ルカ8:22-25 『あらしをしずめる』 2009/03/01 松田健太郎牧師

ルカ8:22~25
8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。
8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

わたし達の人生は、何一つ問題がなく、すべてが順調に進んでいくとは限りません。
時として、わたし達が思いもよらないことが起こって戸惑う事もあるものです。
それは、信仰をもっていようといなかろうと同じことで、クリスチャンになったからといって人生の中でいい事ばかりが起こるようになるというわけではありません。
しかし、同じ試練や困難を経験しても、イエス様を信じる前と信じた後では、その捉え方が変わっていくのではないでしょうか?
今日は、弟子たちの経験を通して、その事を共に学んでいきましょう。

① あらし

8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。

今日の聖書箇所からわかる第一の事は、イエス様がわたし達に道を示してくださるという事です。
この時にイエス様は、弟子たちにガリラヤ湖を横断する道を示されました。
目的地にたどり着くためには、湖を迂回する道だってありましたが、イエス様は敢えてこの道を示されたのです。
イエス様は時として、わたし達に激しい道を行くように示す事があります。
多くの場合は、その先にどんな事が起こるのかわたし達にはわからないわけですが、大切なのは、わたし達がひとりではないという事です。
イエス様が、その道を共に歩んでくださいます。
そしてイエス様ご自身がこの道を示したのですから、イエス様は決して、途中で私たちを見捨てたり、見放したりはしません。
この様な詩篇がありますね。

詩篇 23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
わたし達はその事をしっかりと覚えて、主に従って行きたいものですね。

弟子たちもイエス様が導かれる通りに、ガリラヤ湖を舟で横断し始めたのでした。
ガリラヤ湖と言うのは海水面よりも212メートルも低く、湖の形としてもすり鉢状になっています。
そしてその地形の構造上、周囲の山から突風が吹いてくる事があるんですね。
さっきまで晴れていたのに、雲が突然厚くなって、雨が降り出し、風が強く吹いてくるという事があります。

この時代に湖を渡るために使われていた舟は決して小さなものではりませんが、それでもそんなにしっかりした船というわけでもありません。
突然の突風に大波が起こると、舟も水をかぶって沈みそうになる事もありました。
彼らがガリラヤ湖を横断していた時にも、この様な突風が突然吹き始めたのです。
それは、漁師をしていた弟子たちでさえ驚くような、突然の嵐が彼らを襲ったのでした。

「大変だ!」と言って弟子たちが慌てて舟を操作する中で、イエス様は何事もないかのようにぐっすりと眠っていました。
こんな嵐と大騒ぎの中で眠っていられるなんて、どんな神経をしているんだろうと弟子たちも思ったかもしれません。

わたし達の人生にも、突然の嵐が吹き荒れる事があります。
そんな状況の中でわたし達の心は掻き立てられ、平静を失うかもしれません。
しかもそんな時、祈っても祈っても、神様は眠ってでもいるかのように何も答えがないように思えることがあります。
皆さんはその様な体験をなさった事があるでしょうか?
そしてそんな時、わたし達は一体どうすればよいのでしょうか?

② 信仰

8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。

「先生、先生。」と2度繰り返しているところが、切羽詰った様子を表していますね。
彼らはよほど慌てていたのでしょう。
イエス様に対する先生・指導者という認識から、神と同等である“主”という認識に変わっていたはずだったのに、この時にはついつい“先生”に戻ってしまっています。
しかし彼らのこの呼び方が、この時の彼らの信仰の度合いを表してもいる様でもあります。

弟子たちはイエス様を起こしました。
「先生、嵐です! このままではわたし達はおぼれて死んでしまいます!」
それは、危機に面して主に助けを求めるというよりは、パニックになって「どうしましょう!?」と言っているだけのように聞こえますね。
マルコによる福音書では、この時にこの様な言葉も出たという事が記録されています。

マルコ4:38 「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

「何をなさっているんですか! 寝ている場合じゃないでしょう!」と言って非難しているわけですね。
彼らはこれまでに、イエス様がたくさんの奇跡を起こしたのを見てきたはずでした。
医者から見捨てられた人々が癒されるのを目にし、悪霊が追い出され、プロの漁師にも捕れない魚を大漁に捕らせる事ができるのがイエス様なのです。
しかし彼らは、そんな事など忘れてしまったかのように、今目前にある危機的状況に捕らわれて、イエス様がどういう方かがわからなくなってしまっていました。

イエス様は弟子たちに起こされると、慌てることなく風と荒波を叱りつけました。
すると、嘘のように嵐が去って行ったのです。
そして弟子たちに向き直ると、今度は彼らにこのように言って叱りました。

