マタイ3:1-17 『バプテスマを受ける』 2009/01/11 松田健太郎牧師

マタイ3:1~17
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 

2008年は、この教会で10人の方が洗礼を受けました。
ですから今日いらっしゃる皆さんも、一度ならず洗礼式を見たことがあるだろうと思います。
洗礼式の時に、洗礼についてお話しをしたりしていますが、皆さんは洗礼とはどのようなものなのか、その意味を理解していらっしゃるでしょうか?

洗礼という言葉は一般的にも使われることがありますが、その場合には「初めての体験」というような意味で使われています。
クリスチャンになる初めての時に洗礼を受ける事から、その様な意味として使われるようになったのでしょうが、それは洗礼の意味とは全然違います。
また、多くの人は洗礼というのは、「罪を清める儀式」として認識をしているようです。
旧約聖書では、実際に穢れたものを清めるために水で洗う「清めの洗い」というものが律法として記されています。
日本人が神社でまず手を洗うのも、実はこのユダヤ人の習慣から来ているなんていう話もあるんです。
ですが、洗礼というのはそれとも違うものなのです。

洗礼式とは、その式を通して古い自分が死に、新しい命を得て新しい自分を始めるという事を象徴したものです。
ですから一般的には水の中にザブンと浸かってから再び上がってくるという形で洗礼式を行うんです。
恵さんや雄太くんの洗礼の時にした水をたらすという洗礼を「潅水礼」という呼び方をしますが、これは形を簡略化したものですね。

私達クリスチャンが行う洗礼というのは、私達がクリスチャンになったしるしとして受けるものです。
間違えてはならないのは、洗礼を受ける事によってクリスチャンになるのでも、洗礼を受けたから救われるのでもないという事です。
クリスチャンになる事をキリストとの結婚として例えられますが、洗礼というのは言ってみれば結婚式ですね。
イエス様との個人的な関係を結び、キリストと共に歩む新たな道をこれから歩みますという自らの決意を示すのが洗礼であって、洗礼そのものは儀式でしかありません。
そこに婚姻生活がなければ、結婚式だけをしても意味がないという事ですね。

洗礼というのは、クリスチャンだけのものではありません。
昔はユダヤ人も洗礼を行っていました。
当時のユダヤ人が行っていた洗礼は、異邦人がユダヤ教徒となるために行っていたものです。
異邦人は汚れているので、悔い改めて洗礼によって新たに生まれ変わるのでなければユダヤ教徒となる事はできないと信じられていたのです。
逆に言えば、選ばれた民であるユダヤ人には、悔い改める必要はないと教えられていたのです。
ですから、元々ユダヤ人である人にとっては、洗礼は他人事でした。
しかしある時、その常識を覆す教えをする預言者が現れたのです。

① バプテスマのヨハネの働き
異邦人だけでなく、ユダヤ人たちに対しても悔い改めて洗礼を受けよと教えた人物、その人はバプテスマのヨハネと呼ばれていました。
あらゆる祭司や学者たちが自分たちの権威を誇示して着飾る中で、彼はらくだの毛の衣を着、腰には皮ひもをベルト代わりに巻き、食べ物はもっぱら野蜜といなごという変わり者でした。
野生身にあふれたその姿は、神様に人生のすべてを捧げた預言者たちを彷彿とさせました。
人々はこのヨハネを見て、預言者エリヤの再来だと言い、彼の言葉に耳を傾けました。
事実、彼こそ、旧約時代の最後の預言者なのです。

バプテスマのヨハネは、人々にその大きな声で訴えかけました。
「悔い改めよ! 神の国は近づいた!」
そう言って、異邦人だけではなくユダヤ人たちにも自分の罪を悔い改めるように教え、悔い改めをした人々に洗礼を授けていたのです。
彼の言葉はとても厳しいものでしたが、その言葉は行き詰まりを感じて救いを求める人々の心に響き、人々は次々とヨハネに従って、自らの罪を悔い改める洗礼を受けました。

バプテスマのヨハネが授けていたこの洗礼は、私達が受ける洗礼とは意味が違うものです。
私達が教会で受けるバプテスマは、イエス様の救いを受け入れて、イエス様と共に新たな人生を歩む決意のためのバプテスマですが、ヨハネが授けていた洗礼は「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれています。
これは、本当の救い主が現れる前の心の準備として、今までのあり方を悔い改めて方向転換をしてそれに備えるという決意を表すためのバプテスマでした。
だからヨハネは「悔い改めたら天国に行ける。」では言いませんでした。
「天の御国は近づいている。だから悔い改めなさい。」と人々に語ったのです。

悔い改めというのは、ただ自分の罪や過ちを悔やんで改めるという事ではなく、これまでの人生で自分が神から離れて自分自身が神になろうとしていた事を認めて、神様に立ち返ることです。
その様な教えを耳にした人々の中では、このヨハネこそ待ち望んだメシヤ・キリストではないかという期待が膨らみ始めていました。

② ヨハネとイエス
しかし、人々の期待に反して、ヨハネは自分がキリストではない事をよく知っていました。
そうではなく、彼の役割は、キリストが現れる前に人々の心を整える事でした。
旧約聖書にはキリストが現れる前にその道を整える者が送られるという事が預言されていますが、バプテスマのヨハネこそ、まさにその役割を担う預言者だったのです。

