創世記39:1-20 『獄中で夢を解く』 2008/11/09 松田健太郎牧師

創世記 39:1~20
39:1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。39:3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。39:4 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。
39:5 主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。
39:6 彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。
39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。
39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。
39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
39:13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、39:14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。
39:15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」
39:16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。
39:17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。
39:18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」
39:19 主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。
39:20 ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

皆さん、神様に愛された人は、どのような人生を送ると思いますか?
「あの人は“神様に愛された人”だ。」と言った時、皆さんはその人が送る人生はどのようなものだと想像するでしょうか?
幸せで、平安で、何事もなく、辛い目にも合わず、働かなくてもお金が舞いこんで来て、好きなことだけしていれば生活できるような、そんな心地よい人生を想像するのではないでしょうか。

ちょっと違う話をするようですが、以前、僕はある人がこの様なことを言うのを聞いたことがあります。
「あんなに良い人がこんな目に合うなんて、本当に神様がいるとは思えない!」
「自分はこんなに良い事をしてきたのに、どうしてこんな目にあわなければならないの?」

私たちが当たり前のように思っているひとつの考え方がここにあります。
それは、「神様に愛されたなら、素晴らしい人生が待っているに違いない。それは何の苦難もなく、辛い経験もなく、ただただ幸せな人生に違いない。」という考え方です。

しかし、聖書にはそれとは全く違うことが書かれているのです。

ヘブル 12:5b 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

神様に愛されて、子供として扱われるなら、私たちはみんな懲らしめを受けます。
聖書に登場する、神様に愛された人たちは、みんなそれぞれに苦難や試練を経験しました。
何だかそれだけ聞くと、神様に愛されるのが怖くなってきますね。
しかし、もちろん懲らしめがあって苦しいだけの人生ではありません。
今月のお話の中心人物であるヨセフも、神様の選びを受けて神様に愛されたひとりでしたが、大変な試練の中を通されたのでした。
今日は、彼の人生を通して主を信頼することに関して、ともに学んでいきたいと思います。

① 管理人として働く
実の兄弟たちによって奴隷として売られて、ヨセフは遥かかなたエジプトにまで連れてこられました。
皆さん、ヨセフと同じ立場だったらどう感じるか想像してみてください。
大切に育ててくれたお父さんから引き離されてひとりでいる孤独、心細さ、寂しさ。
兄弟たちに対する怒りと悲しみ。
また、知らない国であるエジプトで、奴隷として生きていかなければならないという不安。
いろいろな思いが彼の心をよぎった事でしょう。
しかし、神様の祝福がヨセフから離れる事はありませんでした。

創世記 39:2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

主がともにいてくださるなら、私たちは困難の中にあっても決して折れてしまう事はありません。
イザヤ書に書かれているように、神様の愛は、傷ついた葦を折ることなく、くすぶるともし火の灯りを消すことなく、私たちの上に注がれるのです。
なぜなら、私たちを苦しめることが神様の目的ではありません。
神様は私たちに苦痛を与えるために困難を与えるのではなく、そこから立ち上がって新たな力を受けるため、私たちがそこで学んで正しい道を歩むために試練を与えられるのです。

ヨセフは兄弟たちに裏切られ、商人に売られ、エジプトで奴隷となりました。
その境遇自体は不幸としか言うことができません。
しかし、そのような状況にあっても祝福が与えられ、喜びに満ちるヨセフは主人の目に留まり彼はやがて主人の全財産を任せられるほどの信頼を受けました。
そしてヨセフに注がれた神様の祝福はヨセフからあふれ出て、彼の周りの人々、つまりエジプトの主人の上にも影響を与え始めたのです。

皆さん、私たちが人々に神様を伝える最大の伝道方法は、私たち自身が神様の与えて下さる幸せにあふれる事です。
それは、経済的な成功や、名誉な地位を受けると言うような現世的な成功を、必ずしも意味するのではありません。
例え状況は苦しくても、環境としては決して羨むような状況でなくても、神様が与える恵みをいっぱいに受けて平安の中で過ごすとき、人々は自然とそこに惹きつけられていくのです。

皆さんも、“まじめだけど、辛そうに一生懸命がんばってる人”よりも、“大変な状況にあるのに、それでも笑っていられる人”の方が魅力的に感じられませんか?
神様に信頼し、ゆだねて生きる生き方とは、その様なものなのです。
ヨセフは神様にゆだねないでは生きていく事ができない運命の中で、神様の祝福を豊かに受け取ったのです。

② 誘惑と投獄
さて、神様に愛される人生を歩む時、私たちは神様から与えられる成長のための試練を受けますが、私たちが経験する苦難はそれだけではありません。
悪魔もまた、私たちを神様の祝福から引き離そうとして活発に活動し始めるのです。

魅力のある人に惹きつけられるのは、必ずしもよい人たちばかりではありません。
ヨセフが仕えたエジプト人ポティファルの妻もまた、ヨセフに魅力を感じ、彼を罪の道に引き込もうと誘惑しました。
しかしヨセフは、最後までその誘惑に陥ることはなかったのです。
ヨセフはこの様に言って、ポティファルの妻からの誘惑を退けました。

