創世記25:19-34 『エサウとヤコブ』 2008/10/15 松田健太郎牧師

創世記25:19~34
25:19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。
25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。
25:21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。
25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。
25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
25:24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。
25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。
25:26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
25:27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
25:28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。
25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

今、渋谷駅の構内で、壁の大改装をしている場所があります。
今年の秋に改装工事が終わる予定なのですが、その場所が渋谷駅の新しい顔になろうとしているんです。
今そこに設置されているのは、岡本太郎という日本を代表する芸術家が書いた、『明日の神話』という壁画なんですね。
この壁画は、万博で公開された太陽の塔と対を成す作品で、岡本太郎の最高傑作だと言われています。
しかしその壁画、実はつい5年前までどこにあるのかがわからなくなっていました。
作品自体は1968年にメキシコで製作されていたのですが、そこから35年もの間、持ち主を転々として、2003年に見つけられた時には何と粗大ごみと一緒に放置されていたのです。
岡本太郎の絵を見た事がある人はわかると思いますが、確かに芸術のわからない人には価値がわからないような抽象画が彼の作品スタイルです。
日本を代表する芸術家の作品がゴミとして扱われてしまっていたと言うのは悲しい限りですが、価値のわからない人には、大きな落書きとしか見えないものなんですよね。
私たちもやはり、ピカソやオキーフといった芸術家の作品を理解するためには、かなりの芸術センスが必要です。
音楽に関しても、ちゃんと聴く耳を持つ人にはクラシック音楽を鑑賞することができますが、私達はもっとわかりやすい歌謡曲とか、Jポップしか聴かなかったりしますね。
本物の価値と言うものは、誰にでも簡単に理解できるものだとは限らないのです。

① 目に見えぬものの価値
さて、今日からのシリーズの主人公は、“イサクから出るものがアブラハムの子孫と呼ばれる”と言われたイサクの子供が中心となってきます。
エサウとヤコブという双子の兄弟ですね。
このふたりはお母さんのお腹の中にいた時から互いに争いあっていたのですが、生まれてきてみれば双子でありながら、見た目も性格もまったく違う二人だったのです。
先に生まれてきた子供は毛むくじゃらで生まれてきたのでエサウと名づけられました。
エサウは狩猟が好きで、野の人となりました。
次に産まれてきた子供は、兄よりも自分が先に生まれてやるとばかりに、お兄さんのかかとをつかんで産まれてきました。
そこで彼にはかかとをつかむという意味のヤコブという名前がつけられました。
ヤコブは穏やかな性格で、両親と共に天幕で過ごしました。

そんなある日、こんな事がありました。

25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

長子であるという事は、ひとつには弟の倍の財産を相続できるという事を意味していました。
しかしそれ以上に重要だったのは、子孫が星の数や砂の数ほどに増やされて大いなる国民とされるという約束を受け継ぐという事、カナンの地にいずれ住むようになるということ、そしてメシアの家計に名を連ねるという事です。
しかし財産を相続するという以外の事に関しては、彼らが生きている間には見ることもできない事です。
まだ見ぬものを信じようとするのでなければ、それ程大切な事だとは思えないかもしれません。

エサウは、今の自分には関係がない事や、見ることもできない抽象的な祝福などというものよりも、今自分の腹を満たしてくれる煮物の方が大切だと考えました。
「何だか目に見えないような、よくわからないものよりも、今腹の中に入れられるものがあればいい。」それがエサウの価値基準だったのです。
エサウは目先の事に心を奪われて、本当に大切なものないがしろにしてしまったんですね。

② 私達の思いと、神様の計画
さて、話を展開させていく前に、もうひとつの事を話しておかなければなりません。
このイサクとリベカの家庭では、ひとつの問題を抱えていました。
それは、父のイサクはエサウを偏愛し、リベカはヤコブを偏愛していたという事です。
恐らく、夫婦間でも問題があったのでしょう。
この家庭問題が、この双子の問題をさらに大きなものとしてしまう事になります。

それから何年も経ち、自分の死が近い事を知ったイサクは、エサウを呼び寄せて長男としての祝福を授けようとしました。
この時イサクは、みんなにその事を話すのではなく、独断的にすべてを進めてしまおうとしたのです。
一方でそれを知ったリベカは、愛するヤコブこそがその祝福を受けるべきだと考えて策略を練ります。
リベカはヤコブに、エサウの晴れ着を着せました。
そしてその首と手に子ヤギの皮をかぶせ、目の不自由なイサクを出し抜いて、ヤコブに祝福を与えさせようとしたのです。
そうしてイサクは、エサウだと思い込んでヤコブの方に祝福を与えてしまい、それを知ったエサウは悔しがってヤコブを殺そうとするようになるんですね。

この物語は、なかなか多くの人に理解されないできたと思います。
それは、神様の祝福が実際にヤコブの方に与えられ、騙された形となったエサウは祝福を失っただけでなく、彼のほうが悪いかの様に聖書の中で描かれているからでしょう。
ヘブル人へ宛てた手紙の中にはこの様に書かれています。