だからヨハネは、人々にこのように言いました。
3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

ヨハネが授けている洗礼は、本当のキリストが来たときにそれを受け入れるための、心の準備でしかありません。
だから悔い改めのバプテスマによって人々は救われるのではなく、後から来られるキリストを信じる事が必要でした。
ヨハネは言います。
「自分の授けるバプテスマは、水で授ける儀式でしかないが、本当のキリストが来たときには、その方は私達に聖霊と火によって真の命を与えられる。そしてその方は、主にある者に豊かな恵みを与え、悔い改めない者をその聖なる炎で焼き尽くされるお方だ。私などはその方の奴隷になるほどの価値もない。」

人々はどよめきました。
彼らはこのバプテスマのヨハネこそメシヤ・キリストだと思っていたのに、この人でさえ奴隷である価値もないような方が来られるとは、一体どういう事なのか。
この様にして、救い主を待ち望む機運はますます高まっていったのです。

③ イエスのバプテスマ
さてその後、ひとりの人物がバプテスマのヨハネのもとを訪れました。
30歳となられたイエス様です。
12歳の時に神殿で起こった出来事の後、イエス様は18年間を大工として過ごされましたが、神様の時は満ちて、イエス様はキリストとしての人生を歩み始められようとしていたのです。
イエス様はそのスタートを、ヨハネが授けている洗礼によって始めようとしていました。

自分の元に、洗礼を授かりにきたイエス様を見て、ヨハネは驚きました。
ひと目でそれが、救い主であるという事に気づいたからです。

実を言えば、イエス様とバプテスマのヨハネは遠縁の親戚同士です。
マリヤが聖霊によってイエス様を身ごもった同じ頃、ヨハネの母エリサベツも奇跡的な高齢での妊娠によってヨハネを身ごもっていたのです。
マリヤは御使いからその事を聞き、エリサベツに会いに行ったことがありました。
その時、エリサベツはマリヤの身にもまた奇跡が起こったという事を、すぐに知る事ができました。
マリヤがエリサベツを訪れた時、お腹の子供が踊るかのように激しく動いたからです。
エリサベツのお腹の中にいたヨハネは、マリヤのお腹の中にいるイエス様の存在を感じ取って喜び踊ったのでした。
その後、親戚同士ではありましたが、ヨハネとイエス様が顔を合わせる事はなかっただろうと思われます。
しかしこの時、お互いに名乗りあう事もなく、ヨハネはイエス様こそがキリストであると知る事ができたのです。

しかし、ヨハネはイエス様が洗礼を受けようとしている事に戸惑いました。
ヨハネは言っています。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

ヨハネが授けていたバプテスマは、悔い改めのバプテスマです。
しかし、イエス様は悔い改めるべき罪を持っていませんでしたから、バプテスマを受ける必要がありません。
それどころではない、自分の方こそイエス様から聖霊と火のバプテスマを受けなければならないのに、イエス様の方がバプテスマを受けるとは、一体どういう事なのだろうとヨハネは考えたのです。
しかしイエス様はこの様に応えました。

3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

ここでイエス様によって表されたのは、ひとつには洗礼を受ける事が正しい事であるという事です。
洗礼は、イエス様との関係を結ぶための結婚式のようなものだとお話ししました。
しかし、洗礼は信じる者にとって、してもしなくてもどちらでもいいものではありません。
確かに、洗礼を受けなければ救いを受けられないというものではないですから、洗礼受けることなく天国に行かれる方もたくさんいらっしゃるでしょう。
でも、洗礼を受けるという事は、神様がそうしなさいと言っている事なのですから、私達が神様に従うことによって自分自身の信仰を明らかにする事なのです。
私達は、神様に従おうともしないで、「神様を信じています。イエス様こそ私の主です。」なんてどうして言えるでしょうか?
私達は信じるのなら、信じている者として行動するのではないでしょうか?
洗礼は、信じる者にとってその信仰を示す最初の一歩です。
そして、私達が主を信じて行動するとき、神様は私達に素晴らしい御業を見せてくださるはずです。

イエス様が洗礼を受けられた事には、もうひとつの意味があります。
それは、イエス様がキリストとして、私たちの元に来てくださったその理由と重なります。
罪のないイエス様が、罪のある者として洗礼を受けられたという事。
それは、罪のないイエス様が十字架にかけられ、罪の報酬である死を私たちに代わって支払われたという事と同じです。

イエス様による罪の贖いは、十字架の上で完成しました。
でもそれは、十字架だけで完結する出来事ではありません。
キリストとして歩み始められるその時から、イエス様は罪人の身代わりとして罪を背負われたという事は始めっていたのです。

その時、天が開け、神の御霊が鳩のように下ってイエス様の上に留まりました。
そして、天からこう告げる声が聞こえました。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

イエス様が真に神の子、メシヤであるという事が明らかにされて、ここに人類の贖い、十字架へのカウントダウンが始まりました。
それは、御子、聖霊、父なる神の三位一体の神がすべて関わる大事件でした。
これまでの人類の歴史で、三位一体の神様がこの様にして介して表舞台に現れた事はありませんでした。
人類救済の計画とは、神様がそれほどまでに力を尽くしてなされたものだったのです。
ひとりでも多くの皆さんが、神様から述べられたこの救いを手にし、主に従う人生を歩む事ができますように。

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