39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

彼は誠実で、意志が固い人物ですね。
自分を信じてくれたポティファルを裏切りたくないという気持ちも強かったでしょう。
私たちが誘惑に打ち勝つには、彼のような心の強さをもつ必要があります。
でも、それだけではありません。
ヨセフが誘惑に打ち勝つ事ができたのは、今自分に与えられている祝福の全てが、神様から与えられたものである事を知っていたからでした。

ヨセフはさらに、誘惑を遠ざけ、誘惑を受ける機会を可能な限り少なくしました。

39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。

ヨセフがもし、すべての幸運や祝福を自分の手で勝ち取ったのだと思っていたとしたら、ポティファルの妻が自分に魅力を感じるのも当然の事だと思ったかもしれません。
そこにおごりや高ぶりがあれば、ヨセフは自分を過信して、彼女にもっと近づいたのではないでしょうか。
ヨセフは自分の力を過信せず、神様を畏れる心があったのでした。
聖書にはこのように書かれています。
箴言3:7 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。

神様を怖がりなさいと言っているのではありません。
この世のどんな力にも勝り、すでに悪魔に勝利した全能の父なる神の力を信じる事。
それこそが、主を畏れる事なのです。

でもこのような努力と慎重さにも関わらず、ヨセフの身には最悪の事態が起こりました。
ポティファルの妻が嘘の証言をした事によって、ヨセフは監獄に入れられる事になってしまったのです。
奴隷であるだけでも厳しいことなのに、彼は正しく生きてきたにも関わらず、奴隷よりもさらに立場の悪い囚人となってしまいました。
それこそ、「こんなにがんばったのに、どうしてこんな目にあうのか!」と嘆きたくなる状況だったでしょう。
しかし、それでもヨセフは、神様の愛を信じ続けたのです。
彼は主がともにいてくださる事を信じていたので、ヨセフはそこで絶望する事はありませんでした。
ヨセフは人ではなく主を畏れ続け、神様のなさる御業を待ち望んだのです。

皆さんは、絶望と見えるような状況の中でも、祈り続ける事ができるでしょうか。
絶望的な方向に転がり落ちていくように思えるその時に、それでも主が共におられる事を信じ続ける事ができるでしょうか。
その様な時にこそ、私たちの信仰が試されるのです。

③ 獄中での解き明かし
奴隷から囚人へ。
どう考えても絶望的な事態となっていく中、ヨセフは牢獄でふたりの人物と出会いました。
ふたりの人物とはエジプト王(パロ)の献酌官(いわゆる毒見役)と、調理官です。
その時ふたりは奇妙な夢を見たのですが、その夢の意味がわからず、不安に苛まれてイライラしていました。
さあ、ここでまたもやチャンスがやってくるわけです。
ヨセフには、神様から与えられた夢を解き明かす力があったからです。

ヨセフはそのふたりに声をかけます。
「夢を解き明かす事は神様がなさることではありませんか。それを私に話してください。」
そこで最初に献酌官が自分の夢について話すと、ヨセフはそれが良い夢である事を解き明かしました。
必ず疑いが晴れて三日後に出獄できるから、その時には自分の事を覚えていて、無実の罪で投獄されている自分のために釈明して欲しいとヨセフは頼んだのです。

献酌官の夢が自分の夢と似たものであり、いい夢である事を知った調理官は、自分も良いことを言ってもらえるに違いないと思ってヨセフに夢を打ち明けました。
しかし、その夢の解き明かしは献酌官のものとは逆で、三日後にパロに裁かれて処刑されるというものでした。

かくして三日後、献酌官はヨセフの解き明かしの通りに釈放され、調理官は処刑されてしまいました。
その時献酌官は、ヨセフが夢の解き明かしで語ったように、恩赦にあずかって出獄したのですが、ヨセフに掛けられていた嫌疑は晴らされることがありませんでした。
献酌官はヨセフのために釈明するどころか、ヨセフのことなどすっかり忘れてしまったのです。

いつまで待てばいいのか分からない状態で待たされることほど辛いことはありません。
明日こそ迎えが来るに違いない、そう思って待っても、待っても、迎えは来ない。
ヨセフは結局、絶望的とも言える2年間を監獄で過ごしました。
しかし、いつまで経っても迎えは来ず、ヨセフが釈放されることはなかったのです。

ヨセフの事を忘れ、二年間もほったらかしにするなんて、献酌官もひどい奴だと思われるかもしれません。
しかし、これはこれでよかったのです。
これもすべて神様の計画のうちなのです。
献酌官がもし、出獄した時にヨセフの釈明をしていたら、ヨセフは釈放されてそれなりに良い暮らしができたかもしれませんが、おそらくそれはそれだけの事で終わっていたでしょう。
あるいはヨセフが牢獄で何年も過ごす事によって、内面的に変えられる必要があったのです。

私たちも今、誰かに忘れ去れている事があるかもしれません。
現時点では、どうしてそのような事になるのか判らない事もたくさんあるでしょう。
それは、それでいいのです。
私たちが今、苦難のときを経験しているのであれば、それは私たちが学び、経験しなければならない事があるからかもしれません。
でも、私たちが今与えられている経験から忠実に学んでいくなら、やがてもっと大きな祝福が与えられることになるのです。

私達は神様のタイムテーブルを信じて、神様の時を待ちましょう。
その先には、あふれんばかりの祝福が待っているのですから。

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