一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。(ヘブル 12:16)

これはどういう事なのでしょうか?
その部分をまず明確にしておかなければならないと思います。

私達はまず、エサウとヤコブが生まれる前に与えられた言葉からしっかりと把握しておかなければなりません。
お腹の中で暴れる双子に心配した祈りに答えて、神様はリベカにこの様に言っているのです。

25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」。

リベカとヤコブがエサウから長子の権利を騙し取るまでもなく、ふたりが生まれるよりも前から、神様の選びは兄にではなく、弟のヤコブに与えられると決められていました。
イサクがエサウに祝福を与えようとしたのは、全く自分の思いから来た事であって、神様の御心にかなうものではなかったのです。
そして、リベカとヤコブが騙し取ったから、祝福がヤコブに与えられたのではありません。
それどころか、リベカとヤコブがイサクとエサウを騙したので、ヤコブは命を狙うエサウから逃れるために故郷を逃げ出し、遠く離れた地に住むことになります。
彼らが自分達の思いからした事が、返って祝福を遠ざける事になってしまったのです。
エサウ自身も、その権利を煮物と交換にしてしまうほどにしか、最初は考えていなかったはずです。
それを今更悔しがってヤコブを憎むのは、逆恨みもいい所です。

まったく、私達の思いとは何と神様のご計画から外れた所にあるものなのでしょうか。
しかし、私達の思いによってどの様にそれを変えようとしても、神様の計画は必ずそこに実現するものなのです。

③ それぞれに与えられている祝福
私達には、それぞれ与えられている祝福というものがあると思います。
ヤコブには、生まれる前から長子としての権利と祝福が与えられるように約束されていました。
ヤコブがそれをエサウから奪ったからでもなく。
ヤコブの方がいい人間だったからでもありません。
それは何も彼だけに限ったものではなく、神様の祝福が弱い者の方に注がれるのが、聖書の中に描かれている恵の法則なのです。

一方で、エサウは神様に忘れられていたわけでも、ないがしろにされたわけでもなく、彼には彼に与えられるはずの祝福があったはずでした。
しかし残念な事ですが、エサウは祝福に溢れた人生を送ったとは、聖書には書かれていません。
エサウの子孫はエドム人としてひとつの民族を形成していくに至りますが、やがてイスラエルの敵となり、歴史から消えていく運命をたどります。
なぜでしょうか?

神様の祝福に対する彼の価値観、態度がそれを現しています。
長子の権利を放棄したという事自体が悪かったのではありません。
神様が与える祝福なんてどうだっていいという姿勢に問題があったのです。
このようなイエス様の言葉があります。
聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、 真珠 を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

豚に真珠という諺の語源ですね。
それがどんなに素晴らしいものであっても、そこに価値を見出すことができなければ、私達はそれを受け取ろうとせず、むしろ疎ましいと思ってしまうものなのです。

神様の祝福に対するエサウの価値観は、最初から「どうでもいい。」というものでした。
ヤコブに騙されたと知ってから、エサウはことを嘆きますが、それは祝福の価値を理解したからではなく、奪われて失ったという事に対する怒りでしかありません。

神様ご自身を始めとして、神様が与えてくださる愛、恵、祝福と言った事の多くは、目に見えず、耳にも聞こえる事のないものです。
例えば、今私たちに与えられている健康や、人間関係は、失ってしまうまでその素晴らしさを理解できなかったりしますよね。
だからこそ、私達は今見ることができなくても、すでに与えられている祝福を喜び、感謝する必要があるのではないでしょうか。
失ってしまったものや、与えられなかったことを嘆くのではなく、神様が私たちに与えようとしているたくさんの祝福に価値を見出す必要があるのではないでしょうか。

人間的に見るなら、エサウは決して悪人だったわけではなく、もしかしたら裏表がなくて付き合いやすい男だったかもしれません。
しかしエサウは、本当に本当の宝に価値を見出す事ができず、目の前のものに心を奪われ、真の祝福に背を向けてしまいました。

ヤコブは、表面的には穏やかに見えても中身は姑息で、父と兄を騙す嘘をつきました。
しかし彼は、神様の祝福に価値を見出し、貪欲なまでにそれを求めたのです。
神様の愛と恵は、等しくふたりの上に注がれていました。
一方をそれを受け取らず、もう一方はそれを受け取った、それだけの事なのです。

私たちひとりひとりの上にも、主の愛と恵は注がれています。
私たちそれぞれに与えられた、それぞれの形の祝福があります。
そして何より、罪の赦しと永遠のいのちという、等しく与えられた恵があります。
皆さんはそこに価値を見出し、喜びをもって受け止める事ができるでしょうか?
それとも、目に見えるものにやお腹の中に納まるものに目を奪われて、価値あるものをゴミ箱に追いやってしまうでしょうか?

助けとなる聖書箇所を読んで、今日のメッセージを終わりたいと思います。

マタイ 6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

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