ヨハネ6:1-15 『5000人の給食』 2009/03/08 松田健太郎牧師

ヨハネ6:1~15
6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
6:15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

皆さんは、「どうしたらいいんだろう。」「これは不可能だ。」という状況を経験した事がありますか?
今のこの日本の社会では、そんな経験をする事も決して珍しい事ではなりかもしれません。
経済も、政治も、またひとりひとりのモラルや常識も崩れ、不安や暗い気持ちばかりが圧し掛かってくるようです。
僕自身、牧師という仕事をしていると、様々な所でそのような話を聞きますし、日本で福音を伝えていくという事の難しさに、投げ出したくなるような時もあります。

「どうしたら、この人に神様の愛が伝わるんだろう?」
「どうしたら、この人が本当の救いとは何か知ることができるんだろう? 」
「どうしたら、この人が陥ってしまったこの状況から抜け出す事ができるだろう?」
神様が、僕をこの方と出会わせてくださった事には意味があるはずだと思いながらも、思うようにはいかなくてがっかりする事も少なくはありません。

2000年前、イエス様の弟子達は「不可能だ」という状況に何度も立たされました。
その中で今日取り上げているのは、5000人の給食と呼ばれている話です。
ここでわたし達は新たなイエス様の奇蹟を目にするのですが、これは数ある奇蹟の中でも唯一、4つの福音書全部で取り上げられている奇蹟なのです。
福音書の著者の全員が、この事は外せないと感じるほど、これは大切で衝撃的な奇蹟だったという事です。
今日はイエス様がされた中でもっとも重要なその奇蹟の意味を、一緒に考えてみたいと思います。

① 絶望的な状況
イエス様の周りには、五千人の人々が付き従っていました。
彼らは、イエス様がここに来ると聞いて集まってきた人々でした。
辺りには何もないような場所でしたから、ここには病人の人たちはあまりいなかっただろうと思いますね。
癒されようとして集まってきた人々ではなく、話を聞こうとして集まってきたのでしょう。

さて、ここに出てくる五千人という人数、これはこの当時の習慣に従って、男性だけを数えた人数です。
でも、ここには女性もいたでしょうし、子供たちもいたのです。
そう考えると、少なく見ても一万を超える人々がここにいただろうと思われます。

日本武道館の収容数が11,000人ですよ。
つまり日本武道館を埋め尽くすような人数が、この時イエス様についてきていた訳です。
すごい人数ですね。
その群集を前にしたイエス様は、ピリポに尋ねます。

6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」

もう少ししたら食事の時間だったのでしょうね。
さあ、これは大問題です。一万人もの人々を、どうやって食べさせましょうか?
イエス様の弟子の1人であるピリポは、このように応えています。
「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

1デナリが1万円くらいだと考えてください。すると、200デナリはおよそ200万円。
なかなかの額ですね。
そうすると、1万人いたのですから、ひとり当たり200円。
まあ、お話しにならないとは言いませんが、何十キロも歩いてきてくたくたに疲れているだろう人々に食べさせるには、確かに少なすぎます。
大体そんな大量のパンを、どうやって買って持ってくるのでしょう?

「無理ですイエス様。そんな事はできません。」というのがピリポの計算の結果でした。
わたし達の常識だけで考えるなら、それは確かに無謀です。
じゃあ、皆さんならどう答えますか?
どこからパンを買ってきて、どうやって1万人の人々を食べさせるでしょうか。

② わたし達の信仰
ところがですね、6節を見ると、ピリポを試したのだと書かれています。

6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

イエス様はこれまでに、何度も何度も弟子達の前で奇蹟を見せてきました。
その奇蹟によって、たくさんの人々が癒されたんです。
そして癒された人々に対して、この様に言いました。「あなたの信仰が癒したのです。」
信じたから、その奇蹟が起こった、とイエス様は言いました。
一方で、イエス様が故郷のナザレに帰ったときには、人々に信仰がないので、人々を癒すことがおできになられなかったと書かれています。

さて、イエス様が1万人の群集を前にして、奇蹟を起こされようとするその時、弟子達に求められたのは彼らの信仰です。
それは、イエス様は神の子であるという信仰。
イエス様が世界の創造主、神様の子なのであれば、不可能はないのだという信仰。
それを、彼らは試されているのです。

しかし、ピリポの答えは、「無理です。できません。」というものでした。
ピリポの答えは冷静で現実的です。
自分達が今いくら持っていて、一万人の群衆を見渡して、200万円で彼らを食べさせることができるかどうか、どうやって手に入れるのかを瞬時に判断したのです。
頭がいいですよね。
しかし、それはこの時の彼らに求められていた答ではありませんでした。

そのやりとりを聞いていたもう一人の弟子アンデレが、ここで口を出します。

6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

アンデレは、とにかく目にしたものを口にしてみたんです。
ここに、パンが5つと、魚が2匹ありますよ。
でも、それがあまりにも無意味に思えたので、アンデレもすぐに取り消してしまいました。

そりゃあ、そうですよね。
今、日本武道館いっぱいの人々がいて、みんなお腹がすいてイライラしている訳ですよ。そんな中、「ここにパン5つと、小さい魚2匹があります。皆で分けて食べましょう。」
誰でも馬鹿じゃないかと思いますよね。
でも、そこにイエス様がいらっしゃるのだから、不可能はないのです。
弟子達はこれまでにも、イエス様が多くの奇蹟をなすのを見てきました。
イエス様が人々を癒し、水の上を歩き、嵐の湖を静め、死人が蘇るのを見たのです。
わたし達にとってはできるはずのないバカバカしい事だとしても、神様にはできるのです。
皆さんはどうですか?
皆さんは、イエス・キリストが神の子、救い主である事を信じていますか。
では神様はどんな問題も解決する事が出来ると、信じることが出来ているでしょうか?

