたからこそ、アブラハムには主の御心が知らされ、それを世界に継げ知らせなければならなかったのです。

その使命は今も、血の繋がりによってではなく、信仰によってアブラハムの子孫となった私たちにも受け継がれています。
私たちはひとりでも多くの人たちに、福音を述べ伝えるという事と、神の民として、主に従う生き方をしていく使命と責任を受けています。
それは、宣教命令と教会形成という言葉で言い表されるかもしれません。
私達にはその様な使命とともに、主と深い関係を築いて御心を知り、共に語り合う特権を与えられているのです。

イエス様はこの様に言いました。
ヨハネ 15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
私たちもまた、イエス様のよきしもべであり、友なのです。

③ とりなしの祈り
計画を知らされたアブラハムは、祈りの内に主に語り掛けました。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」

神様の計画に対して、意義を唱えて食い下がるようなことを、アブラハムは言いました。
そんな不遜で、ずうずうしいことが許されるのでしょうか?
それどころではなくアブラハムは、「50人が45人だったら」、「40人ではどうか」と数を減らしていき、ソドムとゴモラに神様に従おうとする者が10人でもいれば、町は滅ぼさないという約束までこぎつけてしまいました。
神様相手に、値切ったり交渉するような事をして、大丈夫なのでしょうか?

この様に、人のために祈る祈りを、とりなしの祈りと呼びます。
アブラハムがこのようにとりなす事ができたのは、神様は正しい方だから間違えた事を赦されるはずがないという確信と、神様の憐れみ深さを信じた信頼があったからです。
これが全く個人的な欲望からきた事に関する祈りだったら、交渉の余地など全くなかったことでしょう。
しかし自分が主の怒りを買ってでも人々を救いたいというその思いは神様の心に届きました。
そして主は、決して怒ってアブラハムを退ける事もなく、10人でも正しい者がいれば町を滅ぼさないと約束したのです。

私達は、聖書の中でこのような多くのとりなしの祈りを見ます。
モーセは、偶像の罪に走ってしまったイスラエルの人々をとりなすために、この様に祈りました。
出エジプト 32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

パウロもまた、同胞達が救われるなら自分が代わりに呪われても構わないと語っています。
ローマ 9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

ここまでではないにしても、私達は身の周りの人たちのために祈っているでしょうか。
ご家族や、友人たちのため、何よりも彼らの救いのために祈っているでしょうか。
彼らがまだ信仰をもっていないのであれば、彼らのために祈ることができるのは、私たちだけです。
私たちの家族は誰に祈ってよいかも、どうやって祈ったらいいのかも知りません。
彼ら自身が祈れないなら、私たちが彼らのために祈ることは、私たちの責任なのではないでしょうか。

自分のためには祈れても、なかなか人のためには祈れないという方もいるかもしれません。
中には、「自分のことを祈るのが精一杯で、他の人の事を祈っている余裕がありません。」という方もいらっしゃるかもしれません。
でも実は、自分のことばかりをどれだけ祈っていても、自分自身が満たされないという事があるものです。
人のために祈り始めたとき、自分の中の何かが変わり始めるということもあります。
その様なとりなしの祈りの中で、私たちは赦せなかったあの人の事を赦せるようになっていくかもしれません。

そして、私たちのためにとりなして祈っていてくださる方がいるのを忘れないでください。
パイク先生ご一家、トマス先生とご家族、ヤング先生と教会のみなさんがいつも私たちのために祈っていてくださいます。
しかし何より最大のとりなし手は、私たちの主イエス・キリストです。
ローマ 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

私たちも神様の愛の深さと憐れみを信じて、人々のため積極的に、大胆に、とりなして祈ろうではありませんか。
互いに祈りあうことができるという事は、私たちに与えられたすばらしい恵みなのですから。

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