8:25a イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。

わたし達もそういうことがないでしょうか?
普段は「わたしはクリスチャンです。」という顔をして「イエス様、イエス様」と言っていても、人生の中に嵐が吹き始めると途端にパニックになって、「どうしよう、どうしよう」と慌て始めてしまう。
この様な危機的状況のときにこそ、わたし達がどう振舞うかを通して、わたし達の信仰が試されます。
危機的状況で慌ててしまうのは、神様はこの状況を変える力を持っているという事を信じていないという事に他なりませんね。

主が共におられるのではないのでしょうか?
例え寝ているように思えたとしても、主が共にいて下さる限りわたし達は大丈夫なのです。
天地を創られた主に信頼して、落ち着いて物事に対処したいものです。

③ なぎ
さて、イエス様が風と荒波を叱り付けると、嵐は去っていきました。
それを見て、弟子たちは驚いてこのようにもらしています。
8:25b 弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

後になって、ペテロがこの問いの答えを見つけていますね。

「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」という問いに答えて、「神のキリストです。」とそう答えています。(ルカ9:20)

イエス様は神と一体であるからこそ、必要であれば嵐を鎮めることも何という事もありません。
そして主には、もちろんわたし達の人生に吹き荒れる嵐を鎮めることも可能です。
また、たとえその嵐の真っ只中にあったとしても、わたし達は主に信頼して、平安でいることができるのです。

僕が人生の嵐を思い描く時、僕は必ず5年前の事件が思い出されるんですね。
何度も話してきましたので聞き飽きている方もいらっしゃるかもしれませんが、初めて聞かれる方もいらっしゃると思いますので手短にもう一度お話ししたいと思います。

2003年のクリスマス、僕と妻は妻の両親がいるアメリカを訪れていました。
そこに、日本の両親から一通のメールが届いたのです。
そのメールには、父が働いていた会社が倒産したという事が書かれていました。
そして、その頃僕たちが住んでいたマンションの部屋は、父の会社の社長の持ち物でしたから、抵当として取られるため、僕たちはすぐにでも引っ越さなければならない。
不安な気持ちを残したまま、僕たちは年を越し、2004年の一月に帰国すると、すぐに引越し先を探し始めました。

そこにはいくつかの問題がありました。
第一に、それまで住んでいたマンションは、大きな修繕工事の最中だった事。
その費用はその部屋の持ち主である社長が払うはずでしたが破産してしまったため、マンションの管理人さんがその費用を僕たちに払って欲しいと言い始めたのです。
第二に、引越し先の初期費用を含めて引越し費用が必要な事。
第三に、車の車検が2月に切れるという事。そこにも費用がかかります。
第四に、神学校の学費の支払を3月にしなければならないという事。
おりしも、アメリカに行ったばかりだったという事もあって、貯金もそれ程残っていませんでした。
どう考えても、お金が足りない。
全ての事が一度に起こって、自分たちの力ではとても乗越える事ができそうになく、僕たちはイエス様の弟子たちと同じように、パニックに陥ってしまいました。
そしてその直後に第五の問題が起こったのです。

妻の妊娠。
出産費用を9月までに用意しないといけない。
結婚して8年、全然子供が出来なかったのに、よりによってこんな時に・・・。

しかしその時に、僕はこの全ての出来事の中に主がいてくださる事を確信したんですね。
「よりにもよってこんな時に」というタイミングは、神様がそれをしているからだと思えたのです。
同じような経験の中で、「神様はひどい。残酷だ。」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、主は愛してくださっている、そして全てを解決する力を持っているという信仰があるなら、神様がしてくださっているのだから大丈夫だと思えるのです。
事実、主はちゃんとその状況を乗越えさせてくださり、全ての事を祝福に変えてくださいました。
僕達はたくさんの奇跡と愛の業を目にし、たとえ死の陰の谷を歩む時でも恐れる必要がないという事を体験する事ができたのです。

僕が新たな困難、人生の嵐に遭遇した時、いつでもこの時の記憶が蘇ってきます。
そして、神様はあの時にあの状況から僕を助けてくださったのだから、今回も大丈夫だという確信と平安を持つことができるのです。

わたし達が人生の中で嵐を経験する時、わたし達が自分自身に問いかける必要があるのはただひとつの事です。
「わたしは、主と共にいるのだろうか?」
もし離れていたと感じるなら、すぐにでも主の下に行くことができます。
わたし達が振り返るなら、主はいつでもそこにいて下さるからです。
そして、わたし達が主と共にいるのであれば、わたし達はどんな状況に面していたとしても決して恐れる必要はありません。
ただ、主に信頼し、より頼む事です。
わたし達が主の道に従い続ける限り、わたし達は決して恐れる必要はないのです。

嵐の真っ只中で僕を救ってくれた御言葉を分かち合って、今日のメッセージを終わりたいと思います。

イザヤ 43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

主の守りが、わたし達と共にあります。
主にある平安が、いつでも皆さんと共にありますように。

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