私たちクリスチャンは、みんな奇蹟を見たことがあります。
それは、こんな希望の無い世界に生まれ、神はいないという教育を受け、人生に沢山のつまずきを経験してきた私たちが、神様を知り、イエス様を知り、クリスチャンになったということ、それが奇蹟でなくて何でしょうか。
その奇蹟を目にしていながら、私達はピリポやアンデレのように、常識的な部分だけを見て、出来ないということに捕われてはいないでしょうか。
「今までがこうだったから」、「自分はこう感じている 」という事に、捕らわれしまってはいないでしょうか?

この時イエス様は、弟子達に信仰が無い事を嘆き、ナザレで奇蹟を行わなかったように、1万人の人々を飢えたまま家に帰すという結末もありえました。
実際、わたし達は人生の中で、最後まで信じないであきらめてしまったためにどれだけチャンスを失っている事でしょう。

しかし、アンデレがぽつりと言った一言、「ここに5つのパンと、2匹の魚があります。」という言葉。
アンデレはすぐにそれをとり消してしまいましたが、そこにはからし種ほどの信仰がありました。
イエス様は言っています。
もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)
そういう意味では、あまりにもバカバカしすぎて口にする事も恥ずかしかったけれど、アンデレの心の内にあったからし種の信仰が、イエス様に奇蹟を起こさせたのです。

からし種でもいい。
主を信頼し、最後まで信じる信仰が皆さんの中にはあるでしょうか?
からし種の信仰がわたし達にあるなら、わたし達は主の御業を目にする事ができるのです。

③ 主の力
イエス様は感謝を捧げると、そのパンと魚を人々に分け与えました。
1万人にもなるような群集は、5つのパンと2匹の魚を欲しいだけ取りました。
一万分の一の破片を口にしたのではありません。
しかし弟子達が、残ったパンくずをかごに集めると、12の籠にいっぱいになりました。
増えてるじゃないですか?!
これはどういうことですか? こ~んなに大きなパンだったということでしょうか。
2匹の魚って2匹のくじらだったりして。
でも、そうとでも考えないと計算が合いません。

ある神学者たちの中には、これは自分の分のお弁当を隠し持っていた人達が、小さなパンと魚を分かち合った信仰に感動して自分のお弁当を差し出したのだというような、まことしやかな解釈をする人たちもいます。
でも、それはいい話かも知れませんが、4人の福音書の著者たちが「これだけは絶対に載せたい」と思うほどの衝撃がある話ではありませんね。
4人が4人ともこれを書きたいと思ったのは、それがよほど印象に残っていたからです。
それがよほど不思議な出来事だったからです。

皆さん、パンが増えている瞬間を想像できますか?
水の上を歩いたり、病を癒したり、人が生き返るというのは、まあイメージできます。
映像として思い浮かべる事ができるからです。
でも、パンが増えるその瞬間というのは、どうやって増えるのかなんて想像がつかない。
神様の奇蹟は、わたし達の想像なんて超えて、どんな事でもすることができるのです。
それは、創造主でなければ不可能な事、そして創造主だからこそ可能な事です。
そしてそれは、イエス様が真の神の子であり、私たちをどんな絶望からも救う事が出来る方だということを表しています。
わたし達が主を信じるとき、創造主のちからがわたし達とともにあるのです。
だから、わたし達はそれを信じなければなりません。

イスラエルの歴史の中にも、強く信仰に立つ人たちがいました。
アブラハムは、自分の故郷から離れて見た事もない地に行けと神様に言われ、それを信じて旅立ち、信仰の父となりました。
モーセはイスラエル人たちがエジプトで奴隷として生きていた時、信仰を持ってパロと闘い、ついにエジプトを脱出しました。
ヨシュアは信仰を持って神様を信じ、頑丈なエリコの城塞が崩れるのを見ました。
信仰によってダニエルは炎の中を歩み、信仰によってイザヤはキリストを見ました。
この時にイエス様を信じることが出来なかった弟子達も、イエス様が十字架にかけられて死に、3日後に蘇るのを見たとき、信仰によって変えられたのです。

では私達は何を信じるのでしょうか?
私たちにとって信仰とは何でしょうか?
私たちが信じるのは神様の愛です。
神のひとり子イエス・キリストが、私たちのために十字架に掛かってくださり、私たちと神様の関係を阻んでいた罪がそれによって取り去られたということ。
それを信じるとき、そこに不安や絶望はなくなります。
それは、世界を作った神様がわたし達と共にいてくださるからです。

この日本という国で福音を伝える事は、確かに難しい。
100年かけてもたった1%しか信じません。
そんな国の中での宣教を考える時、僕が手にしているのは、1万人を前にした5つのパンや、2匹の魚よりちっぽけかもしれない。
でも僕にできるのはそれを神様に捧げ、信じることだけです。
それだけしかできません。
でも、それこそが求められている事なのです。

さあ、次は皆さんが信じる番です。
あなたにとって1万人の群れは何でしょうか?
あなたの手には、5つのパンと、2匹の魚があります。
あとは主に信頼し、手の中にあるそれを捧げるだけでいいのです。

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